連載エッセイ「先見日記」より10作品を公開
「先見日記」(「先見日記 Insight Diaries」)は、株式会社NTTデータのWebサイトにて2002年10月から2008年9月までの6年間にわたり、延べ16人の執筆者によって連載された日記形式のエッセイです。片岡義男は創刊時から2005年4月までの約2年半、毎週火曜日を担当しました。今回は2003年3月から10月にかけて公開された記事を公開します。
社会のありとあらゆる領域が、まったく新たに作り直されるには、ありとあらゆる領域における、本当に出来る人たちという確実な層と広がりが、切実に必要とされている。価値が生まれていかなければ、それを作り出そうとした当事者たちの試みは、失敗でしかない。過程のなかでいくらがんばっても、最終的に到達したのが失敗という地点であるなら、評価はされないし実績にもならない。がんばったこと自体は評価されないのか、という意見がまだあるとするなら、それに対する答えはひとつだ。がんばっても失敗だったら評価はされない。
(『先見日記』NTTデータ/2003年3月25日掲載)
ごく標準的な出来ばえのそら豆を、鞘から取り出して茹でる。それをごく軽く、きわめて淡く炒める。その店では薄味の極みのように仕上げてあるが、味の芯はしっかりとある。その中心は塩だ。砕いたそら豆をごはんにまぶすようにしながら、前菜として食べる。もちろんこれがメインでもいい。中国の家庭料理のひとつの、何ということもない料理だ。しかしこれが実においしい。これをさらにおいしくするものが紹興酒だ。ご飯を呑み下しながらそれを紹興酒に追いかけさせると、このご飯にこの酒が、なんと見事に調和していることか、と感嘆する。
(『先見日記』NTTデータ/2003年4月8日掲載)
泣きっ面に蜂、ということわざは、おそらく誰でも知っているだろう。しかし自分の体験の中に、このことわざがまさに当てはまるものがあるかどうか。半世紀は遡る必要があるだろう。あったとしてもすっかり忘れていて、思い出すことは不可能だ。これからの日本にとって、泣きっ面に蜂の状況は、あり得るだろうか。これは大いにあり得る。と言うよりも、これからはただひたすら、泣きっ面に蜂へと、日本は向かっていくのではないか。
(『先見日記』NTTデータ/2003年4月29日掲載)
いつも電車を乗り降りする私鉄の駅の建物と合体して、スーパーマーケットがある。たまに僕はこの店内を見物して歩く。見るだけだと印象は淡いし感銘は残らないことに気づいた僕は、ここで買い物をしてみた。まあこれなら買っておいてもいいか、という気持ちになるものを、ひとつ、またひとつと僕はかごに入れていった。自宅へ帰って袋から取り出し、テーブルにならべて見渡したとき初めて、これはいったいなんだ、という驚きにも似た思いが、僕の頭のなかを走った。
(『先見日記』NTTデータ/2003年5月13日掲載)
小泉首相の支持率はいまでも50パーセント前後はある。そして日本の経済は低迷を続けさらなる悪化もあるだろう、という考えでいる人たちが70パーセント以上という比率で存在する。ここにこそ日本がある、と僕は思う。今日ここまでの日本と、ここから先に向けての時代に対処していこうとしている、いまこれからの日本とを、このふたとおりの数字の重なり合いのなかに見ることが出来る。
(『先見日記』NTTデータ/2003年6月10日掲載)
地元商店街に一軒ないし二軒、必ずあった薬局は、消滅するかわりに激変をとげて、現在にいたっている。人々の日常を支える役を果たしていた店のなかで、薬局ほど激しく変化した店は、ほかに例がないだろう。期間にしてほんの30年あるいは35年ほどのあいだに、昔の薬局は姿を消し、いまのドラグ・ストアへと変わった。この大きな変化のなかにも、日本人がそれまでの日本人とは別人へと変化していった過程を見ることができる。
(『先見日記』NTTデータ/2003年7月1日掲載)
これからの日本では人の数が急激に減っていくという。人が少なくなっていくにつれて、部屋のサイズが大きくなったりするだろうか。一軒の家なら敷地の面積が従来よりは明らかに広くなっていく、といったことが現実になる日が来るのかそれとも来ないのか。兎小屋と称され、密集して建っている三軒の家を壊したあとに、多少ともゆとりを持った一軒の家が建つ、という現場を住宅地の中に何度も見ることが出来るのは、いつのことか。
(『先見日記』NTTデータ/2003年7月15日掲載)
僕は文章を書くことを仕事にしている。どんなことを書くのですか、という問いがあるとしたら、悲しい、うれしい、というようなことは書かない、と答えよう。抒情や情緒を書くのではなく、ああ思った、こう思ったでもなく、きっとそうだろう、などでもない。醒めきった目にはそんなものは見えないからだ。醒めた、とはどういうことか。それは自分の気持ちに酔っていないことだ。そこにそのようにあるものが、その通りに見えるだけだ。なぜなら、すべてはこうでしかないのだから。
(『先見日記』NTTデータ/2003年8月5日掲載)
理想的なありかた、というものについて考えてみる。生きかたでも人生でもなく、ありかただ。ひとりでありたい、とまず思う。天涯孤独のようなことでもなく、何の意味づけもなしに、どこの誰ともつながることのない、純粋なひとりだ。それから、同じ場所にずっと住んでいたい、と思う。家が同じだというだけではなく、その家のある町なら町が、そのような住み方に耐えられるような町であることも重要な条件のひとつになるだろう。
(『先見日記』NTTデータ/2003年8月26日掲載)
人生とは時間だ。生命として母体に宿ったその瞬間から、人生の時間は始まる。そしてその生命がひとまず終わるまで、その時間は続いていく。もちろん一時的に止めることも不可能な、万人に等しく共通の、過酷にして非情な性質の時間、それが人生の時間だ。刻一刻と経過していく人生の時間は、経過してしまったが最後、取り返しはつかない。そしてそこへ来たばかりの時間は、来たと思ったときにはすでに消えている。ほんの1秒間の時間すら、人は取り返すことが出来ない。
(『先見日記』NTTデータ/2003年10月7日掲載)
2025年3月21日 00:00 | 電子化計画