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「叙情の影を聴いた」などエッセイ12作品を公開

雑誌『Coyote』誌上にて2008年〜2009年に連載されたエッセイ「叙情の影を聴いた」6作品など、エッセイ12作品を本日公開いたしました。

彼女という人を最初に見たのは海辺の駐車場だった。海の音とともに受けとめたその足音は、軽さと思いきりの良さの同居する余韻の残る足音だった。その女性とはこれっきりかと思っていたら、仕事先の友人の事務所で彼女を見かけた。1日おいてその友人から夕食の誘いの電話があった。あの女性も来る、お前は作家だと言ったら興味を持っていた、紹介するよ、と。それから10数年後。数日前、友人がメモをくれた。彼女は今、ヴァンクーヴァーに住んでいる。先週は東京にいて、あの作家はどうしてるか、と言っていた。……僕はメモの番号に電話をかけてみた。呼出し音が聞こえ始めた瞬間、僕の記憶の底から彼女が蘇った。潮騒に重なった足音。店でのワイン・グラスの縁の触れ合う音。すべて彼女の音であり、いま僕の耳のなかに聴こえているカナダの電話の呼出し音は、彼女そのものと言っていい音だった。

(『Coyote』No.30[2008年7月]掲載)

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僕の仕事部屋の本棚の前に立った友人は、復刻されたブリキ玩具のロボットに目をとめた。3つあるロボットのうちのひとつを手に取り、ゼンマイを途中まで巻き上げた。そしてロボットを棚板の上にそっと降ろし、手を放した。ゼンマイの巻き戻る小さな音とともに、ロボットは右に左に傾きながら歩いた。昔とは違いゼンマイのメカニズムも簡単なものだが精巧だ。だからその音は昔とはまるで異なる。「子供の頃に聞いた音で、いまはまったく耳にしない音に、どんなものがあるだろう」と、僕は言った。小学校の先生が黒板にチョークでなにか書いていくときの音。授業が終わるときの鐘の音。ご飯ですよ、というまだ若い母親の声。時間の経過に沿って状況が変化すると、その状況に固有の音も、ふと消えてそれっきりとなる。

(『Coyote』No.31[2008年9月]掲載)

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夕食のあと彼は奥さんにスーパーで買った水鉄砲を見せた。
「見たら買わずにはいられなかった。……これできみに悲鳴を上げさせる。僕はまだきみの悲鳴を聴いていない。キャーッという、まるで絵に描いたような、漫画のような悲鳴。そのかわり、僕も射ってくれ。おたがいに裸ないしはそれに近い姿でいるとき」「射たれたら冷たくていいわね」「きみは思わず悲鳴を上げるだろうか」「心がけましょう。反射的に心がけるのね。練習しておこうかしら。キャーッ」「僕が先に射つ。そのあと、いつでもいいから、きみが僕を射つ」「この夏の思い出になるかしら」
彼は想像してみた。裸になると彼女は400メートル・リレーの走者のような体をしている。あの体の、どこへ水鉄砲で冷たいペリエを射てば、その体の持ち主はキャーッという悲鳴を上げるか。やはり太腿の裏側か。

(『Coyote』No.32[2008年10月]掲載)

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妻とふたりの昼食を終えて、彼はキチンでコーヒーをいれようとしていた。「ちょっと来て。見てもらいたいものがあるの」。彼女のあとについて彼は彼女の部屋に入った。彼女はPCのモニター・スクリーンを指さした。彼は画面を見た。さまざまな色の断片で構成されたコラージュのようなものが、画面いっぱいに浮かんでいた。「外国のファッション雑誌からいろんな色の部分を短冊に切って、それをさらにいろんな長さに切ったものを、黒いケント紙の上にこんなふうに置いたのよ。目的もなんにもなしに、ただ作ってみたの。なんにも考えずに、ごくおだやかな反射的な行為として」「ということは、このコラージュの中に、きみ自身が無理なく表現されている、ということかい」「そう言っていいでしょうね。私がふと作ったものだから、少なくともふとした私ではあるでしょうね」

(『Coyote』No.33[2008年11月]掲載)

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いつもの日常からほんの一歩だけ出た小旅行に、ふたりはときたま出る。この湖のほとりへ来るのは、これで二度目だ。ふたりは同じ大学の芸術学部で写真を勉強した同期で親友どうしだった。卒業して恋人の仲となり、それから10年後の今は結婚して妻と夫だ。彼は写真の仕事を続けており、彼女は作家に転じた。彼は彼女が書く小説のための、発想の発端となるような写真を、さまざまに撮り、ポストカードのサイズにプリントして彼女に提供している。あるいは物語の途中のどこかで使えそうな、さらにはラスト・シーンでもあり得るようなイメージの写真が、彼女の小説の材料としてすでに大量にファイル・ボックスの中にある。彼女自身が被写体になることもしばしばある。「秋の雨が降る日の午後、この大きなガラス戸ごしに部屋に入って来る光は、きみを撮影するのにぴったりだ」

(『Coyote』No.34[2008年12月]掲載)

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一昨日、彼女から電話があった。写真のことで小さなお願いがひとつある、と彼女は言う。そのお願いを聞くために、僕は彼女とカフェで会うことにした。彼女は青い色のものばかりの、しかし色調の違う雑貨類をたくさん持って来ていた。これらを被写体に、1枚の写真を撮ってほしいのだと言う。僕はその頼みを引き受けた。選ぶのにはかなり時間を必要としたが、最終的に7点の被写体を残し、それらで構図を作って彼女に説明した。店のスピーカーからはアンドレ・プレヴィンが聴こえ続けていた。そして昨日の午後、冬の始まりの快晴の自然光の中で、彼女といっしょに決定した構図をそのとおりに再現して、撮影をした。

(『Coyote』No.35[2009年2月]掲載)

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いまの僕が好んでおこなっている東京歩きは、幼児の頃の体験にまでさかのぼることが出来る、と思い始めている。ゼロ歳から五歳までの間、僕には専用の乳母がついた。昭和15、6年当時の日本映画の、主演女優のようにきれいな人だった。この彼女が僕を相手にこなす日課のひとつに散歩があった。方向や距離といった概念自体を持っていない幼子は、自宅の外に出てしまうと、そこがどこなのかまったくわからない。お屋敷の縁を囲む立派な生け垣、いかめしくも重厚な門、幼子にとっては得体の知れない怖さではなかったか。しかし、それを少しだけ向こうへと越えて、これはいったいなになのか、というようなことを、幼い体の感覚全体に、感じ取ったのではないか。

(『Coyote』No.5[2005年4月]掲載)

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トゥルーマン・カポーティのノン・フィクションのタイトル『イン・コールド・ブラッド(冷血)』(1966)という英語のひと言には、僕の思考を刺激する力が強くあった。最初のペーパーバックを僕は買い、それ以後も版が変わるたびに買ったが、読まないままに40年が経過してしまった。そして最近、ついに『イン・コールド・ブラッド』を読んだ。これは傑作だ。文句などつけようのない、素晴らしい出来ばえだ。言葉の使いかたはすべて明晰さそのものであり、その明晰さには深い底がある。作者のカポーティに関して僕が持った感想は、彼は極限的なまでに透徹した正気の人である、というものだった。これほどまでに正気である人によってのみ、『イン・コールド・ブラッド』のような作品は書かれていく、という感想も僕は持った。

(『Coyote』No.16[2007年3月]「『凍る血』トゥルーマン・カポーティに寄せて」より)

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サンフランシスコの最初の思い出は、ディズニー・ランドが開園した次の年に父親に連れられ、ジョー・ディマジオのレストランで食べた朝食だ。典型的な朝食だが、すべてが驚嘆するほどにおいしかった。そのあと、デソートという自動車でゴールデン・ゲート・ブリッジを一往復した。この橋が完成して開通したその初日には、大勢の人たちが歩いて渡った。父親はその中のひとりで、橋を僕に見せたかったのだ。2度目にゴールデン・ゲート・ブリッジを見たときには、その巨大な吊り橋の途中に何本かある柱の頂上に、パラグライダーの人が引っかかって宙吊りとなっていた。僕はこれを撮影し、音楽をつけたら面白いと思った。つける音楽はフィービ・スノウが歌う『サンフランシスコ湾ブルース』が最適だ、と思ったが、今でもその考えは変わっていない。

(『Coyote』No.29[2008年6月]掲載)

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大学で写真を学ぶマユミの、6歳年下の弟は野球少年だ。高校で野球を続けるため、今年の春から全寮制の高校の一年生となった。寂しくなったからお前が帰って来なさい、と両親に言われ、マユミはひとり暮らしの部屋から都内の実家に戻った。記念に写真を撮りたい、とマユミは思った。母によると、弟は家にいるときは庭で一日も欠かすことなくバットの素振りをしていたという。その場所に立った瞬間、マユミは1枚の写真を撮るアイデアを思いつく。そして気持ち良く晴れた五月初めのある日、彼女はそのアイデアを実行に移す。それは「服と私」というようなタイトルのつきそうな写真だった。

(『SWITCH』2012年4月号掲載/『フォトーグ』特別編)

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写真家のアンセル・アダムズ(1902〜1984)は、12歳のときにはしかにかかり自分の部屋で2週間寝ていた。窓からの光を遮るためのシェードと、窓の間のわずかな隙間がピン・ホール・カメラの針穴の役割を果たし、家の外の風景を天井に映し出していたという。つまり、そのとき自分がいた部屋全体が写真機の箱として機能していたのだ。この原理を科学的に理解するまで、かなりの時間を要したという。その体験全体が、自分にとっては「像の形成という複雑な構造」へと入りこんでいくための第一歩となったとアダムスは書いている。そこに現実には存在しない物体の像が、レンズを通過した光が屈折することによって、あたかも存在しているかのように像が結ばれて人の目に見えている、という状態を説明するとき、そのあたかも存在しているかのように結ばれる像は、虚像だ。アンセル・アダムスの全生涯となったイメージ・フォーメーションにおけるイメージという言葉には、虚像がもっともふさわしいと僕は思う。

(『Coyote』No.56[2015年7月]掲載)

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1970年代とは、いったいどのような10年だったのですか、という問いに対し、1年ごとになにかひとつ、例えば売るとか買うとかに限定してその年の特徴的な出来事を拾い出し、順番に並べてみる。するとそこには、1970年まで続いて来た日本の、何の反省もない、すさまじいまでの延長と拡大と、それにともなう複雑化が見えてくる。僕自身が前の時代が劇的に終わり、次の時代が巨大に複雑に、轟々と始まっていく様子を体験したのは、このとき一度だけだ。1960年代が67年そして68年には早くも終わり、次の時代が始まっていた。時代がこれほどに大きく変わったとは、そのときそこで、日本はとてつもない変化をくぐり抜けてその向こうへ出た、ということではなかったか。その変化は、おそらく取り返しのつかない規模の失敗、と言い換えるといい。いまもそれは続いている。

(『SWITCH』SPECIAL ISSUE 70’s VIBRATION YOKOHAMA/2015年8月1日発行 掲載)

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2024年2月2日 00:00 | 電子化計画

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