作品一覧 公開作品 1341 4 5 6 7 青いトタン板と向き合う つなぎ合わされたトタン板。そこに人生がある。人生はトタン板だ。 読 む 西ヶ原三丁目の窓 歩いているときの視線の働きは、それじたいがひとつの完結した生き物なのだと、僕は思う。 読 む エトランゼとなる午後 そのときの自分がどんな自分だったかを知るための手がかりを、自分がかつて撮った写真のなかに、僕は見つけ… 読 む 道を掘る人、黄色く咲く花 別々の時と場所で写真を撮りながら、意識下では同一と言っていいパターン認識を、僕はおこなっているようだ… 読 む おなじものとして見る、という認識力 写真にあるような光景を見ると、僕はそれを写真に撮ることで認識のなかに折り畳んでいく。 読 む 傘と道路が本のなかで出会う 白いヴィニールの傘が窓の外の鉄格子にかけてある様子は、光景としては謎そのものだ。 読 む 徳利はやはり芸術なのか ふとした思いがけない片隅で、被写体は、写真機を持った呑気な人の到来をじっと待っている。 読 む そのときの光が命じるままに このふたつの写真を呼ぶのにもっとも正しいと僕が思うのは……。 読 む 説明なんかするな、と光が言う 撮ることによって手に入ったこの二点の写真には、なんの意味も重ねられてはいない。こう撮った、と説明する… 読 む よく似たふたつの景色 アスファルト舗装されたごく平凡な脇道を歩いていくと、その道の外にわずかにある土の部分に、夏の草が生え… 読 む お外の道、という精神外傷がそこにある 三歳、そして四歳といった年齢の頃の僕がこのような道を歩くのは、乳母に手を引かれた散歩のときだった。 読 む 二〇〇三年一月五日、午後から夕方にかけて 地面と平行な視線をことさらになにかに向けてそこに到達させる装置、それが写真機だ。 読 む いったいなんのことだか 写真機を持って歩いていると、撮る行為に向けて、通常よりもはるかに濃密に、精神は増幅されている。 読 む グラフィックに撮ることの自由さ 具体物や具体性のいっさいから離れ、日常も生活も人々もなんら関係なく写真を撮ることが僕にはたいへん多い… 読 む 道、というタイトルはどうか 大きなもの、長いもの、広いものなどを、ひとつの小さな点にしてしまう快感は、確かに写真のものだ。 読 む 安心はどこまで続くか 建物の頂上から、黒地に黄色の端的な三文字が、民のかまども測も、すべてを啤睨している……。 読 む 写真機は現実を抽象化するか 現実にはもっと広い範囲で見えている光景を、百ミリのレンズで切り取ると……。 読 む せつなさを写真におさめて冬至かな おなじ景色をほぼおなじ画角で、数カット撮影したフレームのおしまいに、焦点をわずかにはずしたカットがあ… 読 む 大根と電柱が景色を作る フォトジェニックであるということは、景色を作るということにほかならない。八百屋の店先で群を抜いてフォ… 読 む 自分はなぜこの写真を撮ったか 二つの写真は、路面を底辺にして構成されている空間を斜めに見下ろして、おなじように撮影されている。 読 む 布張りの街 布という二次元による、二次元半のような世界の創出。壁面があればそこに掲げる。なにもない空間なら幟を立… 読 む 見開いた二ページという世界 人の視覚によるとらえかたは、左右のページを不断に交互している。それを繰り返すことでふたつの写真を視覚… 読 む これを撮れと光が言う フィルムにとらえた光景と現実の光景とのあいだに、撮る人の予測を越える乖離がどのくらい生まれるのか? 読 む けっして対比ではなく ふたつの景色をならべれば、そこに対比がほぼ自動的に生まれてしまうのを、僕はどうすることも出来ない…… 読 む 真実をディスプレーする装置 つい昨日まではそこにあった景色が、今日は跡かたもないのが東京だから、この景色もこれから先どうなるかわ… 読 む 4 5 6 7