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エッセイ「ロンサム・ジョッキー」より15作品を公開

モーターマガジン社から発行されていた雑誌『ミスター・バイク』にて、1976年の創刊号(5月号)から1978年10月号まで連載された「ロンサム・ジョッキー」からの後半15作品を本日公開しました。

 1975年の冬、カリフォルニアのカナーガ・パークに編集部のあるバイク雑誌『ストリート・バイク』に、テスト・レポート用にアメリカ・スズキから水冷三気筒の750(ウォーター・バッファロー)が届けられた。テスト・レポートを誌上で発表したあと、編集部では、このオートバイについて長期間のテストをすることに決めた。1年間かかって実走行19,200キロに達し、そのレポートが『ストリート・バイク』の1976年12月号に掲載された。長期テストがはじまった当初は、編集部の誰もがウォーター・バッファローを小まめに手入れしていたが、3日間続いた雨嵐を機に一切のメインテナンスをぴたりとやめてしまった。それから6か月。受難の日々を経たウォーター・バッファローは、ついに12,000マイルに到達した。

(『ミスター・バイク』1977年7月号)

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 バイクは転ぶ。転ぶからこそバイクだ。と言ったら、おかしな言いかたになりすぎるだろうか。なりはしない、とぼくは思う。バイクは転ぶのだから。走っていなくてもバイクは倒れる。4輪車にはまずないことだ。比較的安定している走行時ですら、ライダーが自分の体で補ってやらなければどうにもならない部分がいっぱいある。原理的にはものすごく複雑なことをライダーは行っている。誰に教わったわけでもない。無意識に自分の体の内部から出てくる動きによって、バイクをコントロールしているのだ。いまのバイクが、どれもみな一定の完成度に達した機械であるとするならば、そのバイクたちが無言のうちに常に要求しているのは、乗り手の完成度であるはずだ。

(『ミスター・バイク』1977年8月号)

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 長い年月にわたって、おそらくは同じ持ち主が、ごく素朴に使ってきたベッドだということは、ひと目見ただけでわかった。分厚い木材を用いた、簡素な造り。ふたり用のそのベッドは、牧場の古い納屋の脇にある林に寄せて置いてあった。ベッドのヘッドボードの脇に立つと、草地の全体が見渡せた。この牧場の初代の主である、75歳になる夫婦が夏の間、外に置いたこのベッドで寝るのだ。夜、月が高くのぼるころ、林のずっと遠くからコヨーテの鳴き声が聞えてくる。夜の中で樹々が深い影となるとき、その影の中に夜のさまざまな主役たちが登場する。黒衣の魔女。小さな鬼。黒い馬にまたがって闇を駆ける首のない男………。並んでベッドに腰をおろし、夜の林に姿を見せる魔女やゴブリンたちを、ふたりは飽かずながめる。夜の主役たちを邪魔しないよう、ふたりはそっとむこうの林を指さしては、小さな声で語りあう。

(『ミスター・バイク』1977年9月号)

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 ぼくは真夏の半島のワインディング・ロードをひとりじめにしていた。陽の光と風を感じながら、バイクとの一体感を楽しんでいた。右まわりのカーブでその頂点に張り出していくたびに、強い陽をうけて光っている夏の海が視界に広がって見えた。淡い灰色のサングラスごしに、無数の小さな波のきらめきのひとつひとつが、海が声をそろえてうたう太陽の讃歌のようだった。陽が落ちるまで真夏の半島を走ったぼくは、夜、宿につき、夜中までの時間をすごしてから再びバイクにまたがった。いつだったか、その岩場で釣った3キロに近いイシダイについて語ってくれた男のことを、ぼくは思い出していた。岬の先端から、海の中にのびている岩場の暗い中に小さく明かりが見えた。釣り人が来ているのだ。

(『ミスター・バイク』1977年10月号)

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 ぼくは『ロード・ライダー』と並ぶツーリングの専門誌『ツーリング・バイク』を毎月必ず買って読んでいる。第10号には「倒れたバイクのハイウェイ・パトロール風な起こしかた」という記事があった。倒れたバイクの起こしかたは、ハイウェイ・パトロール・アカデミーでもやはりちゃんと教えてくれるのだそうだ。倒れたバイクをじっと見つめてから、その周りをおもむろに歩き回り、ガソリンが漏れていないかよく観察する。足を踏んばるところも細かく見る。すべりそうではないか、うまく踏んばれそうか、正確に判断を下す。そして、やおら倒れたバイクに手をかけ、何事もなかったかのように素早く、さっと起こしてやるのだという。同じ号には、「アルミ・フォイルの使い方」という記事ものっていた。残りもののシチューを厚手のアルミ・フォイルにくるみ、エンジンのシリンダー・ヘッドの上に落ちないように針金で固定する。エンジンの熱で、やがてくつくつ煮えてくるのだ。

(『ミスター・バイク』1977年11月号)

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 何年か前の夏、ツーリング中に山道に入る手前のガス・ステーションで、冷蔵庫の氷を浮かべた水をもらった。バンダナでしきりに汗をぬぐっていたら、ステーションの彼女がくれたのだ。グラスの水には四角い氷が3つも4つも浮いていた。夏の空を仰ぎながらその水を飲むとき、氷同士が触れあい、そして氷がグラスに触れ、涼しくかわいい音をたてていた。その夏は、湖の上にある森の中の道路のバス停で、静岡から来たという3人連れの女のこたちに写真を撮ってもらった。記念写真を撮ってあげたら、お返しにとバイクとぼくの写真をケイコという名の女のこが撮ってくれた。夏の終りに、静岡のケイコから手紙が来た。スヌーピーの封筒に、チャーリー・ブラウンの便せん。小さな、丁寧な字で手紙がしたためてあり、写真が同封してあった。ケイコ、ぼくのあの写真、どうしただろうね。

(『ミスター・バイク』1977年12月号)

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 チョッパーの専門誌『チョッパーズ』の1977年8月号に、ジョーディ・ヴィアという人物が書いている小説のようなものが目についた。タイトルは『ワンス・アポナ・サマ・デイ』。日本語にすれば「かつて夏の日に」か。「俺」という一人称で、書き進められていて、読んでみるとこれがなかなかいける。冬の間ずっとメンフィスにいた「俺」は、夏のなかばになって、ようやく愛するチョッパーにまたがって出発した。あてがあるわけではない。俺は放浪のジプシー・ライダーだ。やがてお腹がすいてきた。入ったレスト・エリアでチョッパーを陽かげに止め、ベンチに座って持参のカンづめのポーク・アンド・ビーンズを食べる。そこにキラキラと光ったオールズモービルが、俺のチョッパーをもう少しでひき倒しそうなほど、すれすれのすぐ隣に止まった。

(『ミスター・バイク』1978年1月号)

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 オートバイの音をLPにしたい、とコロムビア・レコードのAさんから聞かされたとき、ぼくはW1のことを真っ先に思った。W1の走行排気音を、走行時のライダーが実際に自分の耳で聞いている感じでLPに収めることができたら素敵ではないだろうか、と。Aさんは賛成してくれた。A面はひとりのライダーが走る音。B面は3人のライダーが3台のW1で走る音を、そのうちのひとりが聞いている感じで音をとりたい。サーキットではなく、多くのバイク・ライダーが好んで走る日本の名所のような道路を走って録音したい。基本的なプランができたところで、ぼくはB君に相談した。ぼくがFMの深夜番組でヨンハンのK1が欲しいと喋ったら、自分のをゆずってもいいですと、さっそく葉書をくれたのが彼だ。コースは日光のいろは坂と西伊豆に決まった。本番の録音に入る前には、大井の埠頭で何度かテスト録音を行なった。

(『ミスター・バイク』1978年2月号)

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 波止場から連絡船の上まで、斜めにタラップがかかっていた。下におろしていた彼女の荷物を、彼は持った。
「来たときよりも、荷物は軽くなったみたいだよ」と、彼は言った。陽に焼けた顔で、笑っていた。
「あなたの力が強くなったのよ」彼女が、答えた。彼女も、陽焼けしていた。彼と同じく17歳だ。これから8時間近くかけて、彼女は連絡船で海峡を渡る。ひと月に及んだ夏の旅行を終えて、海峡のむこうの故郷に帰るのだ。
「どうもありがとう。いろいろと、ありがとう。とっても楽しかった」。差し出された彼女の右手を、彼は握った。
「お手紙をちょうだい。私も書くし、電話もするわ」
「うん」
何か気のきいたことを言いたいのに、うん、としか言えない。それに、握手だけで終るのだろうか。手を握り合っている彼女をやさしくひきよせつつ、一歩だけでいいから前に出て肩を抱けば、キッスくらいできるはずなのに。

(『ミスター・バイク』1978年3月号)

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 克彦と満昭は、当時17歳の少年だった。ふたりは、信州の盆地の小さな町に住む高校生だった。ふたりとも16歳でナナハンの免許をとり、克彦は3シリンダーの500、そして満昭は500の2シリンダーに乗っていた。
夏休みのある日。克彦と満昭のところに、それぞれ、一枚の絵葉書が届いた。差出人は、ふたりが通っていた高校の、同級生の女のこだった。細かい字でびっちりとなにか書いてある。小さな地図が描き加えてある。読みおえて、ふたりは仰天した。その同級の女のこ、美佐子は自殺するというのだ。理由は書いてなかった。どこで死ぬか、その場所も説明してあった。「この葉書が届くころには、もう私は死んでいるでしょう」と、どちらの葉書にも書いてあったのだ。克彦あての葉書が、「その1」となっていて、文末には「その2に続く」とあった。「その2」とは、満昭のところに届いた葉書だった。「その1は、克彦君にあてて出しました」と、書いてあった。

(『ミスター・バイク』1978年4月号)

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 夏の終りの深夜、1時すぎ。都心の大きな交差点。頭上は高速道路だった。東西に走る高速道路に、南西からきたオン・ランプの合流車線が、交差点の上で巨大なコンクリートの三叉になっていた。彼のオートバイは、交差点から東へはずれた、南東からの斜めの道路を時速90キロ近いスピードで走ってきた。幹線道路に出るところには横断歩道と信号があった。90キロでその青信号に突っこんできた彼のオートバイは、道路のほぼ中央から、制動なしで東西の幹線道路に踊り出た。6車線のまん中に差し掛かる地点で彼のオートバイは左方の交差点の中央にむかった。そこには白ペイントで大きな丸が描いてあった。この丸のぎりぎり内側を後輪でクリアしつつ、彼のオートバイは、今度は右へ大きくきりかえされ、南北にのびる6車線の左側3車線に飛びこもうとしたらしいのだ。はっきりしたことは、わからない。なぜなら、交差点の中央の白い丸にさしかかる以前に、彼のオートバイは、タクシーと衝突したのだから。

(『ミスター・バイク』1978年5月号)

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 夏休みがはじまったばかりの、気持よく晴れた暑い日。落ちこぼれの高校3年生、ヒロシは今日も朝からオートバイに乗っていた。彼のオートバイは500㏄。2気筒なのだが、小柄でスリムな車体はなかなかスタイリッシュだった。その日、ヒロシは、自動車道のサービス・エリアのレストランで遅い昼食をとった。食事を終え、駐車場のはじっこの方にとめた自分のオートバイのところまで来ると、彼の500㏄はゴロンとコンクリートの上に横倒しになっていた。驚いて駆け寄ろうとするヒロシは、その横倒しのオートバイのそばにいた若い男が、しゃがんでハンドルに手をかけるのを見た。男はオートバイを起こそうとしたが、起きなかった。男は、オートバイのシートを靴のさきでポンと蹴り、「チェッ!」と、言った。後ろから駆け寄ったヒロシは、男の尻を、ライディング・ブーツで、蹴りとばした。「あっ!」とよろめく男の背中をさらに突きとばした。男をこてんぱんにやっつけ、自分のオートバイを起こしたヒロシは、そばに立っているひとりの女性に気づいた。

(『ミスター・バイク』1978年7月号)

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 15歳のマスミは、とても素敵な女のこだった。まず、気立てがいい。素直でやさしく、賢明でりりしく、…小さなものをいたわりつくす永続的な愛。すんなりしたバランスのいい体は、しなやかな柔軟性と何者にも束縛されない瑞々しさ、そして夜空に輝く無数の星のようにさまざまな可能性を湛えて、いつもはずんでいた。マスミの顔の美少女的なかわいさには、俗世間的なものを超越した、どことなく宇宙人的な鋭さがあった。でも、この鋭さに気づく人はさほど多くなかった。マスミには、いろんな才能があった。ギター、絵、文章、スポーツ……それから、カラスと話をすることができた。マックスという、まっ黒なカラスだった。バスで20分ほどの小さな湖の北側の森にマックスは住んでいた。マスミは週に一度はこの湖のほとりに来て、ギターを弾きながら歌い、絵を描き、文章をしたため、カラスのマックスに好物のクルミを食べさせながら、話をした。

(『ミスター・バイク』1978年8月号)

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 オハイオをあとにしたのが2日前のこと。サンシャインを求めて、この俺はひとりハイウエイをいく。オハイオを出て以来、まったく陽は照らない。一度だけめぐりあったサンシャインは、ミズリー州のどこかの、田舎町のハンバーガー・ジョイントにいたサンシャインという名の女のこだけ。ハイウエイを走れば走るほど、空は嵐の雰囲気になってくる。風が強くなり、俺の体に鋭いジャブを放つ。はるか西の空で、灰色の厚い雲に切れ目ができた。深い切れ目は奥にひそんでいる太陽の光りを浴び、赤っぽいオレンジ色に染まっている。雲の深い傷口から、オレンジ色の光りの束が斜めに平原を射る。それを見つめて、俺はチョッパーにまたがって走る。雲を見上げている俺の顔に、ついに、雨滴が当たった。雨に追いつかれて、たまるものか。風圧の壁にむかって、俺は突進していった。後方で、せきを切ったようなどしゃ降りが始まった。

(『ミスター・バイク』1978年9月号)

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 その日はものすごく暑かったそうだ。あとで知ったことだ。ぼくは、渓流のそばに、愛するオートバイとふたりだけでいた。本格的に始まった夏のまっ盛りであることは確かなのだが、素晴らしい涼しさだけをいまぼくは記憶している。まるでカウボーイのように岸辺の草に腹ばいになったぼくは、上半身を渓流のうえに乗りださせた。流れる水に顔をつけ、飲んだのだ。澄みきった水がぼくの顔を洗い、唇から口に入り、舌や歯にしみこむようにして喉の奥に流れこんでいった。樹々の葉ごしに、渓流には青空が映っていた。ぼくは、青空を飲んだ。小鳥の声とその清らかで冷たい流れの音を聞きながら、ぼくは昼寝をした。このふたつの音が、夏の盛りのはじまりに、ぼくが聞いた音だった。この日から、夏が終った日まで、ぼくは夏の中にどんな音を聞いただろうか。

(『ミスター・バイク』1978年10月号)

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2024年7月12日 00:00 | 電子化計画

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