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写真エッセイ『昼月の幸福──エッセイ41篇に写真を添えて』より13作品を公開

写真エッセイ『昼月の幸福──エッセイ41篇に写真を添えて』(晶文社/1995年)より13作品を本日公開いたしました。

 結末が主題の、ある映画について。この映画は始まった時すでに結末が語られている。結末がもっともスリリングな主題であるからだ。冒頭の場面は主人公の結末と緊密につながっている。前半、この映画はゆっくりと進んでいく。後半に入ると省略が多くなり、加速していく。結末というものが持つ牽引力は、物語の進展を加速させて当然だ。撮りかた、撮ったフィルムのつなぎかた、そして音楽の重ねかたなど、すべての点においてこの映画は、正面から端正に正解をとらえている。
(1993年のロシア・フランス合作映画『恋愛小説』(バレリー・トドロフスキー監督)の映画評)

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 美人は物語だ、と僕は思う。美人をじっと見る時、彼らは彼女の美人ぶりの中に好みの物語をかなり必死に読んでいる。人々は物語がなくては切なすぎて生きていけないに違いない。美人は物語の要素をすべて持っている。どんなふうにでも意味を読むことが出来るほどの、全体的なまとまりと美しさ。人々は現実という断片を断片のままにしておくことが出来ない。断片のなかから取捨選択し、なんとか自分好みの物語に仕立てたいと思い、そうする。したがって美人は、多くの人に読まれる運命にある。

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 イーヴ・アーノルドの写真と文章による『マリリン・モンロー』という本を陽ざしのなかでテーブルに置き、見返しをめくった。そのときのその本の美しさは、充分に被写体たり得ると、僕は思った。見返しのピンクとその隣りの白いページの対比。タイトルの淡さ。静けさ。美しい本は、写真の被写体としても、飽きさせない。

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 女優ロミー・シュナイダーの『ロミー セ・ラ・ヴィ』というタイトルの写真集を買った。遠い過去から近い過去にむけて、写真が順番にならべてある写真集を、僕はうしろから見ていくのが好きだ。イングリッド・バーグマンの写真集をそのようにして見たときは、面白かった。どこにでもいそうな中年女性が確実に、はっきりと、美しく若くなっていったのだ。ロミーの写真集は必ずしも時間順には並んでいないが、1961年から79年あたりまでの彼女の写真が収録してあった。これも僕は後ろから見た。

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 デイヴィッド・ホックニーの本を3冊使って写真を撮ったとき、僕は痛快な気分だった。こんな写真を撮ってやろうと思って画策した結果ではない。僕が持っているホックニーの本をすべて集め、なにだったかもう忘れた目的のためにそれらを見ていたとき、この写真は閃いた。閃いて当然、閃かなかったらそれはその人がうかつなのだ。

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 フィオルッチ(FIORUCCI)は、1967年にミラノで設立されたファッション・ブランド。海外セレブの愛用者も多く、80年代に大旋風を巻き起こした。いまはもう見かけなくなったが、そのフィオルッチによるデザインのキャンディーを、かつて東京でも買うことが出来た。袋のなかにたくさん入っている四角いキャンディー。包装紙をはがすと、なかにもう一枚、紙があった。この紙にもデザインがほどこしてあった。味はたいへんにキャンディーらしい、古典的な味だった。

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 ホテルで2週間過ごさなくてはいけなくなったとき、そのホテルのドラグ・ストアで、コルゲートの小さな歯磨きを1本買った。毎食後、僕は洗面台の前に立ち、そのコルゲートで歯を磨いた。たしか12日目の午後、そのコルゲートの小さなチューブは、中身をほとんど失った結果として、じつに面白い形を得ていることに、僕は気づいた。僕はこれを、そのまま持って帰ることにきめた。

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 外国の雑誌をなんとなく見ていたら、目玉焼きの写真を見つけた。じつにクラシックな目玉焼きが、ほんとに目玉焼きのように、美しく写真印刷されていた。僕はその目玉焼きを切り抜いた。そしてその目玉焼きを手帳にはさんで写真に撮った。この写真に、『手帳にはさんだ目玉焼き』というタイトルを、僕はぜひともつけたい。

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 外国の雑誌に、美女の顔が、色も鮮やかに印刷してあった。下唇では、唇の粘膜をすこしだけはみ出して、口紅が塗ってある。僕は口を中心に、その美女を雑誌のページから切り抜いた。この切り抜きから、口紅をいつもこんなふうに塗っていたひとりの女性をめぐる短編小説が出来るかもしれない。これはその最初のメモの断片だ、ということにしよう。

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 日付は不吉だ。ただ単にひとつの日付でしかなくても、それには意味があり過ぎるからだ。あるいは、ただ単なるひとつの日付ではあっても、そこに読み取ることの出来る意味は、無限に近くたくさんあるからだ。あるとき、アメリカのファッション雑誌の広告ページで日付が要素のひとつとして使ってあるものを見つけた。同じデザインで別の日付があるものも、僕は見つけ切り抜いておいた。そしてそれを写真に撮った。もともと不吉な日付がもっと不吉になるように、午後の光の色と影を使ってみた。

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 そのときその場所での自分自身を撮影した写真よりも、はるかに強くそのときその場所での自分を感じる写真、というものがある。ここにある4枚の写真(鎌倉の大仏、フェリーの切符、軽井沢のホテル、2体のマネキン)は、どれも僕自身が撮った。今となっては僕だけにしか意味を持たない、個人的なスナップ写真だ。これらの光景のこちら側に、あのときのあの場所での僕がいる。写真を見るたびに、僕はあのときの僕にたやすく戻ることが出来る。

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 ある年の夏の終わりに近い日、僕はある地方都市の駅裏の町なみを歩いていた。雑誌の連載中の紀行文のための、呑気な取材だった。アーケードのある商店街を歩いていくと、1軒の洋品店があった。そのとき、「ストロベリー・スカート」と手書きしたカードをピンで止めたいちご模様のスカートが、僕の目にとまった。スカート全体に、いちごの模様が鮮やかに散っていた。このふたつの言葉の組み合わせに、僕は感銘を受けた。

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 太平洋戦争の敗戦後から昭和35年くらいまでの期間にかけて日本で出版された単行本を、僕はかなり好いている。古書店でその期間に刊行された本を見つけると、内容を問わず買っている。過ぎ去った日々を手元に引き寄せるために、そのような本を買うのではない。現在の本に比べれば明らかに粗末だが、本として持つべき要素はすべて持っていて、しかも全体はきわめて簡素であり、その簡素さは不足や貧しさを感じさせることなく、むしろその逆に、これで充分ではないか、と言いたいほどの自己完結性がある。

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2023年1月10日 00:00 | 電子化計画

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