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片岡義男.com 全著作電子化計画

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評論・エッセイ

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作品一覧

公開作品 1280

天麩羅蕎麦はこうして生まれた

天麩羅蕎麦はこうして生まれた

 江戸には浮遊人口が多かった。江戸以外のところから江戸に向けて、数多くの人たちが流入していたからだ。…

「ザ・トーキョー・ブルース」に重なる「東京ブルース」

「ザ・トーキョー・ブルース」に重なる「東京ブルース」

戦後から続いていた、アメリカやヨーロッパの大衆文化の最新情報をめぐる鎖国に近い状態は、一九五〇年代の…

読みそこなったいくつかの物語

読みそこなったいくつかの物語

僕が二十代前半の頃は、日本全国いたるところにバーがあり、たいていの店は盛況をきわめていた。見ず知らず…

一冊の小説を読む途中

一冊の小説を読む途中

かつてアメリカは中産階級の栄える国として讃えられた。しかし、中産階級とは、つまりは工場労働者のことだ…

この世の果てで、ごめんなさい

この世の果てで、ごめんなさい

一九六四年の日本でヒットしたブレンダ・リーによるこの三つの歌は、僕にとっては二十代と重なっていた一九…

手帳が溜息をつく

手帳が溜息をつく

モールスキンの手帳が、文具店で見かけるたびに何冊かずつ買ってきた結果として、七十六冊になった。使いた…

商店街が終わって三叉路になるところ

商店街が終わって三叉路になるところ

世界でもっとも多くの人に録音された歌は「枯葉」だということになっているが、それに次ぐものを探すと、「…

サンエツ、ニシタケ、コダワラの女たち

サンエツ、ニシタケ、コダワラの女たち

ごく最近、小田急線の電車のなかで、コダワラという地名を僕は聞いた。僕の聞き違いかと思い、しばらく注意…

真夏のシャーロック・ホームズ

真夏のシャーロック・ホームズ

シャーロック・ホームズを原文のコンプリートで持っていたいという願望には、理由がふたつある。ひとつは、…

日常とは不気味な世界のことなのか

日常とは不気味な世界のことなのか

日常のなかの不気味さ、という言いかたがあるけれど、日常とはそのぜんたいが、そもそも不気味なものなのだ

東京の幾歳月

東京の幾歳月

四十年、五十年、さらにはもっと長いあいだあり続けた家には、家の内部にも外部にも幾歳月の時間が宿る。

東京の情緒 その2

東京の情緒 その2

鉄則をひとつ守ると、それと引き換えに幸せがひとつ、手に入る……。

同級生の母と歩いた道

同級生の母と歩いた道

母ひとり息子ひとりだった友だちが大阪に就職した年の夏の初め、駅の近くで彼の母親に偶然会った。

安堵して撮る被写体とはなにか

安堵して撮る被写体とはなにか

落ち着き、安心、安堵、といったものの上に立って、僕は撮ることを楽しんでいる。

青いトタン板と向き合う

青いトタン板と向き合う

つなぎ合わされたトタン板。そこに人生がある。人生はトタン板だ。

西ヶ原三丁目の窓

西ヶ原三丁目の窓

歩いているときの視線の働きは、それじたいがひとつの完結した生き物なのだと、僕は思う。

エトランゼとなる午後

エトランゼとなる午後

そのときの自分がどんな自分だったかを知るための手がかりを、自分がかつて撮った写真のなかに、僕は見つけ…

道を掘る人、黄色く咲く花

道を掘る人、黄色く咲く花

別々の時と場所で写真を撮りながら、意識下では同一と言っていいパターン認識を、僕はおこなっているようだ…

おなじものとして見る、という認識力

おなじものとして見る、という認識力

写真にあるような光景を見ると、僕はそれを写真に撮ることで認識のなかに折り畳んでいく。

傘と道路が本のなかで出会う

傘と道路が本のなかで出会う

白いヴィニールの傘が窓の外の鉄格子にかけてある様子は、光景としては謎そのものだ。

徳利はやはり芸術なのか

徳利はやはり芸術なのか

ふとした思いがけない片隅で、被写体は、写真機を持った呑気な人の到来をじっと待っている。

そのときの光が命じるままに

そのときの光が命じるままに

このふたつの写真を呼ぶのにもっとも正しいと僕が思うのは……。

説明なんかするな、と光が言う

説明なんかするな、と光が言う

撮ることによって手に入ったこの二点の写真には、なんの意味も重ねられてはいない。こう撮った、と説明する…

よく似たふたつの景色

よく似たふたつの景色

アスファルト舗装されたごく平凡な脇道を歩いていくと、その道の外にわずかにある土の部分に、夏の草が生え…

お外の道、という精神外傷がそこにある

お外の道、という精神外傷がそこにある

三歳、そして四歳といった年齢の頃の僕がこのような道を歩くのは、乳母に手を引かれた散歩のときだった。