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エッセイ『英語で日本語を考える』『日本語と英語ーその違いを楽しむ』など17作品を公開

エッセイ『英語で日本語を考える』(フリースタイル/2000年)、『英語で日本語を考える 単語篇』(フリースタイル/2004年)、『英語で言うとはこういうこと』(角川書店 角川oneテーマ21/2003年)の3作品、および『日本語と英語ーその違いを楽しむ』(NHK出版新書/2012年)、『ヘルプ・ミー!英語をどうしよう』(KKベストセラーズ/1976年)より14作品を本日公開しました。

誰の日常のなかにもあり得るなにげないひと言を、英語で言うとどんなふうになるのか、内容的にまったくランダムに百例、この本のなかで観察することができる。本書のなかの百の例文は、日本語と英語との両方で成立している。日本語から英語を見るための例文として機能すると同時に、英語から日本語を観察する機会としても、百の例文は機能している。英語も日本語も、世界のなかにたくさんある言葉のひとつだ。その意味では、おたがいはまったく等価だ。ただし、どちらの言葉も、それぞれに固有の構造と性能を持っている。だからこそ、両者をならべて観察し分析し、どちらをも細かく解体して自分のなかで重ね合わせる、という種類の勉強が必要になる。材料として使った百とおりの英語的な言いかたの多くを、僕は部品に分解して説明している。自分でする勉強がこうでなくてはいけないということではないし、すべてをきっちりと記憶する必要もない。なるほど、こういうことなのかという、淡い感銘をともなった納得のような気持ちが残れば、それで充分だ。

(フリースタイル/2000年)

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使いこなすことのできる英語を自分が充分に持っているとして、その英語能力にとっていちばんの基礎になっているものは、なにだろうか。少なくともかたちの上で基礎の基礎を作っているのは、英語の言葉ひとつひとつ、つまり単語ではないか。自分にとってのいつものさまざまな現実が、ただ英語になっただけのような言葉だ。そんな言葉を約二百例、僕はこの本のなかに拾い上げ、短い説明を加えてみた。どの言葉も、なんと言うこともないじつに平凡な、日常性のきわみのような言葉ばかりだ。こんな言葉をなぜ、と思うかもしれないが、普通の現実のなかで縦横に飛び交っているのは、このような言葉なのだ。現実を可能なかぎり縮小して提示する試みのためのわずか二百語だが、あなどってはいけない。これをほんの十倍すれば二千語であり、それを倍にすれば四千語に到達できる。英語をなんとかしなきゃあ、などと言いながらいっこうに勉強を始めない日本の大人は、この本のなかの二百語のうち、英語で言えるのは一語かせいぜい二語であり、けっして三語はないだろうと僕は思う。

(フリースタイル/2004年)

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頭のなかに浮かぶいつもの日本語を英語で言うとはどういうことなのか、そのいちばん基本の部分はまず第一に、頭のなかに浮かんでいる日本語を、いかに的確に簡潔に、純粋に意味だけへと、とっさに要約することが出来るかどうかという、日本語能力をめぐる問題だ。母国語ならではの自在な言いまわしを細かく砕き、余計なものはふるい落とし、相手に伝えるべき意味だけを摘出する能力。学習して外国語を身につけようとするとき、絶対に欠かすことが出来ないのは、この能力が必要にして充分な機能を果たすことだ。要約した意味を、端的で明示的な、しかも正しい英語へと、移し換える。その作業を遂行するためには、英語の知識よりも先に、日本語の能力が問われる。そして英語で正しくしかももっとも的確に言うためには、自分はなにをどうしたいのか、なにについてどんなことを自分は思い、それにもとづいてどう行動し、結果としてなにをどのようになしとげたいのか。英語という言葉の機能の核心はこれをまっとうすることにある。

(角川書店 角川oneテーマ21/2003年)

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縦が三インチ、横幅が五インチという大きさのカードは、日本では図書館の索引カードとして知られていた。日本語では情報カードと呼ばれるもののうち、僕は罫線入りのものを使ってきた。いくつものケースのなかにそれぞれびっしりと、言葉の書き込まれたインデックス・カードが詰まっている。その内容は日本語と英語だ。英語とその日本語訳のひとつひとつに、ものの言いかたのあまりにも大きな違いを見ると、それは日本語と英語との葛藤や軋轢であり、越えがたい壁ないしは溝であったりもする。と同時に、おなじ地平の上に、まったく同一の内容のことをどちらの言葉でも似たように表現するのを見るときには、そこには平凡で穏やかな共存の様子がある。

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駅などにある近辺の案内地図の掲示板には、赤い色で塗りつぶした丸などの図形があり、その図形の上に黒い愛想のない文字で、「現在位置」と印刷してある。「現在位置」とは不思議な言葉だが、誰もそんなことは思わない。「あなたが現在いる位置はここです」という意味が、現・在・位・置の、そしてこの順にならんだ、四つの漢字による言葉の内部に折りたたまれている。「現在位置」という日本語に該当する英語の言いかたは、You Are Hereだ。案内地図をふと見た人は誰もが、ほとんど名ざしで、youと特定される。そのyouはhereつまり、「ここ」にあるのだ。この章ではこうした主語と動詞に注目して日本語と英語の文化について考えていく。

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主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人たちはその日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉の構造によって言いあらわされる内容のなかに、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない。主語がIやyouならそれらは主語にはならないし、Iやyouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞も、必要ないから姿をあらわさない。動詞が働きかける目的語その他、主語からの一連の構造的なつながりはそこになく、そのかわりに、いつのまにかそうなっている状態、というものが言いあらわされる。

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言葉における「らしさ」とは、その言葉の構造とその使いかた、つまり文法ではないか。基本的にはその言葉のぜんたいが、「らしさ」というものなのだが、小さな例を部分的に拾い集め、それらを観察して、そこに「らしさ」を感じることは可能だ。「らしさ」とは、その言葉の構造とその使いかたによって、そこに託される意味のぜんたいだ。それは世界のとらえかただ。他者への働きかけかただ。そして他者へと働きかければ、それはほぼそのまま自分に返ってくる。自分と他者との、言葉の上における、どうしようもないまでの対等な互換性だ。

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高等学校の古文の教科書のなかで出会った『源氏物語』の書き出しのフレーズ、「いずれのおんときにか」というわずか十文字が、まったく理解出来ない事実を目のあたりにするのは、衝撃以外のなにものでもなかった。ここで『源氏物語』に、そして古文の教科書に掲載されているものすべてに、僕は挫折した。後年、ずっとあとになって、ふと閃いたのは、日本の古典文学を英語の翻訳で読むなら、少なくとも表面上における理解は、ほとんどなんの支障もないままに、かなりのところまでいっきに到達するのではないか、ということだった。書き出しのあのフレーズを英語で受けとめ、僕はふたたび大きな衝撃を受けることとなった。まるでわからなかったものが、隅々まであますところなく、すっきりと明快に、いっさいなんの誤解もなしに、この英訳によってわかってしまったのだ。

(以上5作品、『日本語と英語——その違いを楽しむ』NHK出版新書/2012年)

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ニューヨークへ生まれてはじめて出張した、日本のビジネスマンのコーヒーショップでの失敗談。「コーヒーください」というひと言が、ウエートレスに対して、満足に言えなかった。これは、よくあることだ。悲しむことはない。抑揚やアクセント、そして、ぜんたい的な音の出し方がうまくいかないと、どんな簡単な言葉でも、つうじない。つうじなくてあたりまえなのだ。また、極端にいえばコーヒー・ショップでコーヒーだけを飲むということは、まずない。ケーキを食べ、コーヒーを飲むのだ。一杯のコーヒーのむこうに、まったく異なった文化の体系が、大きく立ちはだかっている。大げさにいうと、こういうことだ。そして、現実には、大げさでもなんでもない。まさに文化がちがうのだ。

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中学の三年間で学ぶ英語を、基礎としてほんとうに自分の血肉となっていれば、国連大使がつとまるそうだ。だのに、中卒者で英語をそこまで身につけている人は、まずいない。なぜだろう。どうして、日本人は、英語コンプレックスをいつまでも持ちつづけ、現実に英語が不得手なのだろうか。いくつかの珍訳・迷訳の例は枚挙にいとまがないが、珍解釈をひねり出す努力よりも、知らないことは知らないとして、あっさりあきらめる態度を身につけたほうがいい。英語は日本語とはまったくちがう世界だからであり、まちがいをくりかえすことよりも、英語は日本語とはまるで異なった世界なのだという切実な自覚がいつまでたっても出てこないことのほうが、問題としては、はるかに大きい。

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日本語とはまったくちがう言葉である英語が、日本人におぼえられるのだろうか。学習して身につけ、読み書きや聞きとり、それにしゃべることなどができるようになるにはどうすればよいのか。劣等感や気後れなどを捨て去った後に残るのは、サル真似するという、多分に肉体的な能力であることに、できるだけ早くに気づかなくてはいけない。しかしサル真似をするにも、実はせっぱつまった必然性がどうしても必要なのだ。サル真似はたやすいけれど、せっぱつまった必然性を自分で自分の内部に生みだしていくこと。じつはこれが、一定の年齢に達してしまった大人たちには、いちばんむずかしい。

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一家そろって外国に移住した場合、子供の世界の特殊語とともにまっさきにその国の言語を正しく適確に学んでいくのは、幼い子供だという。子供は、たとえばけんかをしなければならない。かといっても、つくりあげてきた友人との人間関係が、完全にこわれてそれっきりになってしまうような決定的なものではなく、人と人との関係を自分の肉体を媒介にしてつくっていく行為といったほうがいい。これに子供は自分の全身をさらしていく。だから、言葉をおぼえるのが早いのであり、そのおぼえた言葉を、状況に応じて、適確に使いわけ操っていけるのだ。大人たちの適応や言葉の学習は、頭の中で日本語を土台にしておこなう抽象的な作業なのだ。身につくはずがない。しかも多くの場合、その作業は、しかたなくいやいやおこなわれている。

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自分の体で外国語をおぼえる行為は、その外国語が持っている文化の総体を自分に引き寄せて理解するための手さぐり行為だ。だから、その国の文化全体に対する知的な深い興味がなければ、その国の言葉を自分の肉体の一部にしようという熱意は、とうぜん、おこってこない。異なった文化をほんとうに理解することは、たとえばぼくたち日本人が日本人として持っているエゴの不必要な部分の解体、あるいは、持ちすぎているエゴの解体を、もたらしてくれるのだ。これなくしては、異文化をおたがいに理解したうえでの、あらたなるつながりや広がりは、生まれてこないとぼくは思う。こういったことを目的にし、それ相応の展望や作戦を持った、大人のための、充分に知的な外国語の学習や教育は、日本ではまだおこなわれていないようだ。

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言葉は、文明がたずさえている符牒や約束ごとにしかすぎないのだが、だからこそできるだけその言葉の使い方をトレーニングし、人と人とのコミュニケーションのなかで有効に使っていけるようにみがきをかけようというのが、国語教育であるはずだ。北アメリカ語をひきあいに出してきたついでに、北アメリカのハイスクールで国語(イングリッシュ)の教育がどんな目的と内容でおこなわれているのか、高校二年生の教科書にそって、少しながめてみたい。『イングリッシュ・フォ・ミーニング』という500ページもある教科書のティーチャーズ・エディション(先生用のトラの巻)の前書きの冒頭に、次のようなことが書いてある。「どんな生徒でも、言葉というものを、少なくとも次のふたとおりのことのために、使っている。ひとつは、自分の考えていることや自分の気持をコミュニケートさせるために。そして、もうひとつは、自分自身の考えを展開させていくために。この教科書は、言葉にとって最重要なこのふたつの機能を最大限に発揮させていくためのものとして編まれている」

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「英会話」を勉強するために日本で刊行されている本は、みんな似ている。ごく短期間の旅行者が、北アメリカの街角やレストラン、デパート、空港ロビーなどで、かたちどおりの用が足せるよう、状況を設定し、その状況に合った「会話」文例がならべてあり、北アメリカの風俗習慣について、すこし説明が加えてある、という内容の本が大半だ。状況の設定のしかたが、とっても鈍い感じがするし、そのような「会話」文例を仲介にして行われる、日本という文化と北アメリカという異文化との触れ合いは、ものすごく浅いものでしかない。これまで、ぼくたちは、「英会話」という言葉に頼りすぎたようだ。「英会話」という言葉は、とてもあいまいだ。なんのための、どういう英語の会話なのか、ぜんぜんわからない。

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受験英語をいくら批判しても、はじまらない。ゼロはゼロなのだ。高校を出たとき、どのくらい「英語」ができるようになっていればいいのか。その具体的な目安は、なかなかつくりにくいし、理解されにくい。日本という共同体のなかにもぐりこんでいるかぎり、「英語」のエの字も関係なくなってくるのだから。大学の英語入試問題は、もうずっと以前に、ひとつのかたちができあがっている。そのかたちにそって、弊害のなんのといわれながら、現在までつづいてきている。いまのテストは、ある点数に達しない人たちをふるい落とすためのものだ。だからテスト問題からはじまって、テストに関するいっさいのことがらにマイナスのエネルギーがついてまわる。テストの意味があらたまってはじめて、テストにいたるまでの学習のしかたや教育の内容が、全面的にかわってくることになる。

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エネルギーにしろ資源にしろ食糧にしろ、限りあるものを全地球的にいかに分けあい、長持ちさせるかが、目下の命題だ。このことをいっしょに話し合って考え、具体化していくことこそ、これからの人間にとって、もっとも知的な仕事なのだ。そのためには、国どうしのコミュニケーションが、どうしたって必要だ。そして、そのコミュニケーションは言葉によるコミュニケーションが主体とならざるをえず、もっとも有効な外国語を学ばなくてはいけないということになる。自国語の世界に孤立することなんて、とてもできない。もし、孤立するとしたら、たとえば日本が日本のエゴのなかにとじこもるとしたら、それは、暴力行為だ。各国が、それぞれの国のエゴという暴力をとっぱらうこと。これからの人間にとってもっとも知的な作業であり、もっとも大きな知的スタミナを必要とする仕事だ。

(以上9作品、『ヘルプ・ミー!英語をどうしよう』KKベストセラーズ/1976年)

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2023年12月8日 00:00 | 電子化計画

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