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エッセイ「歌謡曲が聴こえる」(書籍未掲載分)など10作品を公開

雑誌『新潮45』(新潮社)に2012年〜2013年にかけて連載された「歌謡曲が聴こえる」から、書籍未掲載の4作品『野性時代』(角川書店)で連載された「僕のクレヨン・ボックス」から『ア・グラス・オブ・ウオーター』、『CIGAR』(ワールドフォトプレス)掲載の3作品など、エッセイ計10作品を本日公開いたしました。

『ピンク・マルティーニ ディスカヴァー・ザ・ワールド ライヴ・イン・コンサート』というDVD作品は、2009年にオレゴン州ポートランドのホールで行われた公演を、こう見せてやろう、などというつまらない意図など一切なしに、真正面から実にきれいに見せてくれる。採り上げる原曲のそれぞれが持っている美しさを最大限に拡張して提供することを、このバンドは最大の目的としている。彼らの少なくともステージの上での演奏や歌は、固有の文脈というものを最初から持たない、と僕は考える。2011年の『ピンク・マルティーニ・アンド・サオリ・ユキ』というCDは、1969年に日本でヒットした歌を、ピンク・マルティーニの演奏で由紀さおりが歌った作品だ。由紀さおりが持っている歌手としての能力の大きさと、ピンク・マルティーニの能力は美しく均衡する、というバンドの創設者ローダデールの判断のもとにこのCDのプロジェクトは発想されて進行し、まれに見る仕上がりへと完成した。このようなCDが日本では作られず、発想の発端すらない現状をふと思うと、暗澹さのさらにその底へと、気持ちは沈んでいく。

(『新潮45』新潮社/2012年6月号掲載「歌謡曲が聴こえる」より)

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『星影の小径』という歌は、題名を知っていたし、聞けばこれがそうです、と言えるほどには、内容も知っていた。昭和25年当時、僕はただの子供として存在していた。いわゆるリアル・タイムで、その子供は『星影の小径』を何度も耳にしたに違いない。1986年頃、僕は居間のTVからCMの背景音楽としてこの曲が流れるのを聞いた。『星影の小径』という歌と、ちあきなおみという女性歌手との、これ以上ではあり得ないほどに幸せな、遭遇の瞬間だった。『星影の小径』は昭和25(1950)年の日本でヒットした。小畑実の歌により、20万枚のSP盤が売れたという。ヒットした歌謡曲はどれもがそれぞれの時代そのものなのだが、オリジナル・ヒットを聴いているだけだと、それが強固にまといつけている固有の文脈のすべてに邪魔されて、その歌つまりその時代の核心に、触れにくくなる。才能のある歌い手によるカヴァーは、オリジナルが離れることの出来ない文脈のすべてから自由だ。その歌の、そしてその時代の核心へ、聴く人をなんの無理もなく連れていく。
「ちあきなおみ 全シングル全アルバム配信解禁」

(『新潮45』新潮社/2012年7月号掲載「歌謡曲が聴こえる」より)

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 猛暑のある日の午後、中古レコード・CD店でシングル盤を1枚ずつ見ながら、1時間ほどを過ごした。そしてひと抱えも買ってしまった中に、ミルヴァというイタリーの歌手の『ウナ・セラ・ディ・トキオ』という歌があった。洋楽ではなく純然たる歌謡曲で、1964年のヒット・ソングだ。ミルヴァは1964年に日本へ来てあちこちで公演をした。その来日記念盤として日本で録音されたのが、僕が買ったこのシングル盤の『ウナ・セラ・ディ・トキオ』だ。外国から歌手や楽団が日本へ来て公演をした際、その興奮を煽るために、ほとんどの場合、来日記念盤というものが録音された。ミルヴァのこの歌もそのひとつだ。日本側の編曲と伴奏でミルヴァが東京のスタジオで歌った。来日記念盤を中心とした、これら外国の人たちによる日本の歌の演奏あるいは歌のLPを、僕は『きまぐれ飛行船』というかつて14年続いたFM番組のために買った。自分にとって興味があったことは確かだが、番組での使い道には自分の興味を越えるスリリングなものがあった。

(『新潮45』新潮社/2012年10月号掲載「歌謡曲が聴こえる」より)

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 日本のレコード会社がカーメン・キャヴァレロに演奏してもらった日本の曲を、何枚もの彼のLPの中に辿ると、日本人が外国の音楽家を経由させて日本人へと販売した曲がどのようなものだったかを、俯瞰することが出来る。それは唱歌を中心にした叙情的な愛唱歌。民謡。その当時すでにスタンダードとなっていた歌謡曲に、その時々のヒット歌謡を加えたもの。この3とおりの領域の中に無理なく収まるものだった。愛唱歌集から民謡をへて流行歌へと、ひとつながりになった流れがそこにあるのを発見するのは、さらに興味深いことだ。優れた歌、良く出来た歌には、歌詞にもメロディにも人の心に深く届く何者かがあり、可能な限り多くの人たちの心に深く届くなら、そこに普遍性のようなものが生まれ、その普遍性によってどの歌も、心の歌になるのだろう、と僕は思っていた。理屈としてはこのとおりだと思うが、郷愁という普遍性が大前提として存在していてこその、歌詞でありメロディなのだということに、カーメン・キャヴァレロの何枚かの国内盤LPをとおして、いまようやく僕は思い至った。

(『新潮45』新潮社/2012年11月号掲載「歌謡曲が聴こえる」より)

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 8月の東京をぼくと一緒に歩きながらアメリカの友人が「東京にはウオーター・クーラーがなくて困る」と言う。たしかに、東京だけではなく、日本には、ウオーター・クーラーがすくない。人口に対する比率のような点からみたら、ウオーター・クーラーは皆無だと言っていいだろう。アメリカだと、いたるところにある。適当に冷えた水を飲むことに困らなくて、とてもいいものだ。日本はアメリカほどに乾燥した気候ではないから人々もそれほど喉の渇きを覚えないのだろう、というような説明では納得しないから、ぼくがとっさにでっちあげた説明は、ウオーター・クーラーをあちこちに配しておくのは、乾燥気候のなかでの喉のかわきをいやすこと以上に、身のまわりに水がないという状態に関してアメリカの人たちの多くが一種の恐怖症のようになっているからだ、という説明だった。

(『野性時代』角川書店/1980年創刊6周年記念 5月特大号掲載「僕のクレヨン・ボックス」より)

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 ボブ・ディランという名前を僕が最初に知ったのは大学生の頃だった。ニューヨークの新聞に彼についての短い記事が掲載されているのを、たまたま僕は読んだ。ブルースの伝統のなかからそれを継承する若い才能が登場し、彼の歌やギターが、関心ある人々の注目を集めているようだ、ということはよくわかった。そして次の年の確か春先に、『ボブ・ディラン』というタイトルのデビューLPを僕は立川の米軍基地の売店で買った。LPのジャケットに大きく印刷されている、まだ子供のような幼さの残る可愛らしい顔に、多少の違和感を持ったことも記憶している。新聞の記事を読んだ僕は、ブルースを歌う白人青年のイメージを、ごく淡くそして曖昧にではあるが、勝手に作っていたからだ。時間は経過し、彼は活動を継続した。そのおかげで、これから新たにボブ・ディランを知ろうとする人は、大変な苦労をする。1962年の僕は短い新聞記事をひとつ読み、デビュー・アルバムの13曲を聴けばそれでよかったのだが、CDで全作品を買いととのえるとして、36点をずらっと揃えなくてはいけない。周辺の音源をむきになって集めたなら、たちまち500枚くらいにはなるだろう。

(『Switch』スイッチ・パブリッシング/2007年11月号掲載)

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 水着姿の裕美子は廊下から居間へ入った。そしてソファに囲まれたテーブルへ歩いた。父親より三歳だけ年上の建築家の伯父の自宅にいま彼女は来ている。伯父は真夏を避暑地の別荘で過ごし、留守番がわりに裕美子がこの家で夏の四週間ほどを過ごすのが大学時代からの習慣だ。テーブルの上には、クレヨンで絵のようなものを描いた白いボール紙が入った透明なケースがあった。裕美子はそれをケースから引き出し、両手で持って絵を眺めた。それは今から20年前、建築家の伯父がこの自宅の庭にプールを作ると決めたとき、そのプールのタイル模様となる絵を、5歳の裕美子に伯父は描かせたものだった。ユミは僕を引き継いで建築家になる、と伯父は裕美子がまだ幼い頃から、折にふれて何度となく繰り返してきた。そしてそのとおりになり、彼女は大学で建築を学び、建築家としての日々をスタートさせたばかりだ。

(『Coyote』スイッチ・パブリッシング/No.26[2008年4月]掲載)

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 1949年のアメリカの雑誌に掲載された、モトローラ社のポータブル・ラジオの広告を、いま僕は見ている。広告の画面まんなか左寄りに描かれている、当時における最新式のポータブル・ラジオは、直流と交流そして電池のいずれでも作動するモデルが、電池抜きで29ドル95セントだった。今の値段で4,000円しなかった。50年前でこの値段は驚くべき安さだ。製品と名のつくほとんどのものを、世界のどこよりも安く作ることのできる国は、かつてもいまも、実はアメリカなのだ。ポータブル・ラジオのような製品は、人が過ごす時間をとにかく徹底して楽しいものにすることを目的としていた。どんなときでも限度いっぱいに楽しまなければ人ではない、という考えかたが社会全体に強力にいきわたっていた。その社会を、戦後のアメリカが持っていた、科学開発のイマジネーションと力が、支えた。

(『CIGAR』ワールドフォトプレス/1998年12月号掲載「アメリカの広告物語1」より)

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 1950年まで時間をさかのぼると、当時のグレイハウンドのイメージは、この雑誌広告のようだった。広告につきものである多少の美化や誇張はあるにせよ、このイメージと現実との間に、さほどの開きはなかったはずだ。カリフォルニアからニューヨークまでグレイハウンドで旅をすると、あの広い国を、その横幅いっぱいに地べたと密接につながったまま体験することが出来た、という時代がかつてあった。出来るだけまっすぐなルートを意図的に選び、しかも可能なかぎり直通で走りきるのは一種の快感だった。横幅と同時に縦幅も自由に使い、大きな地震を記録した地震計の記録紙のように、思いっきりジグザグに乗り継いで走るのも、アメリカならではのアメリカ体験だった。西部あるいは大平原地帯の中を走りながら朝を迎えたときの、昇る朝日をいまも僕は記憶している。太陽の光はハイウエイと平行に飛んできて、長距離バスの内部を縦に切り裂くように鋭くきらめいて突き抜け、後部の窓から外の空間へ自らを放射していた。太陽が昇る直前に目を覚ました僕は、このようなアメリカの朝を体験することが出来た。

(『CIGAR』ワールドフォトプレス社/1999年4月号掲載「アメリカの広告物語2」より)

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 1947年11月3日号の『ライフ』に掲載された、パーカー51という万年筆の広告だ。「世界でもっとも欲しがられているペン」だと、ヘッド・コピーが言っている。このセットは僕にとって個人的にたいへん思い出が深い。軸の色はダーク・グリーンだったと記憶しているが、この広告にあるのとまったく同じパーカー51の万年筆とシャープ・ペンシルとを、僕の父親が持っていた。金色の美しいキャップ。心地好く微妙にテーパーする軸。キャップをはずすとあらわれる、ペン先とその周辺。ここのデザインは明らかにジェット機ないしはロケットだった。科学が切り開く前方に託した、より心地良くさらにいっそう気分のいい生活全般。パーカー51が具現しようとしていたアメリカの夢がなにであったか、いまにしてようやく、僕はつきとめている。パーカー51の書き心地の良さは、あれは確かに夢だったのだ。

(『CIGAR』ワールドフォトプレス社/No.5 1999年8月号掲載「アメリカの広告物語3」より)

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2024年8月23日 00:00 | 電子化計画

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