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エッセイ『あすへの話題』より13作品を公開

エッセイ『あすへの話題』(日本経済新聞夕刊/2013年)より13作品を本日公開いたしました。

僕より年上の実業家に、「カタオカさんは三十万、四十万という値段の腕時計を、いろいろと買う趣味をお持ちですか」と訊かれた。「まったくありません」という僕の答えに返ってきたのは、「それはよかった」という言葉だった。「次に買うときは七千円くらいのにしようかと」「なおいっそう正解です」とその実業家は言った。かつて腕時計ビジネスで世界を駆けめぐり、いまも現役の、切れ味鋭い実業家だ。次に買う腕時計は七千円だという僕の判断に、その人が太鼓判を押してくれてから、十年になるだろうか。

日本経済新聞 2013年3月30日掲載)

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服装に関しては、まったく気取らない、まるで構わない、たまたまあるものを着てるだけ、しかし人を不快や不安にはさせない、という方針を常に実現させていたいのだが、なかなかそこまで到達しない。ところが、二〇一二年の大ヒット映画『テッド』のチラシに、僕の服装のお手本はこれだ、と叫びたくなるような写真があった。マーク・ウォールバーグが演じた主人公ジョン・ベネットの着こなしだ。全体におよぶ、ゆるゆるによれた自覚のなさは素晴らしい。

日本経済新聞 2013年4月6日掲載)

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ずっと以前からオランダ市民である日本女性が、「私がこれまでに食べた胡瓜のなかで最高のものは、イスタンブールの裏道で地元の少年たちにもらった胡瓜です」と言った。イスタンブールに初めて観光旅行をしたとき、街をあちこち歩いて裏道に入り、ふたりの少年に遭遇した。少年たちは胡瓜を引き売りしていた。水で胡瓜を一本洗った少年は、両手の掌に塩をつけ、それで胡瓜を軽くしごき、食べてごらん、と差し出したのだった。

日本経済新聞 2013年4月13日掲載)

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一九七四年から十三年続いた『きまぐれ飛行船』という、週に一度二時間の深夜FM番組の、一回ぶんの収録が終わる直前、「あと十五秒あります、なにか喋って」と、調整室から僕に指令が出た。僕は相手役の安田南に、「助けてくれないか」と、言ってみた。そこからの展開に関して、なんの当てもないままに。南の話に、僕は声を出して笑ったと思う。

日本経済新聞 2013年4月20日掲載)

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いまは剝げ落ちて色あせたベージュの地に、片仮名の赤い文字で、パーマ、とだけ描かれたひとかかえほどの大きさの看板を、千駄木の路地で写真に撮った。子供の頃、そして大人になってからも、パーマの看板をいたるところで目にした。日本の戦後はいろんなものから始まったが、そのなかのひとつがパーマだった。日本にないものを外国から取り入れ、日本向けに改良して大いに活用するという方式の実践により、戦後の日本が抱いた無数の夢は支えられた。その夢の始まりがパーマだった。

日本経済新聞 2013年4月27日掲載)

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自宅へ帰った人がうちにいる人に向けて「ただいま」と言う。帰りました、の部分をもっとも平凡な英語にしてI’m back.と言うなら、アメリカの人たちがそう言うのを、かつて僕は何度も聞いた。スーパーマーケットで待ち合わせをした男性が、マヨネーズを買ってくるのを忘れるなと、奥さんに厳しく命じられたと言った。僕は子供の頃に自分で作った、失敗したマヨネーズについて語った。そのおかげで彼はマヨネーズを忘れずに買って帰ることができ、「Yo-ho, I’m back.」と、あらわれた奥さんに買い物の内容について説明した。

日本経済新聞 2013年5月11日掲載)

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コーヒー豆の入った未開封の缶が目の前に三つあった。これだけあれば短編小説をかなりたくさん書くことが出来るはずだ、と僕は思った。僕においてコーヒーは、なぜか小説と緊密に結びつく。なにをどう考えればこうなるのか、当人である僕にもよくはわからない。缶を開けて、十五、六杯も飲んだ頃には、書くべき短編小説の見取り図が三つも、手に入ってしまった。コーヒーのおかげだ。

日本経済新聞 2013年5月18日掲載)

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僕は自分で書く小説のためのメモだけを最初から横書きしてきた。おなじメモを縦で書くことは思ってもみない。発案に際して必要な自由さが、横書きすることによって手に入るのだろうか。では、書いていく段階での、頭のなかでの縦書きや、プリント・アウトでの縦書きは、いったいなになのか。日本語の縦書きは内省と緊密につながる、という説もどこかで読み、この説を僕は支持している。自己には多少の抑制をかけておくに越したことはない、ということなのか。

日本経済新聞 2013年5月25日掲載)

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ホテルの正面で三人の男性がタクシーを降りた。ひとりは商談に訪れたアメリカ人だ。彼は見るからに不機嫌そうだった。その彼に重役タイプの男が歩み寄り、「レッツ・ドゥー・ワン・カップ」と英語で言い、口もとに右手を持っていって酒の杯を口のなかにあける、あの動作を加えた。「一杯やりましょう」という日本語フレーズを直訳した英語が、日本人によって現実に使用された現場に、僕は居合わせたのだった。

日本経済新聞 2013年6月1日掲載)

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カフェでコーヒーを手もとにぼんやりしていたら、中年のヨーロッパ女性が入って来て席についた。注文を済ませたあと、必ずや何か書き始めるに違いない、と僕が思った通り、彼女は青い軸のボールペンでしきりになにか書き始めた。しばらくするとボールペンは赤い軸に変わっていた。ひとつのセンテンスを次々と書くのではなく、二、三語ずつ書き込むような書きかただった。添削だ、と僕は閃いた。教えている英会話学校の生徒たちの答案用紙を、カフェでのひとときに添削しているのだ。

日本経済新聞 2013年6月8日掲載)

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ある日の午後、カフェでコーヒーを待ちながら、テーブルのポップを眺めていた。そこには Iced tea is here.という完璧な英語のワン・センテンスが印刷してあった。冷たくて氷の入った紅茶が一般的なものになったのは1960年代の前半だっただろうか。それから半世紀、じつに五十年もの長きにわたって、日本ではアイス・ティーだった。それがついにアイスド・ティーになった。英文法の基本のひとつがようやく一般化したのだ。

日本経済新聞 2013年6月15日掲載)

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林芙美子に『朝御飯』と題したエッセイがある。ロンドンにふた月ほど滞在したとき、朝御飯がおなじ献立だったことにびっくりし、パリでは「三日月パンの焼きたてに、香ばしいコオフィを楽しみにしていた」という。「淹れたてのコオフィ一杯で時々朝飯ぬきにする時がある」彼女だが、風変わりな朝食を愉しむこともある。たとえば、バター・トーストによる胡瓜のサンドイッチだ。僕も食べたくなった。

日本経済新聞 2013年6月22日掲載)

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明治四十三年、深川に深川夜烏(やう)という俳人が住んでいた。六月、深川は永井荷風を含む友人十人ばかりを招いて酒宴を催したという。この酒宴に出た食べ物がじつに良い。酒の良いのを二升、そら豆の塩茹に胡瓜の香物を酒の肴に、干瓢の代わりに山葵を入れた海苔巻きだった。江戸に向けての想像がかき立てられるではないか。海苔巻きと言ってもおむすびではなく、寿司の店では「さび巻き」と呼ばれているものだ。

日本経済新聞 2013年6月29日掲載

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2023年2月21日 00:00 | 電子化計画

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