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エッセイ『片岡義男のアメリカノロジー』より13作品を公開

1976年9月から1986年9月まで雑誌『POPEYE(ポパイ)』に長期連載されたエッセイ『片岡義男のアメリカノロジー』より、書籍等に未収録の13作品を公開いたしました。
※今日からみれば不適切と思われる言葉や表現がありますが、作品が書かれた時代背景と作品的意義を考慮し、原文のまま公開しました。
※説明上必要と思われる部分には画像が挿入されています。これらはすべて掲載当時の雑誌からの引用のため、画質が粗いものもあります。

 ハンク・ウイリアムズ(1923〜1953)から受けた影響を、歌手としての自分の基本的なドライビング・パワーにしている人は多い。その中でもジム・オーエンは、最も新しいニュー・カマーだ。ジムはもともと少年専門の心理カウンセラーをやっていた。だが、本当はカントリー系のソングライターになりたかった。彼は妻であるイヴェットに後押しされ、レコード会社に「ハンク・ウイリアムズの生涯と歌を、1時間半から2時間のワンマン・ショーでやりたい」というプランを持ち込んだがすべて断られる。その後何人かのプロモーターにあたったところ熱心な反応を示され、これはいける、と直感したジムは、自分でブッキングとプロモーションを行い、全米いたるところの公会堂やハイスクールのジムなどでのショーを始め、着実な人気を集めていった。今、『ハンク・ウイリアムズと共にすごす夕べ』というタイトルのワンマン・ショーをひきいて、全米を回り歌っている。
※ジム・オーエンは2020年に78歳で死去しました。

(『POPEYE』平凡出版/1978年5月25日号掲載)

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 海兵隊の航空機整備兵だったボビーは、日本製のブリキのピストルのおもちゃを収集していた。きっかけは中国地方の田舎町のオモチャ屋で、日本製のブリキのピストルを見初めたことだった。戦後の日本でまず最初に出まわりはじめたおもちゃのひとつが、ブリキのピストルだった。金型でピストルの形を左右2パートに打ち抜いて、簡単な鋲でとめたものだ。細い紙テープ状の火薬を連発装置にとりつけると、ほんとに連発でパチンパチンと鳴らすことができた。ただそれだけのことだが、子供たちには人気があった。当時のぼくは気が向かなかったが、いましみじみ見直すと、ボビーが感心していた理由が何となくわかるような気がする。形及び全体的な雰囲気がイマジネーションに富んでおり、現実とイマジネーションの狭間を漂いながら達成した造形力には、本物そっくりのモデル・ガンには絶対に出せない、不思議な愛嬌をたたえた別世界がある。

(『POPEYE』平凡出版/1978年6月10日号掲載)

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 風の香りに目が覚める。まだ雲のない朝の山から砂糖キビ畑の上を吹き渡ってくる風だ。甘い風。量感がある。今日も快晴、マウイ日和の暑い日だよ、早く起きろ、と風が言っている。これからショッピング・センターのなかの小さなテイクアウトで朝食だ。日系の眼鏡をかけたキクエおばさんがぼくの注文をきいてくれる。目玉焼きふたつ、サニー・サイド・アップ。バター・トースト1枚。苦味の強いマーマレードをほんのすこし。巨大なグラスいっぱいの冷たいオレンジ・ジュース。それと、同じグラスにミルクを1杯。どこからともなく、日系二世の引退ご老人が歩いてくる。ぼくがここに来ているのを知っていて、昔話をしに来たのだ。淡いコーヒーを昔話のさかなに、1時間、2時間と、朝の時間が流れていく。ご老人を車に乗っけ、彼の昔話に登場する土地の実地踏査にいく。ラハイナルナ・ロードを山のほうへあがっていくと、昔のハワイがそこにある。ひと昔ふた昔どころではない。

(『POPEYE』平凡出版/1978年7月10日号掲載)

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 アイスクリームは、偉大なる故国アメリカの素晴らしさのシンボルであり、第二次世界大戦中には弾丸と同じ必需品の扱いを正式にうけ、戦地で兵士たちに供給されていた。昔はアメリカでも地方によってそのアイスクリームに大きな特徴があり、今では全米どこのスーパーマーケットにでもあるブランドも、かつてはローカルなものだった。農業全般に関して熱心に研究している大学、たとえばペンシルベニア州立大、オハイオ州立大などでは、アイスクリームやフレイバーの研究をずっと続けていて、学生たちが創意工夫していろんなフレイバーをつくりだす。これらは偶然に面白いものが生まれることが多く、ワイルドキャッティングと呼ばれている。今もアイスクリーム・メーカーは各社競って新しいフレイバーを開発している。アメリカでは、アイスクリームはガキのオヤツではなく、連邦政府によってちゃんとFOODに分類された食料品なのだ。

(『POPEYE』平凡出版/1978年8月10日号掲載)

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 1908年にフォードがモデルTを売り出し、自動車のマスプロ時代がはじまった。モデルTはラグトップ(布製のトップつき)だったが、メタルのパーマネント・トップのセダンが同じ年に出て、ここにはじめて、アメリカの自動車は町の中を動き回るための足であるメタル・トップの箱と、オープン・ロードをふっ飛ばすための、遊びの要素の濃いオープン・ボディのロードスターとのふたつに分かれた。コニー(コンバーティブルの愛称)はアメリカの歴史をそのまま映している。1910年以前は、アメリカのほとんどの自動車が、カスタム・デザインのラグトップだった。メタル・トップが経済的にも技術的にも簡単に生産できるようになると、普通の車はすべてメタル・トップのついた箱になった。そして戦後、1950年代に入って急激に高まった物質的な豊かさの上に、コニーはカムバックした。新しいオープン・カーに乗って走りまわることは、一般の人にとっても手軽に楽しめる、戦勝国の豊かさだったのだ。

(『POPEYE』平凡出版/1978年11月10日号掲載)

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 ジェームズ・フィックス(1932〜1984)は、ボストン・マラソンに6回出場してすべて完走。1万メートル競走では、年齢別のクラスで優勝をはたしているアマチュアのランナーだ。ジムが自分のランニング体験をもとに、多くのランナーたちや医者たちに取材して書いた本『コンプリート・ブック・オブ・ランニング』は、超ベストセラーになった。アメリカの人たちがランニングに目覚めたのは1972年、ミュンヘンオリンピックのマラソンでフランク・ショーターが優勝してからだ。流れるように軽やかに、しなやかに走るありさまは、ランニングというものを全く新しいイメージでアメリカ人たちに見せてくれた。現在のフランク・ショーターは、「好きだから」というただそれだけの理由で走っている。何事にせよ、それをやっている当人がそれをエンジョイしてさえいればそれは最高の善である、という実践的な哲学をアメリカ人たちは信奉しており、フランク・ショーターは、このアメリカ的な哲学の、もっともアメリカ的な体現者のひとりなのだ。

(『POPEYE』平凡出版/1978年11月25日号掲載)

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 ハワイアン・レッドウッドから削り出したソリッドなロングボードが全盛だったのは、1910年代から1920年代だった。全長8フィート前後、長くなるとサーファーの身長の2倍はあった。1929年、ハワイアン・サーフボード・チャンピオンシップにこのロングボードで、アメリカの太平洋岸から参加したサム・レイドは、このハワイアン・サーフボード・チャンピオンシップ初めてのハオレ(白人)として優勝した。カリフォルニアのマラブー(マリブ)の8フィートの波に初めて乗ったのも彼だ。スケッグのない平らなレッドウッド・ボードで波をつかまえた。1931年、ワイキキ・ビーチ沖で、記録に残るものとしては最大ではないかと言われる40フィートをこえる波に乗ったのも、サムだった。高さが35〜40フィートという波が次々に襲ってくる海の中に、サーフボード1枚でほうり出されているときの怖さは、想像を絶している。サム自身、非常に恐しかったという。当然のことだ。こうした波乗りのオールドタイマーたちの物語は、すさまじく面白い。

(『POPEYE』平凡出版/1979年2月25日号掲載)

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 アメリカのハイスクールには《スピーチ》という科目がある。話すこと・聞くことによるコミュニケーションは、日常生活から政治・経済・文化そして世界各国の国際的な交渉にいたるまで、非常に重要な役を果たしている、という認識のもとに、コミュニケーションの基本原理からアクティビティという実習つきでがっちりと鍛える。とにかくアメリカには国語であるアメリカ語の優れた自習書が多く、アメリカの文化的な伝統のひとつのようになっている。例えば『アメリカにおける言語と生活』は、コンテンポラリーなアメリカの状況を、文化や政治、経済、日常生活のさまざまな局面から理解できるだけでなく、アメリカの民主主義のルーツに結びついた国民性など、アメリカのことが広範囲になんでもわかる。他にも帰化のためのマニュアルや、食堂のメニューばかりをあつめた本、DCコミックスで活躍しているヒーローたちが、言葉の説明役として登場する辞書など、アメリカを知るための本は語学書以外にも数多くある。

(『POPEYE』平凡出版/1979年6月10日号掲載)

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 アメリカのメディアを通して、日本人がアメリカの文化に触れていくという歴史はもちろん戦前からあったが、その歴史は太平洋戦争の終結で、大きく新しい出発点になった。戦後、アメリカの占領軍と共に流入したアメリカ文化の象徴として、ハーシーのチョコレートやリグレーのチューインガムといったものがよく引き合いに出されるが、活字メディアも重要な働きを担っていた。『リーダーズ・ダイジェスト』『ライフ』といった雑誌も占領軍の基地経由で入ってきたが、「兵隊文庫」と呼ばれるアメリカ軍向けに発行されたポケット本は、日本で英語に親しみ、アメリカ文学やジャーナリズムとの深い関わりを持つ人々にとっては、アメリカ文化を吸収し、より深く理解するための重要な手段となった。アメリカのメディアを通じた文化交流は、日本におけるアメリカ文化の理解と受容の基礎を築き、両国間の文化的結びつきを強化していった。

(『POPEYE』平凡出版/1979年12月10日号掲載)

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『ハーヴァード・ビジネス・レヴュー』(HBR)誌は、アメリカのビジネス界のあらゆる領域に意思決定者、つまりトップを送り出すことを目的にしたエリート的な教育機関、ハーヴァード・ビジネス・スクールが発行する隔月の雑誌だ。アメリカのビジネス界での意思決定者とは、極端に言えば例えばボーイング社のジェット機、737とか727とかをビジネス活動の足として購入することを真剣に考えるような人たちだ。僕が1979年9・10月号の中で興味をそそられたのは、カウンターセグメンテーションのマーケティングの問題だった。値段は高くてもいいから自分の好みや必要性にぴったり合ったものを買いたい、というセグメンテーションの傾向がまだ続く一方で、余計なお飾りのない、基本的なしっかりしたものを安く買いたいという傾向が目に見えて高まっているのを、マーケティングの専門家たちはさすがに見逃さない。このカウンターセグメンテーションは、例えばアメリカのスーパーマーケットなどですでに現実に進行している。

(『POPEYE』平凡出版/1980年1月10日号掲載)

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 僕は10歳になる前、瀬戸内海が今のように死の海になっていない、ものすごくきれいだった頃に、無人島探検で友人たちと一緒にいろんな小島に何泊もしていた。小さな漁村で昼間に目をつけておいた漁船に夜になってから乗りこんで占領を宣言する。そして手こぎの櫓をこぎ、夜の海へ出ていく。島に上陸し、ひとわたり偵察してから、設営をはじめる。食事の時間がくる。この、チャウ・タイム(めしどき)に、しばしば重要な役を果たしたのが、当時は〝進駐軍〟と呼ばれていたアメリカ軍の、戦場用の携帯食(インディヴィジュアル・コンバット・ミール)だった。ヨコ150ミリ、タテ127ミリ、高さ77ミリの箱の中に1食分すべて収まっていて、いろんなユニットのいろんな献立がある。オリーブ・ドラブ色のカン詰めには、ハム・アンド・エッグス、クラッカーとキャンデー、アプリコットのシロップ漬けなどが缶を分けて入っている。銀紙にビニールを薄くひいた袋には、スプーン、マッチ、チューインガム、コーヒーなどが入っていた。

(『POPEYE』平凡出版/1980年2月25日号掲載)

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 シアトルにアーリー・ウィンターズという名前の会社および店がある。アウトドアや自然愛好者たちのための小物類を作って売っている。このようなリテイラーがアメリカには多く、通信販売もおこなっている。1979年から80年にかけてのアーリー・ウィンターズの冬用カタログの第1ページには、日本のお弁当箱が1ページ全部を使って紹介されている。アウトドアーズ愛好者たちにとってこのアルミ合金製のジャパニーズ・ピクニック・ボックスがいかに価値あるものであるか、1ページを使って延々と、いかにもアメリカ人らしく売りこんである。彼らに言わせるとこのピクニック・ボックスは、クラッシュプルーフ(簡単にはへこまないので、中に入れたものが保護できる)、アシッド・レジスタント(酸に侵されない)、ウォータータイト(水気のものを入れてもこぼれない)なのだ。使い方の例がカタログにカラー写真でのっているが、アメリカ的で面白い。ときどき、なかば冗談のつもりであれやこれや買ってみる。ちょうど忘れた頃に品物が届き、楽しい。

(『POPEYE』平凡出版/1980年5月10日号掲載)

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 かつてアメリカで発行されていた『コロネット』という家庭雑誌の1946年5月号の特集《アメリカのキッド・シスター》を見ている。キッド・シスターとは10代の女の子たち、という意味だ。戦争が終って、さあこれから1950年代にむかって、人類史上前代未聞のオプティミズムと物質的な繁栄をいっきに盛大になしとげていこうとする寸前の、時代的な雰囲気のようなものがこの雑誌の中にもよく出ている。特にボビーソクサーと呼ばれる女の子たちは、大人たちが計り知れない新しい価値観や感覚を持っていた。フランク・シナトラの歌に夢中になっていた彼女たちは、大人の世界からはまったく別の離れたところで、ティーンエージャーだけの感覚や価値観による一種の共同体を形作っていた。アメリカのユース・カルチャーの土台が、戦争が終った明くる年には早くもできていたことがわかる。なんの屈託もなく未来を信じ、単純に明るくてのどかなところが、1980年のいま見直すと、ふと涙を誘ったりしないだろうか。

(『POPEYE』平凡出版/1980年8月25日号掲載)

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2024年5月24日 00:00 | 電子化計画

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