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エッセイ「散歩して迷子になる」より20作品(21〜最終回)を公開

雑誌『図書』(岩波書店)誌上にて、2008年から2011年まで連載されたエッセイ「散歩して迷子になる」からの20作品(第21回〜最終回)を公開しました。岩波書店から2012年に刊行され、片岡義男.comでも公開中の『言葉を生きる』の元となった連載です。

 大学を卒業すると、否も応もなく世のなかへと出されてしまう、という事態は引き受けざるを得ないものだった。23歳はもういい歳だ。自分がその身を置いてきたモラトリアムは、中学校から数えると10年になる。もうたくさんだ、という気持ちで卒業式を終えた僕が引き受けたのは、自分をも含めた世の中というものだった。4年生の夏の終わりに入社試験を受けた商事会社に就職先はきまっていた。就職して会社員になると、一体どのような日々を送ることになるのか試してみたい、という気持ちに後押しされた就職だった。10年、20年と勤める気持ちはなく、そんなことは思いもしていないし、思うことすらそもそも出来ない、という自分にとって就職は仮のことだった。仮採用の3カ月を体験して確信することが出来たのは、自分の問題としてはここにこれ以上とどまるべきではない、ということだった。会社を辞めて、季節は夏。ひとり静かに切り離され、自分を拘束するものは何もない状態で向き合うことになったのは、自分とは何かという問題だった。

(『図書』2009年12月号掲載)

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 東京オリンピック以後の、さらなる大衆化の時代に、僕は娯楽的な活字媒体の書き手となった。娯楽雑誌、そして当時の流行だった娯楽的な新書などでの、多くのさまざまな仕事は、時代がほんの少しだけ前へ進むと『平凡パンチ』や『ポパイ』という、およそ考え得るもっとも大衆的な路線のなかへと、収斂されていった。話し言葉の英語が、書き言葉としての日本語へと、背後からあるいは側面などさまざまな位置から、僕を押し出した。娯楽路線であれなにであれ、とにかく書き始めたなら、そのために使う言葉は、書き言葉の日本語だ。書き始めたその瞬間から、なにはさておき、僕は書き言葉の人となった。もし英語で書く仕事についていたなら、僕は現実の中にある人たちや事柄などをめぐって、その事実関係について記述していくという、ノン・フィクションを必ずや書いたはずだ。現実の事実関係を記述する言葉が英語だとすると、書き言葉の日本語で僕が書かざるを得なかったのは、おおまかなひと言をあてはめるなら、フィクションだった。

(『図書』2010年1月号掲載)

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 1973年の秋の初めだったろうか、来年の春に新しい文芸雑誌を創刊するから、きみはそこに小説を書け、と創刊の責任者に僕は言われた。「書かなくてはいけないし、書かなければきみは駄目になる。」という忠告的な命令に感じるところがあったので、その年の暮れ近くに、僕は400字詰めの原稿用紙で70枚ほどの短編小説を書いた。大変な作業だった。一編の小説の内容を作り出すと同時に、その小説を書いていくための言葉をも、僕は作った。題名を『白い波の荒野へ』といい、編集部は最高度と言っていい熱意で受けとめてくれた。1974年の、季節は確か春に、新しい文芸雑誌『野性時代』が創刊され、そこに掲載された。僕はこうして書き言葉の人になってしまった。書き言葉の人として、話し言葉の世界、という世界の外へ出た。当然と言っていいが、そこで僕は孤立する。その孤立は日々深まる性質のものだから、そうか、作家とはこうして孤立していく人なのかと、僕は僕なりに感慨を受けとめたのだった。こういう孤立した人が多数の読者を獲得することなどあり得ない、とも僕はそのとき確信した。

(『図書』2010年2月号掲載)

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 1960年代の10年間は僕の20代と重なっている。前半は『マンハント』という雑誌を、主として人脈的な中心として持ちながら、その周辺にたくさんあった娯楽的な雑誌に、依頼されるまま多種多様な文章を書いて多忙だった。1960年代の後半には『平凡パンチ』という新しい週刊誌が、多くの仕事の中心となった。しかし1日を境にしてひとつの時代が完全に終わるわけではなく、1970年代に入っても、60年代と同じような仕事を、これはもう終わった時代の仕事だな、と思いつつもかなり続けた。次々にいくつも発生していく仕事をこなす場所として、神保町は若いフリーランスの書き手にとって、親和性の高い場所だった。だから僕は毎日のように神保町へと出ていき、当時は五十メートルから百メートル置きに存在した喫茶店をはしごしては、原稿を書いた。夕方には編集者に会って原稿を渡した。原稿は手書き、そして完成した原稿は編集者と対面して手渡す、という時代だった。

(『図書』2010年3月号掲載)

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 高校を卒業したの1958年だ。卒業者全員が大学へ進学する、という時代はまだ始まってはいなかった。高校三年のときのクラスは男女15人ずつの合計30人ほどで、女性はひとりも大学へいかず、男性は半分以下、あるいはかろうじて半分という進学率だった。その若さで世のなかに放り出された彼らもまた、まさに若年労働者だった。高度経済成長の時代は、じつはサラリーマンを大量に注ぎ込む人海戦術の時代だった。人海戦術を推し進めるためには、どの会社も限度いっぱいに、頭数を抱えておく必要があった。卒業と同時に自動的に就職出来るなんて、いい時代でしたねえ、という感想があるなら、それはとんでもなく見当違いだ、と言っておこう。数十年たたずに国を誤る、根源的な欠陥を内蔵したシステムにほかならなかった。僕は就職して3か月で辞めた。理由はただひとつ、会社世界というものに対する適性が、自分にはまったくない、と判断したからだ。

(『図書』2010年4月号掲載)

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 大学を卒業して商事会社に就職した僕は、会社勤務の初日から仕事で多忙な日を送った。あのような仕事の現場が実社会であり現実であることはまず確かだと言っていいが、それはきわめて小さな一部分だろう。そして圧倒的に多くの人たちが、自分が身を置いているきわめて小さな一部分を、現実の全体だと錯覚して、人生を送っていく。現実のなかで会社の仕事がいかに忙しくても、使役しているのは自分という全体のほんの一部分であり、もっと全面的に自分を使って働きたい、という願望が僕の内部で頂点に達したのが、社員として働き始めて3か月後だった。願望がいくら頂点に到達しようとも、その願望は満たされないのだから、会社は辞めるほかなかった。だから僕は3か月で退社した。1960年代前半の日本で、23歳のただの新卒青年だった僕には、じつは自分のものなどほとんどなにもなかった。しかし、そのような自分ではあっても、自分を全体的にまんべんなく総動員して働きたいという願望は、自分の内部から沸き上がってきた。

(『図書』2010年5月号掲載)

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 大学の2年生の頃、僕は娯楽雑誌に文章を書き始めていた。会社を辞めてフリーランスのライターとなった僕は、すでに多少はなじみのある物書きの世界の末端へ、舞い戻ったと言っていい。日常生活の状況は激変した。フリーランスのライターに戻ると、朝は何時に起きてもいいのだった。それが好みなら、起きるのは朝ではなくてもよかった。満員電車には乗る必要がない。出勤すべき会社はない。タイム・カードなどあるわけがない。1日じゅうなににも拘束されない。ないないづくしは要するにすべて僕の自由だということであり、僕はどこでなにをしていてもいい、ということになった。枠組みも制限も何もない時間が僕の外に流れ、同じ時間が僕の内部をも流れていくとき、実はきわめて不自由だと言っていいなにごとかが、僕の内部に少しずつにせよ生まれていくのではないか。日常的に許容される範囲内での可能な限りの自由、という広い世界に身を置いた僕は、その自分の内部のどこかに、それなしで済ませることの出来ないなにごとかという、たいそう不自由なものを、恐らくごく小さなピン・ポイントで持つことになったのではないか。

(『図書』2010年6月号掲載)

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 きみはなぜこの世に生まれたのだい、という質問に対して、僕は偶然によって生まれました、と答えるのは、こうした質問への答えかたのひとつとして、とっくに定型となっている。確かに偶然なのだが、まったくでたらめの、ランダムさそのもののような偶然にまかせた結果ではなく、多少の法則性のようなものはそこに機能している、と僕は思う。偶然のすぐ裏では、あるかなきかの頼りないものではあっても、法則性のようなものが機能している、と言わざるを得ない。両親となる人たちが出会った頃から、僕という「自分」は始まっていた。その「自分」が生まれ落ちたのは、国民精神総動員、ノモンハン、紀元二千六百年、米穀配給統制、大政翼賛会などの日本だった。まだ生まれてもいない「自分」が、それは迷惑です、やめてください、と両親に言うわけにもいかない。したがって、僕という「自分」にとっては、これ以上ではあり得ないほど「自分」にふさわしい時期に生まれた、と思うほかない。

(『図書』2010年7月号掲載)

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 アメリカで出版されたペイパーバックを古書として東京で買うことを、僕はいまでも続けている。この場合の古書とは、おおまかには、太平洋戦争のさなかから1970年代のなかばあたりまでに出版されたもの、というほどの意味だ。昨年のいま頃から今年の現在までの1年間に買ったペイパーバックは、400冊をやや下まわるだろう。ペイパーバックを古書で買うたびに深く思うのは、自分が買う数の少なさに対する、全体数の途方もない多さだ。いくら大量に出版されても、それだけでは半世紀以上も以前のペイパーバックが、東京で古書となっていまも古書店の店頭にある、という状態は生まれない。東京だけではなく日本のあちこちで、何人もの人たちがペイパーバックを買い集め、それを自分の蔵書の一部分として、かなりの期間にわたって所有していた、という事実の上に、古書としてのペイパーバックというものが成立する。買い込む数に対して読む数は、ゼロに等しいほどに少ない。読まないペイパーバックを、なぜ僕はこうも買うのだろうか。

(『図書』2010年8月号掲載)

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 ずいぶん前、ある文芸雑誌の企画に、その編集部の編集者と作家が一問一答をおこなってその全体を掲載する、というものがあった。最後の質問だけ僕は記憶している。それは、いちばん好きな言葉はなにですか、というものだった。この問いに対する自分の答えも、僕は記憶している。僕がいちばん好きな言葉は、好きにしなさい、というものです、と僕は答えた。この質問を受けたとき、回答として僕の頭の中に反射的に浮かんだのは、You are on your own.という英語のひと言だった。このひと言が僕は幼い頃からたいそう好きであり、英語によるきわめて普通な言いかたであるこのひと言を、編集者との一問一答という場面で仮に日本語にしたものとして、好きにしなさい、というひと言を僕は答えにした。日本語そのものとしての、好きにしなさい、というひと言は、それが使われる文脈、つまり言う人と受けとめる人との、そのときその場での関係のありかたが、意味合いをかなりのところまで変化させる。僕の場合は、そんなことにまで人を巻き込まず自分ひとりで黙って解決しろよ、という程度のものだ。

(『図書』2010年9月号掲載)

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 5歳の春先、あるいは4歳の冬の初めに、幼い僕は両親とともに東京をいったん引き上げ、祖父の出身地であった山口県の岩国へ移った。この頃に僕はいったん完全に出来上がっていた、と以前から僕は思う。否も応もなしに全面的に引き受けざるを得ない自分というものを、そうとはまだまったく意識はしないまま、幼い一身で受けとめていた。洟垂れ小僧ではなく、お坊っちゃまでもない、そのどこか見事に中間的なあたりで中間ぶりを体現していたという意味で、坊やという言葉を僕は使う。中間にいる人は浮きやすい、と僕は思う。東京の坊やは、ごく当然のこととして、日本語は東京の言葉を喋る人となった。標準語と言ってもいいのだが、僕のとらえかたとしては、標準語ではなく東京言葉だ。関西弁の母親と英語の父親にはさまれて、幼い僕は東京言葉の坊やとなった。選択としては非常に正しいと僕は思っている。坊やは男性だ。だから僕という坊やの東京言葉は、男性の言葉となった。このことに関しておそらく決定的に強く作用したのは、乳母の存在だ。

(『図書』2010年10月号掲載)

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 書店で一般に市販されている雑誌に僕が最初に書いた文章は、自分の文章ではなく翻訳だった。ここで当人にとって早くもひとつの問題が提示される。確かにこの自分が翻訳して日本語で書いたものだが、それは自分の文章ではないのか、という問題だ。僕が編集部に渡した翻訳原稿は、そのまますんなり掲載用の原稿として受け取られた。一字一句、書き直しを要求されるのではないか、と僕は思っていた。もしそうなったら、それは英語に関する僕の能力の問題ではなく、日本語の能力の問題なのだ、と僕は思った。その場合、僕はほとんどゼロから日本語を勉強し直さなくてはいけない、とも思った。遠くに淡く絶望感の見える、呆然とした心理状態になったことも記憶のなかにある。僕が行なった最初の翻訳の場合は、英語を日本語に置き換える作業だった。置き換えただけなのだから、最初に書いたとおり、それは自分の文章ではない。英語によるオリジナルにほぼ対応する日本語版を作っただけだ。その際に使用した日本語はごく普通のものであり、その使いかたは、概ね使い回しであったと言っていい。

(『図書』2010年11月号掲載)

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 僕はいまでもいろんな文章を書いている。書き始めてから四十年以上になる。それだけ続けているからには、僕は文章を書く人なのだろう。その僕にとって、もっとも好ましいのは、どうやら小説の文章であるようだ。僕にとって小説とはなにか。これまで僕が書いた小説が僕にとっての小説です、と言うほかない。季節や気象そして時間の特定を僕がほぼ絶対条件のように必要としているのは、すべては触覚の問題だからだ。季節、天気、時間などは、触覚の最たるものであり、もっとも基本的な触覚だ。季節はそれによって全身の表層や内面で感じ取り、記憶の内部にしまい込まれる。天気や時間についても、まったく同じことが言える。自分の触覚のなかを通過して記憶の内部にとどまっているものでないかぎり、小説の材料にはならない、と言っていい。このような意味で、材料はすべて、基本的には自分の内部にある。季節や気象そして時間は、触覚を通過した、したがって小説の材料になり得るものとして、もっとも中心的な柱のようなものだ。

(『図書』2010年12月号掲載)

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 文章を報酬のともなう仕事として書き始めてから半世紀近くになる。どことなく似てはいても、ひとつずつ内容の異なった作業として、僕はこれまでかなりの数の小説を書いてきた。どの小説も、それまでに書いたものとは異なるからこそ、書けたのではないか。おなじ作業を一定のテンポで長い期間にわたって続ける、という性質の仕事では、どこまでも具体的なさまざまな事象のひとつひとつに、正面から対峙しなくてはいけない。僕はさまざまな文章を書いてきたし、いまでも書いているが、自分にとっていちばんいいのは小説であるようだ、という認識にはすでにはっきりと到達している。なぜそうなのか、その理由のひとつは、書くべき小説の材料すべてが、自分の外部ではなく内部にあるからだ。そして気象条件の中に主人公と呼ばれている男性ないしは女性、あるいはその両方が必要だ。彼らがその全身の感覚で触れるかのように、物語のなかで受けとめている気象条件を、その物語を書いている当人である僕が、想像力のなかで共有する。なぜ、そんなことをするのか。主人公たちを、物語のなかで動かしていくためだ。

(『図書』2011年1月号掲載)

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 そのとき僕は26歳だった。ある日の夜、年上の編集者との待ち合わせのため、新宿のゴールデン街にあった一軒のバーへ、ひとりで入った。カウンターに作家の田中小実昌さんがひとりでいた。僕を見た田中さんは、奇声を上げて笑い、「なんでお前が来るんだよ、ひとり?」と僕に言った。「ここにおすわりよ」と言われるままに僕は田中さんの隣のストゥールにすわった。「こないだね、俺はね、西伊豆へいったのよ。この俺が西伊豆へいったのだと思ってよ、そうじゃないとこの話は始まらないんだからさあ」「西伊豆でなにがあったのですか」と、僕は訊いた。坊主頭をひとしきり撫でまわしていた田中さんが、「西伊豆でね、俺はね、ペンを拾ったんだよ、ほら」と指さしたビールの大瓶の隣に、万年筆が1本、確かに横たわっているのだった。「お前、英語が出来るんだろう。俺もちょっとだけ出来るんだよ。西伊豆でペンを拾ったことを英語でなんと言うか、お前、わかるか」これはけっしてストレートで単純な話ではないということは、基本的にうかつな僕にでも察知することが出来た。おそらくコミさん独特の冗談なのだ。

(『図書』2011年2月号掲載)

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 小説を書いているときの僕は、孤独であるという状態の極めてポジティヴな有効活用をしている。書き始めてから書き終わるまで、僕は完全にひとりだと言っていい。日ごと繰り返されていく日常生活は、いろんな人たちとのさまざまな関係で支えられて成立している。これはごく当たり前のことだが、小説を書いているときの僕は、第三者の目には、デスクに向かって椅子にすわりなにやら書いているようだ、としか映じない。やがて書くであろうその小説を書くずっと以前から、少なくともその小説に関しては、僕はひとりっきりの状態のなかにある。書くべき小説を僕は孤独のなかで発想する。小説のために自分が使うすべてのものは、あらかじめ自分のなかにあるという状態は、孤独さそのものではないか。ひとりきりで孤立している僕の内部で、一編の小説の核をなすものとして結びつくことなど、思ってもみなかったいくつかのものが結びついた瞬間から、一編の小説は始まっていく。小説のためのすべての材料を、そうとは自覚しないまま、とっくに、僕は自分のなかに持っている。

(『図書』2011年3月号掲載)

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 小説のなかで中心的な存在となってその役割を担う人、あるいは人たちは、主人公と呼ばれている。主人公は、物語の進行を担う人だ。物語の背景や状況がいくら描かれようとも、それだけでは物語は進展していかない。物語を体現する主人公によって、物語は進められていく。だから主人公とは、物語そのものなのだ。物語とそれにふさわしい主人公が同時進行で僕の想像力のなかに浮かび上がっていき、やがて一編の物語として僕の頭のなかに完成するとして、物語の進展とは僕の場合、論理の整合だから、主人公もぴったりその論理と重なり、はみ出しはまったくないままに、最初から最後まで整合している。例えば主人公の彼が、ほんのちょっとした冗談を言う場合にも、その冗談は、物語の論理の体現者である彼に、たいそうふさわしいものでなくてはいけない、というのが僕の方針だ。物語とは整合した論理の筋道であり、主人公はその論理を隅々まで体現する人だから、論理の筋道からの逸脱は許されていない。その代わりに、物語を進展させていく人、という特権があたえられている。

(『図書』2011年4月号掲載)

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 自宅でデスクに向かい、ひとり小説の原稿を書いている僕という人は、現実の日常を生きているこの生き身の僕だが、そこには同時にもうひとりの僕がいる。フィクションとしての僕、という言いかたしか出来ないような種類ないしは性質の僕がいて、小説を書いているのは実はそちらのほうの僕だ。フィクションとは、小説とは、それを書いていく言葉における、間接性の確保のことだ。これを書きたい、という願望がどれほど強くても、そしてそれを書きあらわす言葉が構成や文章においていかに巧みでも、フィクション作品になるほどの間接性を獲得していないかぎり、書かれたものは個人的な作文や手記の範囲内にとどまる。そのような文章の対極にあるのが普遍性を獲得したフィクション作品なのだから、間接性とは普遍性のことだとわかるではないか。間接性とはなにか。小説を書いていく当人が、現実のなかの生き身の自分ではなく、フィクションとしてのもうひとりの自分になる必要があり、このもうひとりの自分が間接性を体現する。つまり、小説の書き手という種類の人はそのぜんたいがフィクションである、ということだ。

(『図書』2011年5月号掲載)

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 僕が自分で書いた文章に対して、最初に報酬が支払われたのは翻訳だった。アメリカの主としてハードボイルドな推理小説の短編を中心に、日本人の書き手によるさまざまな文章を取り混ぜて1冊にした月刊の娯楽雑誌に、その翻訳は掲載された。1962年の2月のことだったというから、僕はまだ大学の3年生だった。その雑誌の編集者から手渡しで受け取ったか、あるいは経理の担当者から郵送されて来たのか、そこまで細部の記憶はないが、支払われた報酬は1枚の小切手という紙片に収斂されていた事実は、それから半世紀近くの時間が経過したいまでも、くっきりとした輪郭のなかに記憶している。定められている所定の手続きをへれば、どこの銀行でも現金に換えることの出来る小切手だった。3,600円という数字を僕は記憶している。400文字1枚が100円、全体では36枚の短編だった。自分という若き労働者は、英語による短編ミステリーを日本語に翻訳するという種類の労働に、生まれて初めて従事してそれを完遂させ、その結果として3,600円の報酬を手にした。当時の僕は意識と無意識の境目あたりで、一介の労働者でしかないこれからの自分というものを、骨身の核心において感じ取り受けとめた。

(『図書』2011年6月号掲載)

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 自分で書く小説の材料はすべて自分の過去のなかにあります、という言い方は、誤解を招きやすいはずだ。しかしその誤解は極めて単純なものだ。自分が体験したさまざまなことをよく覚えていて、必要とあらばそれらを記憶の中から引っぱり出しては物語へと仕立てていく、といった誤解だ。このような誤解とは紙一重のところに、僕が小説を書く営みは成立している。その紙一重について、僕は書かなくてはいけない。どんな出来事であれ、それらを僕が体験することにより、そこでまず最初のバイアスがかかる。そしてそれが僕の記憶のなかに入り込むことによって、さらにもう一度、バイアスがかかる。そして記憶の中でさまざまな変形や修正を受けていくはずだ。これもまた、バイアスとしか言いようがない。すべては自分の内部で起きていく出来事なのだが、それを自分ではどうすることも出来ないのだから、起きていくままに受けとめるほかない。これが僕の記憶だ。小説の材料が過去のなかから選択され引き出されてくるにあたっての、最初のきっかけは、現在のなかにある。さらにもうひとつの新たな小説へと、僕を突き飛ばすきっかけを現在のなかに思いがけず発見すると、これは小説になる、と僕は反射的に思う。

(『図書』2011年7月号掲載)

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2024年8月9日 00:00 | 電子化計画

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