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エッセイ『片岡義男のアメリカノロジー』より12作品を公開

1976年9月から1986年9月まで雑誌『POPEYE(ポパイ)』に長期連載されたエッセイ『片岡義男のアメリカノロジー』より、書籍等に未掲載の12作品を公開いたしました。
※今日からみれば不適切と思われる言葉や表現がありますが、作品が書かれた時代背景と作品的意義を考慮し、原文のまま公開しました。
※説明上必要と思われる部分には画像が挿入されています。これらはすべて掲載誌からの引用のため、画質が粗いものもあります。

 アメリカを自動車で旅すると、インタステート・ハイウエイでトレーラーやダブル・トレーラー、そしてときには三連のトレーラーを引っ張った、大きくて美しくて素晴らしくパワフルなトラックを、ひっきりなしに見かける。トラックの世界は、まさにアメリカそのものといえる、じつにスリリングで面白い世界だ。アメリカ大陸は広く、地形が複雑であり、その複雑な地形にあわせて、ありとあらゆる気象条件がともなう。東部にくらべると西部のほうが地球的に年齢が若いため、西部の山はけわしい。だから、東部地方を走るトラックと、西部を走り回るトラックとでは、エンジンやトランスミッション、アクスル・レシオなど、まるっきり違っている。ホイールやブレーキだって、地形と天候に合わせて、自分の判断でシビアに選んである。
(本作には「片岡義男のアメリカノロジー」のシリーズ名はありませんが、内容や前後の連載との関係から、同一シリーズの第1回目とも言える内容であるため、他の連載作品と同時に公開しました)

(『POPEYE』平凡出版/1976年9月25日号掲載)

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 世界でもっとも生産性の高い農業国であり、個人経営の多いアメリカのファーマーたちにとって、ピックアップ・トラックは絶対に欠かすことのできない実用車だ。乗用車と大して変わらないものや、ミニ・トラック、ハーフ・トンから3/4トンの4WD(四輪駆動)のピックアップなど、ボディ・スタイルやエンジンにバラエティを持たせ、いろんなタイプが出ている。あの徹底したアメリカ人たちがノー・ノンセンス(とことん真面目)に使いこむのだから、とにかく頑丈にできている。ピックアップ・トラックというアメリカ的なものを徹底して使いこむには、日本にいては想像もつかないようなスタミナが常に必要だし、人がピックアップのような物ないしは機械と一体になって立ち向かう仕事の量や質も、日本とは桁違いだ。さらに、ピックアップのレジャー的な楽しみかたは、ひとつずつ追っていたらきりがない。

(『POPEYE』平凡出版/1977年4月10日号掲載)

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 アメリカには数多くのエルヴィス・プレスリーそっくりさんがいる。この〝エルヴィス〟たちが、それぞれに自分の一座を組み、主として観光保養地のホテルやナイトクラブを中心に活躍し結構人気を集めている。その中でも一番真剣にエルヴィスと取り組んでいるのは、アラン・マイアーという28歳の男性だ。7歳のとき、ラジオでエルヴィスの『テディ・ベア』という歌を聴き強烈なショックを受けた。それ以来、アランにとって歌はエルヴィス以外に存在しない。24歳のとき、アランは「オレ自身をエルヴィスに捧げ、エルヴィスになりかわって歌ってやろう。エルヴィスのあの声で歌えるのは、このオレしかないんだ」と決心した。彼の歌は驚くほどエルヴィスに似ており、今やラスヴェガスのトロピカーナにも出るビッグ・スターだ。しかしアランの熱意は、エルヴィスにいかに似せるかにあるのではなく、7歳のときからずっと自分が受けとめ続けてきたエルヴィスを、自分の肉体を通してどんなふうに表現していくかにあるのだ。
(編注:アラン・マイヤーは2015年に死去しています)

(『POPEYE』平凡出版/1977年6月10日号掲載)

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 ピンボール(フリッパーズ)のマニアが、いま増えつつある。ハイ・スコアを叩き出すことに全力を集中させるタイプのマニアのほかに、製造会社によるカラー印刷のカタログを集めたり、プレイフィールドやバックフラッシュに描いてある絵のコレクションをしたり、いろんなタイプのマニアが登場している。ピンボール・マシーンに描いてある絵は、その気になってよく見るとたいへんなポップアートなのだ。映画『トミー』の中に登場したベリー社製の《ウィザード》という機種はデイヴ・クリステンセンという専属アーティストが描いた。アートには時代を的確に反映させている。エルヴィスもビートルズも登場したし、マリリン・モンローのようなグラマー美人の絵も、伝統的に続いている。スポーツ、映画、SFの世界もよく題材として取り上げられる。専属のアーティストたちの誰もが、知られざるポップ・アーティストだ。そして、ピンボールの歴史もまた、まさにアメリカのものだ。

(『POPEYE』平凡出版/1977年7月25日号掲載)

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 ABCパラマウントが製作しているファミリー・ドラマ『ハッピー・デイズ』(幸せな日々)は、1975年の視聴率が27パーセント、翌年は46パーセントという人気ドラマ番組だ。1950年代をバックに、当時のティーンエージャーたちの生活が生き生きと描かれている青春コメディだ。主人公の友人でフォンジー(FONZIE)という愛称で呼ばれているアーサーは、当時ならまぎれもない〝理由なき反抗〟者だが、現代が再現した一九五〇年代の中では、最も正しい考え方や行動の具現者として登場している。ホットロッドの専門誌『ホットロッド』を愛読し、ハーネス・ブーツにブルージーンズ、白いTシャツ、そして茶色い皮のフライト・ジャケット。髪は、グリーシーなダック・テイルでハーレーに乗り、学校にやってくる。『ハッピー・デイズ』の人気が急上昇したのはフォンジーのおかげだが、彼を演じたヘンリー・ウインクラーもスーパー・スターになろうとしている。それは本来の主人公であるロニー(ロン)・ハワードの存在に負うところも大きい

(『POPEYE』平凡出版/1977年8月25日号掲載)

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 サーフィンとサーフィンをする人、サーフィンにまつわる本に漫画、音楽や映画からサーフボード、波乗りのコツなど「サーフィン」を楽しむためのトピックをアトランダムに紹介する。最初は1959年から62年ごろにかけてのサーフィン映画、例えば『スピニン・ボード』『ガン・ホー』などに登場する、ポリネシア系の太った男性について。この男性はジェームズ・ミッチェル(愛称:チャビー)といい、ハワイのサーファーたちの間で広く知られていた名物男だ。ユーモアと温かい人柄、気品などをいっぱいにたたえた〝アロハ・スピリット〟の権化のような男だった。料理することと食べることが大好きだった彼は、料理の腕を買われてワイキキのレストランに何度も就職したが、おカネのないサーファー仲間が押しかけてただ食いばかりしていたので、どこの店もすぐにクビにされてしまった。楽天的で、陽気で、心やさしく、ハワイという自分の場所に限りない愛を注いでいたチャビーは、古き良きハワイをしのぶサーファーたちにとっては、いまでも語り草として生きている。

(『POPEYE』平凡出版/1977年9月25日号掲載)

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 1940年代から50年代、そして60年代から今に至るまで、アメリカのティーンエージャーたちに最も人気のある踊りは、リンディというダンスだ。軽いロックンロールによく合う、体の動きの速いエキサイティングな踊りだ。自分たちで工夫しながら、さまざまなヴァリエーションを作っていける踊りだから、時代や年代、地域によっても踊り方は違ってくる。日本のティーンエージャーたちは、自分たちで勝手にディスコへ出掛けていき、見よう見真似で踊っているのだが、アメリカでは、例えばパブリック・スクール(公立学校)の一連の教育プログラムの中にソーシャル・ダンシングがとりこまれていて、ティーンエージャーたちは、とてもきちんとした手ほどきを学校でうける。ロックンロール・ダンシングだって、学校で教えてくれるのだ。体育館は週末にはレコード・ホップに使えるし、ロックンロールの踊りをひとつとってみても、アメリカと日本では事情がまるで違う。

(『POPEYE』平凡出版/1977年10月10日号掲載)

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 20年近く前、カネオヘの〈ハニーズ〉という店でレナード・クワンのスラック・キー・ギターをはじめて聴いたときの全身に鳥肌が立つようなスリルを、今でもぼくは忘れることができない。情感の深さ、感受性の途方もない柔軟さ、一丁のギターから出る音にありったけ注ぎこまれたエモーションは、最初の一音を耳にしたときから、ぼくに魔法をかけてくれた。ハワイの伝統楽器にギターのような弦楽器はないのだが、昔のハワイ人たちはなぜだかギターによるソロの弾き語りが好きで、正式なギター奏法の教育など受けなかった彼らは、自分の好きなメロディの情感にぴったりくるチューニングを、弦をゆるめたりひっぱったりして、自前で見つけ出していった。6本の弦のうち2本か3本を、オクターブさげておく。つまりその弦だけゆるめるところから、スラック(ゆるい)・キーと呼ばれるようになったという。スラック・キーによって完全に自分を表現できるアーティストは、本場のハワイにも多くはいない

(『POPEYE』平凡出版/1977年11月10日号掲載)

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 アメリカで刊行されたSFのペーパーバックが1000冊ある。いま手に入れようとしたら、ちょっと大変だが、コレクションとしては大したものではない。今、若手気鋭中堅として活躍しているSF作家、翻訳家、評論家たちは、もっとすごい蔵書を持っている。SFなんて変人の読むものだと思われていたころからSFのペーパーバックを買い集めていた人たちが東京に何人かいた。神田神保町の露店は、SF買いのひとつの拠点だった。ぼくも、その最後の頃を知っている。この1000冊を、これからSFをベンキョーする人に譲りたいと思う。売り払うのだ。イギリスのオートバイを買いたいので、そのオートバイの値段に近い額で、1000冊全部、いっぺんに。

(『POPEYE』平凡出版/1977年11月25日号掲載)

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 ホーム・グロウンは〝HOME GROWN〟と書く。〝ウチでつくった〟〝ウチでとれた〟〝地元の〟〝地元製の〟といったような意味だ。1976年の夏、ハワイのKKUA局で仕事をしていたロン・ジェイコブスが、ハビリタットという奉仕活動団体の資金調達を兼ねて、ハワイにたくさんいるローカルなミュージシャンたちを表舞台に出していくひとつのきっかけを与える場として《ホーム・グロウン》というプロジェクトを立ち上げた。そして、異なったアーティストたちによる12曲の歌と演奏を収めたLPアルバム『ホーム・グロウン』の第1集をつくり、世に出した。反応は大きかった。いまハワイに生きる自分たち、そしてこれからもハワイを愛しつづけ、そこで生きていく自分たち、というひとつの共通した気持というか立場というか、大げさでもなんでもなく民族意識と呼んでさしつかえないような土台がどの歌にも、そして『ホーム・グロウン』の2枚のアルバム全体にも、はっきりと感じられる。

(『POPEYE』平凡出版/1978年1月25日号掲載)

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 カントリー・アンド・ウェスタンに、トラック・ドライヴィング・ソングと呼ばれる歌のジャンルがある。あの広いアメリカ大陸を巨大なトレーラー・トラックを運転して走りまわる長距離輸送トラックのドライヴァーたちをテーマにした歌だ。古いものから新しいものまでいろんな内容のブルースがあるが、どれもみな、アメリカのワーキングマンには愛されている。アメリカで最初のトラックィング・ソングは、1939年の最大のヒットになったテッド・ダファンの『トラック・ドライヴァーズ・ブルース』だ。ドロシー・ホルストマンが書いた本によると、この歌をつくったころのテッド・ダファンは、あちこちでおこなわれるダンス・パーティに出演する旅のミュージシャンだった。ある時、食堂にやってくるトラック・ドライヴァーたちを、見るともなく見ていたテッドは、ひとつのことに気がついた。食堂に入ってきたドライヴァーたちは、まず真っ直すぐにジュークボックスへ歩いていき、コインを入れ、好きな歌をかける。どのトラック・ドライヴァーも、みんな、そうするのだ。かける歌は、決まってカントリーだ。

(『POPEYE』平凡出版/1978年3月10日号掲載)

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 1954年の日本で、マーロン・ブランドオ主演の『ザ・ワイルド・ワン』(日本語題名『乱暴者』)というアメリカ映画が公開された。この映画には、実はモデルになった現実の事件とオートバイ・グループがある。1947年の独立記念日の週末、カリフォルニアのホリスターという小さな町で、AMA(アメリカン・モーターサイクル・アソシエーション)の認可のもとにオートバイ乗りの集会が行われたのだが、そこでちょっとした暴動が起こり、全米にセンセーショナルに報道されたのだ。その結果、映画『乱暴者』はオートバイ・グループやオートバイに乗る男たちのイメージを、現在にいたるまで決定づけてしまった。飲んだくれの荒くれの、ろくでもない連中、という、アウトローのイメージだ。だが、現実のグループは、ちょっと年をくいはじめた青年たちの、オートバイを中心にした仲良しグループだった。

(『POPEYE』平凡出版/1978年4月10日号掲載)

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2024年5月17日 00:00 | 電子化計画

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