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エッセイ「散歩して迷子になる」より10作品(1〜10)を公開

雑誌『図書』(岩波書店)誌上にて、2008年から2011年まで連載されたエッセイ「散歩して迷子になる」からの10作品を連載順に公開しました。岩波書店から2012年に刊行され、片岡義男.comでも公開中の『言葉を生きる』の元となった連載です。

 太平洋戦争の大敗戦の年に5歳だった僕がまだ6歳になる前から、疎開先の自宅にはアメリカのペイパーバック本が目立ち始めた。占領アメリカ軍で仕事をしていた父親が、仕事の現場でいろんな人たちからもらったものを持って帰っていたからだ。ある日のこと、僕は自宅のあちこちにあるペイパーバックをひとつに集め、部屋の隅に積み上げた。その体積は、幼い僕の体積の数倍はあり、格好の遊び道具だった。13歳の夏の終わりに東京へ戻ると、自宅の近辺には古書店がいくつもあり、どの店にもペイパーバックが置いてあることを発見した。古書店に入るようになったきっかけは手塚治虫の漫画だったと思う。古書店で手塚治虫の漫画を買い、読み終えたらその古書店へ持っていき、新たに入荷している別の作品と引き換えに、ごく小額の差額を支払うというシステムを、友だちが教えてくれたからだ。貸本屋で探すよりも、こちらのほうが選択肢ははるかに広かった。

(『図書』/2008年4月号掲載)

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 アメリカそのものであると言っていいペイパーバックが、東京の世田谷区のあちこちにある古書店で買えるということは、子供の僕にはたいそう面白いことだった。買ったペイパーバックは、自宅の空き部屋の壁に寄せて、腰の高さほどに積んでいく。壁は左から右まで、ペイパーバックの列でたちまち埋まる。列は二重になり、やがて三重になっていく。かなりの数になったペイパーバックに対し、次の段階として僕は出版社別に分類してみることにした。そしてそれらを1冊ずつ点検することを始めた。全体の感触や雰囲気を吟味し、表紙絵やデザインの出来ばえを確認し、用紙の手ざわりを楽しみ、本体の最初のページや裏表紙に印刷してある、短い文章を読んでいくのだ。こんなふうにしてほとんどのペイパーバックにまず最初の点検の手を入れ終える頃、僕の気持ちはさらに次の段階へと変化していった。買い集めた何冊ものペイパーバックの1冊1冊、そしてその全体は、なんという不思議なものだろう、と僕は感じ始めた。

(『図書』2008年5月号掲載)

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 少年の僕に神保町の三省堂に勤めていた青年がくれたペイパーバックは、ベス・ストリーター・オルドリッチという女性が1928年に出版した、“A Lantern In Her Hand”という小説だった。仮に日本語にするなら『彼女は角灯を手に』ともなるだろうか。読み始めた僕は夢中になった。波瀾万丈の物語の面白さ、そしてそこから受け取る感銘は大変なものだったが、それとは別に、文章というものが持つ魔力の世界の不思議さが、13歳の少年の頭のなかに充満した。僕が読んだ物語は、隅から隅まで文章によって成り立っていた。事物についても人の気持ちをめぐっても、ディテール豊かに生き生きと、あらゆることが言葉によって描き出され、文章によって紡ぎ出されていた。僕が読んだのはその文章であり、それを読むことによって物語のぜんたいが、そしてその物語にともなう感動が、僕の想像力の内部に鮮明な像を結ぶというかたちで、移植された。

(『図書』/2008年6月号掲載)

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 よく書けた一編の小説を読んだ僕は、深いさまざまな感銘や強いひとつの感動を、生まれて初めての体験として受けとめた。この感銘や感動は、一体何なのか。僕の手もとにあるのは、1冊のペイパーバックだけだ。読んだ僕という当人にとっては、読んだ小説そのものよりも、それを読んだ自分が最終的に体験した感銘や感動のほうが、はるかに大きな謎として残った。何が自分なのかと自らに問いかけ、自分自身でその問いに少しずつ答えていくという、いつまでも続くはずの問いかけの日々は、僕にとってはこんなふうに始まった。部分的に発見した自分への驚きが多少は沈静してから、僕は2冊目の小説をペイパーバックで読んだ。当時のアメリカのペイパーバックは出版社ごとに性格や方向、装丁、質感など、はっきりとした個性があった。13歳の僕はデル、シグネット、バンタムという、それぞれに特徴のある三種類の叢書から、1冊ずつ選んで読んでいった。例えばシグネットからは『地上より永遠に』、バンタムからは『エデンの東』という具合に。

(『図書』/2008年7月号掲載)

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 中学生そして高校生だった頃の自分が読んだペイパーバックがどれだけ手もとに残っているか、探してみた。『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』の1953年版が見つかった。この本の一番最後に収録してある、サイモン・ウィンチェルバーグによる『征服者』という作品を読み、僕のそれまでの人生はその瞬間にそこで終わってしまった。そしてそこからは、全く新たな別の人生が始まった。このような短編に出会うことが、一生に一度くらいはあるのだろう。J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は高校3年生の秋に読んだ。同じく高校生のときに読んだ『アースキン・コールドウェル全短編集』と、シャーウッド・アンダスンの『ワインズバーグ・オハイオ』も出て来た。コールドウェルは素晴らしい。サリンジャーと比較すると、まずとにかく比較にすらならない、というところから、僕によるサリンジャーの評価は始まる。『ワインズバーグ・オハイオ』は、僕にとって決定的なものとなった一冊だと言っていい。決定的とは、例えばこれを読んでしまえばあとはなにがあっても怖くない、というような意味だ。

(『図書』/2008年8月号掲載)

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 1945年8月6日、祖父の出身地である岩国に疎開していたぼくは、この日の朝、自宅のすぐ近くで、突然、背後から前方に向けて、光が走り抜けたのを見た。ほんの一瞬の出来事だったが、奇妙な印象が幼い僕の感覚の中に残った。それは広島上空に投下された原子爆弾が炸裂したときの閃光だった。この光と、きのこ雲を見たこの日に、僕は物心がついた。この時から僕は日本全体というものを初めて意識し、その中にいるひとりである自分、という認識のしかたで、初めて自分を捉えた。そして敗戦の次の日から体験することになったのは、オキュパイド・ジャパン、つまり占領下の日本だった。自宅のペイパーバックが増えていったのも同じくオキュパイド・ジャパンならではの出来事だった。高校生の頃には、ペイパーバックを次々に読むことはすでに僕の日常のなかに織り込まれていた。1961年、大学3年生の時、都電の系統図から早稲田から神保町へ行けることを初めて知り、都電で神保町へいってみることにした。三省堂で『地上より永遠に』のペイパーバックを買ったのが、僕にとっての最初の神保町体験だった。

(『図書』/2008年9月号掲載)

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 神保町の洋書露店は、僕の記憶に間違いがなければ、1964年いっぱいは続いていたと思う。1年に50回は通っただろう。それが4年間だから、合計では200回だ。1回に少なくとも30冊は買ったから、4年間にこの2軒の露店で買ったペイパーバックの数は、単純に計算して6,000冊にもなる。大学生だった間、僕は神保町に通い続け、卒業して商社に就職したものの3か月で脱落した。大学3年生のとき、ミステリー雑誌に短編を翻訳したことをきっかけにそこから少しずつ、フリー・ランスの書き手へと、僕は自分のありかたを広げつつあった。その僕にとっての拠点ないしは心の拠り所が、神保町となった。ペイパーバックを買う場所だった神保町は、ひとりの書き手として様々な仕事をこなすための、仕事場、打ち合わせの場所、仕事のあとの遊びの場所、食事の場所、などとなっていった。外部の書き手として関係する出版社が神保町の周辺になぜか多く集まっていたし、いったん神保町まで出て来るなら、そこからはどこへでもいきやすい。僕にとっては生活を支えるすべてのものがそこにあったから、神保町へ出て行くために定期券を買い、毎日のように神保町に現れていた。

(『図書』/2008年10月号掲載)

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 連合軍が日本を占領してすぐ、僕の父親は日本でGHQに雇われた民生局の局員のひとりとして仕事を始めていた。仕事先で手に入れたペイパーバックを持って帰ったり、出張先から自宅宛に送ったりしていたのだろう。5歳の僕がふと気づいたときには、積み上げられたペイパーバックの列がすでに何列もあった。それらを1冊ずつ見ていく、という遊びを僕が始めたのは、10歳になる前後のことだった。観察、鑑賞、点検、それにひょっとしたら考察、という要素も加わってひとつになったような、ひとり遊びの時間だ。僕にとっての読書体験の、一番最初のひとつだったと言ってもいい。題名やコピー、裏表紙の宣伝文句などは、見ればそのまま理解出来るという程度までには、英語に親しんでいた。東京へ戻った僕は、近所の古書店を巡り歩いてはペイパーバックを買う少年となった。買えばそのぶん確実に冊数は増えていく。岩国で3,000冊あり、呉でそれが倍になって6,000冊。東京へ戻って1年足らずで500冊は増えたから、合計で7,000冊に近づいていくのを目のあたりにしてようやく、かさばる、という現実を僕は受けとめた。

(『図書』/2008年11月号掲載)

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 13歳の頃から現在まで、ぼくはアメリカのペーパーバックを買い続けている。ペイパーバックの一体何がそこまで、僕を捉えるのか。買うほどにその数を増していくペイパーバックは、しかしどの一冊も、ひとつのかたまりのような固体ではない。何枚もの紙がページとして綴じ合わせてあり、そのページには文章が印刷してあり、その文章が小説であれノン・フィクションであれ、最初から最後までひとつにつながった物語世界を作り出している。ペイパーバックが持つ本としての構造は、これ以上ではあり得ないほどに、本質的に削り込まれたものだ。そしてペイパーバックは読者を選ばず、不特定多数の中にその身を置く。スタート地点における可能な限りの平等というものが、ここにあると僕は思う。何を受けとめて読むかは、その人の自由ないしは運命だ。さらに、本という外観つまり構造は内容がパッケージされたものだが、ペイパーバックにおいては、それがパッケージであるという本質が、ほとんどむき出しになっている、と僕は感じる。そこには手に取る自由や買い求める自由、あるいはその反対に、手に取らない自由や買わない自由がある。

(『図書』/2008年12月号掲載)

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 2008年の夏から秋にかけて、合計で200冊を越えるペイパーバックを僕は神保町で買った。それだけの数が今も神保町で買うことが出来る、という事実には改めて驚かないわけにはいかない。ひときわ暑い土曜日の午後、靖国通りの南側を駿河台下に向けて歩きながら、脇道に入ってすずらん通りへ出ようとしたら、ガレージ・セールの前を通りかかった。箱がいくつも出してあり、どれにもさまざまな本や雑誌が詰めてあった。そのなかのひとつに、ペイパーバックが50冊ほどあるのを、僕の視線が捉えた。手早く選んでひと抱え、つまり30冊ほどを買った。古書でペイパーバックを買うときの、充実した幸福感の基本はこのあたりにある。喫茶店での小一時間ほどの打ち合わせのあと、店を出た僕は、すずらん通りからさらに南へ出たところにある、ミステリーとSFの専門店へいってみた。数冊を購入し、次の店へと向かう。神保町の交差点を東へと渡り、サブ・カルチャーと呼ばれる領域を広く品揃えしている店へ僕は向かった。新たな入荷がないかぎり棚のペイパーバックは入れ代わらないのだが、専用の棚とは別の位置にある新入荷の棚で、思いがけないものを僕は見つけた。

(『図書』/2009年1月号掲載)

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2024年7月26日 00:00 | 電子化計画

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