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評論・エッセイ

散歩して迷子になる 19 モラトリアムという助走路

 一九五三年の夏、十三歳のとき、少年時代の入口に立った僕は、自分の言葉は日本語でも英語でもどちらでもいい、という呑気な幼年期を終えた。自分の言葉が日本語でも英語でもどちらでもいいという状態は、幼年期にのみ許される呑気さのきわみだろう。自分の言葉をふたつのうちどちらにするのか、のっぴきならない選択を迫られて切羽詰まる、という状態の反対側にあるのが、どちらでもいい、という状態なのだから。
 生活の現場をアメリカにする、という選択は、ほぼおなじ時期に、僕は自分の判断で消した。その結果として、自動的に、つまりある程度までは強制的に…

『図書』二〇〇九年十月号

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