連載エッセイ「そしてその他の物語」より12作品を公開
雑誌『Free & Easy』(イースト・コミュニケーションズ)にて2010年7月から2013年3月まで連載されたエッセイ「そしてその他の物語」からの12作品を本日公開いたしました。本編中の写真と共にお楽しみください。
フランスのグラフィック・アーティスト、フローラン・チャヴエによる『東京散歩』(2009)は、半年間東京のあちこちをひとりで歩きまわり、東京の景色を色鉛筆でスケッチした素晴らしい本だ。彼にとっては東京で目にするあらゆる物がすさまじく珍しかったに違いない。日本語は文字でも音声でも、ほとんど理解不可能な別世界なのだから、東京の景色は珍奇さのきわみにあったはずだ。その表層のすぐ下へと思考がのびると、そこにはさらなる謎が待ちかまえていた。謎の外面を何本もの色鉛筆でスケッチブックに写し取って半年。謎の内面に迫るための上出来なスケッチを存分に残したことは確かだが、フローランには謎の内面をかいま見ることが出来たのだろうか。謎の外面がこうであるからには、その外面には内面というものがあり、その内面を観察するなら謎は解けるはずだ、とフローラン・チャヴエは考えなかっただろうか。
(『Free & Easy』2012年3月号掲載)
本は3冊買うのがいちばんいい、という法則のようなものを、僕は発見している。なんとなく書店に入ったときなどには、この法則を思い出し、3冊だけ買うことにしている。3冊買いに効果は確かにある。同じときに同じ書店で買うのだから、人類の文化史という視点から見るなら、3冊を買うそのときは、まったく同一の一瞬であり、そうであるからには、その3冊は多層にして多彩な複雑さのただなかで、結びつき合っていると考えるのが正解だ。ある日あるとき、僕は東京の片隅で大きな書店の洋書売り場で3冊の本を買った。その3冊の本の表紙にはどれも等しく、主題としている人物の写真が使われていた。しかもブラック・アンド・ホワイトによる、肖像写真ではないか。白黒のポートレート写真で揃えてやろう、などというよこしまな考えを持った結果ではない。トニー・カーティス。エルヴィス・プレスリー。ウォーカー・エヴァンス。この3人だ。どれもいい写真だと僕は思う。
(『Free & Easy』2012年4月号掲載)
ハワイへいくのは僕にとって久しぶりだった。「おみやげを買って来てくださいよ」と誰もが言った。1967年頃のことだ。一般市民の海外渡航が自由化されて、まだ5年たっていなかった。おみやげ、とはなにか。ハワイにはハワイ饅頭があるだろうか、と僕は思った。そうだ、アロハ・シャツがある。「日本では着れませんよ」と、ほとんどの人が言った。「ほかになにかありますか」と聞くと、「さあ」と、多くの人が言った。ハワイのみやげは、なになのか。なにがいいですか、という問いに対する答えは、ほとんどと言っていい多くの場合、さあ、なのだった。「ワイキキのおみやげがいいですね」と、ふたりの人が言った。ワイキキで買うハワイみやげ。そうか、そういうことか、と僕は妙に納得した。熱海みやげは熱海の海岸で買わなくてはいけない。ワイキキ・ビーチでなにかを買えば、それは太平洋を西へと越えて、たちまちハワイみやげとなる。
(『Free & Easy』2012年6月号掲載)
『ピンク・マティーニとサオリ・ユキ』という2011年のCDと、『ピンク・マティーニ ディスカヴァー・ザ・ワールド ライヴ・イン・コンサート』という2009年のDVDを、どちらも最後まで聴き通し鑑賞し通した。素晴らしい体験だった。ピンク・マティーニがこれほどに楽しいバンドだとは。由紀さおりとピンク・マティーニの最初の遭遇はどのようなものだったのか、と想像を楽しんでいた僕は、2010年のウェブサイトの記事で、遭遇の接点は一枚のLPだった事実を知った。オレゴン州ポートランドは日系の人たちとのつながりをさまざまに持つ場所だ。ここにおそらく中古なのだろう、レコード店があり、そこである日、ピンク・マティーニのリーダーであるローダデールは1枚のLPを手に入れた。いまから40年以上前に発売された、由紀さおりの最初のLPだ。これにはヒット曲の『夜明けのスキャット』とともに『タ・ヤ・タン』も収録されていた。ローダデールはこの『タ・ヤ・タン』を、そしてそれを歌っている由紀さおりを発見した。
(『Free & Easy』2012年7月号掲載)
3冊のペイパーバックを材料にして、それぞれの表紙絵を疑似的な三次元にする遊びを、僕は試みた。トーマス・アレンというアメリカの写真家が2007年に作った『アンカヴァッド』という題名の本をこの遊びのお手本としている。やや古い時代の、それゆえに下世話なリアリズムで貫かれた表紙絵から男性や女性のさまざまにドラマティックな姿態を切り抜き、あたかも立体物であるかのように被写体にして写真に撮った本だ。ペイパーバックの表紙絵だけではなく、およそすべての絵画は、三次元の立体になりたいという、かなわぬ夢を見ているのではないか。もともと立体的に見えるように工夫をこらして描いてあるが、描かれたものが印刷してあるのは表紙という1枚の平面だ。その平面のなかに描かれた要素のなかから、的確に選んだものを切り離して立ち上げれば、1枚の表紙という単一の平面は、ふたつあるいはそれ以上の数の、平面となる。
(『Free & Easy』2012年8月号掲載)
エドワード・ホッパーのポストカード・セットを買ったのはバブルの頃の東京でだったと思う。そしてそれっきり忘れたまま、つまり1枚も使わないまま、時間は経過していった。ホッパーの絵の箱が目につくたびに、これをなんとかしたい、と思ったのだが、切手を貼って宛て名を書き、季節の挨拶のような文面を走り書きして投函しても、それはまったく自分らしくないのだから、絵葉書としての本来の使い道は最初から閉ざされていたと言っていい。なんとかしたいとは、結局のところ、自分で撮る写真の被写体にすることだった。セットの中から僕は5点を選んだ。どんなに小さくとも、あるいはどれほどにわき役であろうとも、その5点の絵のなかには空が描いてあった。ホッパーの描く青い空には静粛さと悲しさが同じ深さで同居している。その空に僕は強く引かれるものを常に感じる。どの絵の空もはっきりと見えるように、僕はその5枚のポストカードを配列し、自然光の撮影スタジオへ持っていってカラー・リヴァーサルで写真に撮った。
(『Free & Easy』2012年9月号掲載)
チューブ入りの食料品類をめぐって、僕が真剣な興味を展開するきっかけとなったのは、今年の春先にチューブに入ったマロン・クリームを1本、パリのおみやげとしてもらったことだ。冗談としてのパリみやげだが、クレム・ドゥ・マロンは英語で言うとチェスナット・スプレッドだという発見など、なかなかに得難いものがあった。100年前の発売このかた、豊かな栗の風味はまったく変わっていないという。東京で過酷にも多忙な日々を過ごしている人は、抱える鞄の中にこのマロン・クリームのチューブを一本、忍ばせておくといいのではないか。目的地へ電車で向かうつれづれに、ふと鞄を開いて中に手を入れ、マロン・クリームのチューブを探り当てそれを取り出し、ネジ式の白い蓋をはずし、チューブの先端を口に入れ、なかのマロン・クリームを4センチほど絞り出し、舌の上でフランスの栗に思いを馳せるなら、それはほんのいっときにせよ、心の癒しとして機能するのではないか。
(『Free & Easy』2012年10月号掲載)
トイレット・ペーパーは英語だと一般的にバス・ティシュー、という言い方がされている。化粧石鹼はデオドラント・ソープだ。写真にあるのはどちらもアメリカの製品で、僕は東京で手に入れた。日常生活のなかのデザイン、という広い範囲への興味が子供の頃から僕のなかでは持続していて、いまでも機会があれば一例としてこんなものを購入してはそのデザインを検討している。商品として包装された物体の容積の様子、そしてそこにほどこされたデザインの、視覚を通して気持ちへと届くなにごとかを検証したくて、僕はこの2点を写真に撮った。どちらのデザインもアメリカでは極めて日常的で平凡なものだ。日常的なデザインが視覚をとおして僕の気持ちのなかに送り込んでくる負荷は、デザインがこのようであるとき、もっとも少ない。デザインは気持ちを左右する。少なくとも僕にとっては、日常のデザインとしてストレスがもっとも少ないのは、こうした方向のデザインだ。
(『Free & Easy』2012年11月号掲載)
リグレーというブランドの製品で、黄色いパッケージのものは、その味と香りをジューシー・フルートという。人工的に作ったトロピカルな果実を何種類か調合したような味と香りだ。アメリカにおける日常デザインの、これは傑作のひとつだと僕は思う。何年か前にデザインは無残なものへと変更されたが、昔からのこのデザインのものも並行して販売されているように思う。あるとき、大きなサイズのものが登場した。それを初めて見たときには新鮮な驚きがあった。日常のデザインとしてとっくに完成の域に到達していたものが、思いもかけなかった変態をとげた様子を、なんの予告もなしに目のあたりにしたからだ。パッケージを開いて取り出した板ガムの1枚1枚の包み紙をはがすと、半光沢のような渋い銀紙に、スティックは包まれている。そしてこれもたいそうフォトジェニックだ。撮りかたは無限にある。ジューシー・フルートの写真は、無限迷路に踏み込む以前の試し撮りのようなものだ。
(『Free & Easy』2012年12月号掲載)
長く続いた残暑のある日、午後の光のなかで、今年の水鉄砲の記念写真を、コダックのカラー・リヴァーサル・フィルムで撮った。夏に買った、明らかにクラシカルなかたちをした水鉄砲だ。なぜ僕は水鉄砲を買うのだろうか。拳銃というものは最新のものであっても、どこかにかならず、昔からなんら変わることのない造形部分を残している。拳銃が発揮すべき基本的な機能には、昔もいまも変わりはまったくないからだ。実際に存在する拳銃をモデルにしながら、水鉄砲へとほどよい加減でデフォルメしたものを、僕はもっとも好む。現実の拳銃は、原稿用紙を押さえておく文鎮にはいいかもしれない、という程度の興味しかないのに、なぜ拳銃タイプの水鉄砲は好きなのか。水が細い線となって、自分の手のなかの水鉄砲から飛んでいくことに、僕はなにごとかを感じているのだろうか。自分ではまだ気づいてはいない自分が、水鉄砲から水を飛ばしたくなるのだろうか。
(『Free & Easy』2013年1月号掲載)
銀紙の記憶、というフレーズを僕は思いついた。ボールペンでメモ用紙に書いてみた。見た目の印象は思いのほか地味だ。短編小説の題名にも、そして短いエッセイの題名にも使える。字面どおり銀紙にまつわる記憶だ。幼い子供は小学校に入ると世界が社会に向けて急激に広がる。それまではまったく気づくことのなかったさまざまなものに子供なりに気づいていく。そのいろんなもののなかのひとつが、銀紙だったように僕は思う。例えばハード・キャンディの包装紙を開くとさらにもう1枚、今度は銀紙でくるんである、というキャンディがあった。湿気から守るための銀紙だったはずだ。この銀紙を平らにのばしてみたことが、僕の場合は銀紙の記憶のもっとも基本的なものだ。このような銀紙は長い時間の中で少しずつ減っていったようだ。ハード・キャンディなどはポリプロピレンの袋に密封してしまえば、銀紙を使う必要はまったくなくなる。銀紙に包んであるキャンディは、いまではかなり特別な存在へと移行しつつある。
(『Free & Easy』2013年2月号掲載)
薄いボール紙で作った小さな箱に、可愛らしい長方形のチューイングガムが、おそらく20数個入っている。これをスーパー・マーケットの菓子売り場で目にとめ、買おう、ときめるまでに5分なんて絶対にかからない。目にとまってからひと箱を買うための決断にいたるまで、このチューイングガムの場合、3秒という時間を必要とする。箱は小さなものだ。掌のなかに収まる、という言い方がそのとおりに当てはまる。蓋にはごく簡単なしかけでストッパーが工夫されている。ストッパーは蓋を閉じておく機能を発揮するから、鞄のなかで蓋が開いて粒ガムが散乱する、というようなことはない。小さな箱の中に入っているキャンディ類を、箱の外へとすべて出してしまう瞬間の、箱とその中に入っているものとの劇的な対比を楽しむのは、僕が子供の頃、自分の感覚の中に作り出した創造的な営みだ。箱をその外側から充分に観察したのち、中のものを取り出す。出て来たものは箱の内部なのだ。観察した外側と表裏一体となるべき、内側だ。
(『Free & Easy』2013年3月号掲載)
2025年2月7日 00:00 | 電子化計画
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