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エッセイ「散歩して迷子になる」より10作品(11〜20)を公開

雑誌『図書』(岩波書店)誌上にて、2008年から2011年まで連載されたエッセイ「散歩して迷子になる」からの10作品(第11回〜20回)を公開しました。岩波書店から2012年に刊行され、片岡義男.comでも公開中の『言葉を生きる』の元となった連載です。

 東京・吉祥寺の古書店でアメリカの本を6冊買った。2冊は1930年の映画雑誌で、残る4冊の本のうち1冊は1930年に刊行されたハワイの旅行案内だ。あとの3冊はペイパーバックだ。店に入ってすぐのところにある、1冊100円均一の棚のあちこちに点在していた。ミステリーやSFの専門店だと、店の前に100円均一の箱を出す、という形態はあり得ない。300円から3,000円くらいまでの幅で値段をつけられ、店の中の棚に並ぶ。洋書が専門ではあるけれど、ペイパーバックまでも専門品目とはしない、という方針だと、店の前の均一箱、あるいは店に入ってすぐのところにある箱や棚に、それらのペイパーバックは詰め込まれる。100円、200円という値段は、ただではないけれど限りなくただに近く、店としては捨てる一歩だけ手前のもの、という位置ではないかと僕は推測する。どのような本であれ、その本にとってもっとも幸せなかたちで循環させたいと、まともな古書店なら願うだろう。

(『図書』2009年2月号掲載)

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 神保町に今もあるその老舗の洋書店の名前は、子供の頃から知っていた。東京で外国の本を売っている店としてその店の名がほぼ必ず上がったからだろう。大学生の頃に早稲田から都電で神保町へと出ていき、古書店を回ってはアメリカのペイパーバックを買っていた僕は、この店までいくことはほとんどなかった。僕自身の神保町の時代が終わると、ほぼ入れ違いに僕は極めて多忙となり、神保町で古本のペイパーバックを買うことを、あるときを境にぱったりとしなくなった。だからこの洋書の老舗と言われる店にはついに入らないままとなった。時は流れコンピューターの時代となり、インタネットを経由して外国から本を買うことが簡単に出来るようになった。その老舗の洋書店は一旦閉店し、2階が古書だけを扱う洋書店として新装開店し4年が経つ。そして1年前の今頃、やっとその店に行くことができた。老舗とは専門店と同義だと言っていい。専門店とは、「かたいもの」がまんべんなく揃っている店、と言い直してもいい。

(『図書』2009年3月号掲載)

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 2008年の後半に買ったペイパーバックが、デスクの周囲にいまもまだ積み上げてある。今年になってからも買っているから、今では400冊にはなっている。その400冊を、小説や戯曲など創作されたものと、ノン・フィクションとに分けてみた。思わないわけにはいかないのは、100円という最終的な値段のあとには、何があるのか、ということだ。50円という値段になる可能性は充分にあり得る。50円の次は、あるいは50円をバイパスするとしたら、そのあとどうなるのか。この問いに対する回答の具体例を、ひと月ほど後、靖国通りの同じような場所で体験した。歩道の縁にいくつも出してあった洋書の箱の中に、1954年の1冊の本を見つけた。おそらく百円だろうと思いながら、これをくださいと言って店員に差し出すと「無料です」という答えが返ってきた。……100円の次は50円、あるいはそれを飛び越えて、無料となる。無料でも箱の中にたくさん残った洋書は、どこへいくのか。

(『図書』2009年4月号掲載)

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 2008年の夏からその年の終わりまでの間に手に入れたペイパーバックが、いまこの文章を書いているデスクのまわりに積み上げてある。小説とノン・フィクションとの比率が目測で5対1ほどだろうか。圧倒的に小説が多い。もう少しノン・フィクションが多くてもいいような気がするが、こんなものかなあ、とも思う。そしてノン・フィクションはすべてアメリカーナだ。アメリカーナとは、アメリカの様々な事柄を論じたり記述したアメリカ風物詩、というほどの意味だ。日本の書店での店頭用語では、アメリカ関係、だろうか。アメリカーナのペイパーバックは、そのどれもが、ストーリー・オヴ・アメリカなのだ、と僕は思う。アメリカはそれじたいが多種多様な物語だ。アメリカにはありとあらゆる物語がある。ノン・フィクションも、いったん書かれてしまえば、そしてペイパーバックになれば、それは物語以外のなにものでもない。

(『図書』2009年5月号掲載)

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 スポーツの世界での珍記録を集めた、ロバート・リロイ・リプレーの『信じようと信じまいと』シリーズの第1集を知人が送ってくれた。1941年初版で1945年の21版だ。子供の頃に何度も手にしては遊んだ、見覚えのある表紙を僕は久しぶりに見た。この第1集では、あの独特なイラストレーションは数が少なく、ひとつの項目の文章はかなり長い。こんなものが今でも手に入るとは。しかも古書店の外の歩道に置いた箱のなかで100円だったという。同封の手紙には「サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』など、まったく手つかずの状態で、初期のデザインのままの1962年版で手に入りました。……片岡さんの探してらっしゃるものもあるのではないかと、お知らせする次第です」とあった。次の日の午後早く、僕は神保町へいき、この書店を訪ねた。店の外にあったものも合わせて、買うことにしたペイパーバックが何冊になったか、そのときは数えなかったのだが、次の日に宅配便で届いたのを取り出して数えてみたら、ちょうど百冊あった。

(『図書』2009年6月号掲載)

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 1953年に僕は瀬戸内から東京へ戻った。GHQはその前年に廃止されたが、父親はいろんな形で米軍の仕事を続けた。ペイパーバックを持って帰ることを彼は継続させていたが、13歳となっていた僕は、古書店でペイパーバックを買う少年となった。あの頃の世田谷のあちこちに、なぜあれほどまでにアメリカのペイパーバックがあったのか、僕にとっては謎であり続けたが、いまようやく最も有力な答を思いついた。答えはワシントン・ハイツだ。明治神宮と接していた戦前・戦中の代々木練兵所が占領と同時に接収され、そこに、まさにアメリカそのものが建設された。しばしば訪れていた時期があり、知らないわけではないのだが、世田谷の古書店にあったペイパーバックとワシントン・ハイツは、いまになってやっと僕の頭のなかで結びついた。そして、僕が自分で買い始めたペイパーバックと、それ以前の期間に父親が仕事場から持って帰っていたペイパーバックとの間に、同じペイパーバックでありながら、僕にとっては歴然たる位相の違いが生まれた事実にも気がついた。

(『図書』2009年7月号掲載)

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 幼い僕が物心ついた時期は、太平洋戦争での日本の大敗戦と重なっている。物心ついた6歳の僕にとって、最初に自分の国として意識した日本は、オキュパイド・ジャパンだった。アメリカ軍が中心となって、日本全土を占領下に置いて統治した。僕にとっての最初の日本となったこのオキュパイド・ジャパンは、戦前・戦中の日本の当然の帰結としての、そこと完全に陸続きの日本だったことは言うまでもない。1953年の夏、瀬戸内から東京へ戻ってきたとき、オキュパイド・ジャパンはほとんど終わった。瀬戸内で僕の身の上に8年も続いたオキュパイド・ジャパンは、じつに快適で楽しい時空間だった。大人たちは目の前のことで精一杯であり、ああしろこうしろ、それはいけない、これもいけないと、うるさく細かく子供を管理する、という考えかたそのものが、当時はまだなかった。子供たちは良い意味でほったらかしであり、僕も8年間ずっと、子供そのものとして、遊び通した。これは僕にとってたいそう貴重な体験となったが、貴重なものは他にもある。

(『図書』2009年8月号掲載)

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 敗戦の次の日から日本では復興が始まった。これは小学校1年生だった僕の体感だ。敗戦で日本人は方向を見失い、完全に虚脱してしまった、という言いかたを僕はこれまでしばしば読んだけれど、これはずっとあとになって作られた、きっとそうであったに違いない、という種類のフィクションだと僕は思う。気持ちは楽だからこそ、敗戦の明くる日から、彼らは復興に邁進することが出来た。僕自身が瀬戸内で体験した楽しさや快適さに、当時の日本が置かれていた状態、つまりオキュパイド(占領下の)という状態、そしてそれと密接につながったものとして自分にあった英語というもうひとつの言葉は、現実を二重構造にした。いかに子供とは言え、このことをまったく意識しなかった、ということはあり得ないだろう。オキュパイド・ジャパンという現実を受けとめるものとして、僕にとってより有効に機能したのは、英語だったようだ。そしてそうではない日本を、英語を翻訳してあてはめたような東京言葉、という種類の日本語で受けとめた。

(『図書』2009年9月号掲載)

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 1953年の夏、13歳のとき、少年時代の入口に立った僕は、自分の言葉は日本語でも英語でもどちらでもいい、という呑気な幼年期を終えた。自分の言葉が日本語でも英語でもどちらでもいいという状態は、幼年期にのみ許される呑気さのきわみだろう。自分の言葉をふたつのうちどちらにするのか、のっぴきならない選択を迫られて切羽詰まる、という状態の反対側にあるのが、どちらでもいい、という状態なのだから。生活の現場をアメリカにする、という選択は、ほぼおなじ時期に、僕は自分の判断で消した。その結果として、自動的に、つまりある程度までは強制的に、自分が生きていく場所として、僕は日本を選ばざるを得ないことになった。日本で生きるとは、日本社会のどこかに入り込み、それを自分なりに引き受けていく日々を、自分の人生として送っていく、ということだ。このような意味で日本を選ぶと同時に、それに付帯するものとして、そこにおける自分の言葉として、日本語が自分の言葉となった。

(『図書』2009年10月号掲載)

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 高校生として過ごした3年間はたいそう楽しいものだった。よく遊んだからだ。高校生の日々が終わったらどうするのか、という大問題が目の前に立ちあらわれたのは、3年生の夏休みが終わり、校庭にもどこにも秋の風が吹くようになってからだ。大学へいく他なかった。進学してさらなる勉学にいそしみたい、という強烈な願望に支えられて大学へいくのではなく、中学から高校へのときとまったく同じように、世の中へ決定的に放り出されるまでの時間の猶予が欲しかったからだ。モラトリアムの時間をさらに手に入れ、世の中との直接の接触を先に延ばす、という判断が唯一の道だった。だがすべての授業への出席日数は大きく不足していたし、試験の成績は常に0点から30点くらいまで、という状態だった。大学へいくという判断はいいとして、卒業出来るのかどうか、という問題が厳然として存在していたのだが、僕は卒業することが出来た。なぜ卒業することが出来たのかは、いまにいたるも謎のままだ。

(『図書』2009年11月号掲載)

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2024年8月2日 00:00 | 電子化計画

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