作品一覧 公開作品 1898 49 50 51 52 スープはどうなさいますか いまの日本のどこへいっても、そこにはスーパーがある。片仮名書きされたスーパーという言葉はもうとっく… 読 む 玩具として買うには面白い ハーシーの板チョコ、というものがいまでもある。あるどころではない、それこそ日本全国津々浦々のスーパ… 読 む トリス・バー。バヤリース・オレンジ。バッテンボー バッテンボー、という言葉は死語だろうか。老いも若きも、日本じゅうどこへいっても、誰もがこの言葉を口… 読 む 砂糖は悲しいものだった 「三歳、四歳、五歳の頃は、家のなかでしょっちゅう迷子になってたのよ。でも、小学校に上がってからは、そ… 読 む 「四角い食事」とは、なにか スクエア・ミールという英語の言葉を日本語に直訳すると、四角い食事、ともなるだろう。一般に市販されて… 読 む それはいまもこの黄色なのか 二十代の前半から後半にかけての数年間、キャンベルの缶詰スープをしばしば食べた、という記憶がかすかに… 読 む 東京のハードな日々 残暑はとっくに終わっている季節の、しかしひどく暑い晴天の日、水曜日の午後三時すぎ。東京・内神田のた… 読 む 豆腐屋はいまもまだある 子供の頃から三十年近くにわたって住んだ世田谷のその一角には、いつも利用する私鉄の駅を中心にして商店… 読 む あほくさ、と母親は言った 僕には母親がひとりいる。日常的な日本語では、産みの母、と言われている。英語ではバイオロジカル・マザ… 読 む 義男の青春と別離 十一月十五日、快晴の平日、午後三時から四時のあいだ、僕は京都の三月書房にいた。友人たちふたりがいっ… 読 む 南日本新聞のあれやこれや 僕におけるもっともらしさ かつて南米のペルーから日本へ数多くの男性たちが仕事をしに来ていた。彼ら… 読 む そうか、きみは島へ帰るのか ハワイから日本へ戻ることにきめた数日後、親しい日系の二世の男性が、So. You are goin… 読 む 三点ずつ、ふたとおり ピアニストであり、エルヴィス・コステロの妻でもあるダイアナ・クラールのCDが三枚、Turn Up T… 読 む 撮りなおした三点の写真 今回の「東京を撮る」は、片岡義男は、どのような写真を撮りたいのかについて書かれていて、その実例として… 読 む リコラの六色 スイスで1930年に創業されたリコラのハードキャンディが、今回の主役です。片岡義男が自ら発見した、多… 読 む パペーテ空港の夜 晴れた日の午後一時すぎにホノルル空港のはずれから飛行機に乗った。小型のプロペラ機、という言いかたの… 読 む ハッピーコートの銀座 法被あるいは半被と書いてハッピと読む。日本語だ。下級武士が多く着用していたという。その様子はひとつ… 読 む 古書店で『映画の友』を買い集める 『映画の友』という雑誌があることは、子供の頃から知っていた。自分ひとりで書店に入るようになってからだ… 読 む ほんの一瞬がポートレートとして後世に残る リチャード・フォードの『ワイルドライフ』は買ってあった。探したらすぐに見つかった。一九九一年にロン… 読 む タイプライターで原稿を書くとき 写真に撮られたアーネスト・ヘミングウェイは何点も見た。すべて記憶は曖昧だが、一点だけいまでもはっき… 読 む あの道がそう言った 白く輝く雲へ まだ梅雨だがその日は、梅雨明けの初日のように、素晴らしい晴天だった。小田急線の上り… 読 む 身辺に猫を増やしたい 前足をそろえて体をのばし、おそらくミルクをくれた人を、大きな目を見開いて、賢そうに見上げているほう… 読 む 僕の日本語がなぜつうじるのか アメリカの爆撃機による東京の空爆を逃れて、山口県の岩国にいた僕は、一九四五年八月六日の朝、友人の家… 読 む 僕の父親はDadだった 1 自分のことをDadと呼べ、と父親がはっきりと僕に言ったときのことを、遠い思い出ではあるけれど… 読 む 1957年のラブ・ミー・テンダー 下北沢のあの映画館の名称をついに思い出した。下北沢映画劇場だ。かつての下北沢駅の北口を出て道幅の狭… 読 む 49 50 51 52