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【特集】終戦から80年 片岡義男が書いてきた、あの頃の日本とアメリカ

【特集】終戦から80年 片岡義男が書いてきた、あの頃の日本とアメリカ

2025年7月29日 00:00

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岩国市駅周辺の空襲後の空撮

1945年8月14日、岩国駅周辺で米軍による無差別絨毯攻撃が行われた。黒い点はすべて爆撃による穴である。
直径は5〜30m、深さは5〜10mに及んだという(写真はWikipediaより)。


 今年は太平洋戦争の終結から80年。戦争の記憶が薄れていく中で、作家・片岡義男の戦争に関するエッセイ作品はアメリカとの戦争、そして戦後から現在までの日本とは何だったのかを改めて問いかけます。

 東京生まれの片岡義男は3歳の時に山口県岩国市に住む祖父のもとへ一家で疎開し、戦中から戦後にかけての10年ほどを瀬戸内海の近くで過ごしました。そして終戦直前の1945年8月6日の朝、一泊した岩国市内の友達の家から自宅に帰る途中、広島に投下された原爆の「光」を目撃します。後年、彼はこの日を自身の「物心のついた日」としています。

 1970年代以降、アメリカ文化を題材としたエッセイや都会を舞台とした小説の書き手として知られる片岡ですが、幼少期に原爆の光を見たことや、空襲によって開いた無数の爆弾の穴、多くの焼死体が積まれたトラックなどをリアルタイムで見ていることはあまり知られていないのではないでしょうか。

 一方、瀬戸内地方の豊かな自然の中で少年期を過ごしたことも片岡義男のルーツの一つとなっています。また、ハワイ生まれの日系二世である父親は戦後GHQに勤務しており、家庭には常に食料品やペーパーバックをはじめとするさまざまなアメリカ文化が持ち込まれていました。彼の書く戦後日本やアメリカ文化に関するエッセイは、同時代を生きた一人の人間の記憶であると同時に、私たち日本人が辿ってきた道のりそのものなのです。

 片岡義男.comでは、太平洋戦争前後の日本やアメリカ、そして彼自身の幼少期の記憶や体験が形作った独自の視点から描かれたエッセイが数多く公開されています。戦後80年という今年の夏、ぜひご一読ください。

1)「大変なときに生まれたね」

 1975年、片岡義男が作家・横溝正史にインタビューをした際に生年を聞かれた際に言われた言葉がこのエッセイのタイトルです。歴史年表から当時の「食」を中心とした項目を追い、自身の記憶にはない当時がいかに大変な時代だったかを追体験します。そして「日本政府はまた同じことをやるだろう」と警鐘を鳴らしています。

(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年所収)


2)「『ハナ子さん』一九四三年(昭和十八年)」

 1942年6月、日本軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫し、その後戦局は劣勢へと転換していきます。その翌年に公開された映画が『ハナ子さん』(監督:マキノ雅弘)でした。正しい情報を国から遮断され、無防備だった戦時中の庶民の日常についてこの映画を題材に考察をします。

(『映画を書く──日本映画の原風景』文春文庫 2001年所収)


3)「その光を僕も見た」

 1945年8月6日、疎開先の岩国で見た「光」と「キノコ雲」について語ったエッセイです。おそらくこのエッセイを読んで初めて片岡義男が原爆を目撃したことを知った人も多いはずです。

(『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年所収)


4)「僕の戦後」

 広島原爆の「光」を目撃した瞬間をはじめ、戦中から戦後にかけて岩国で過ごした少年時代を振り返ります。戦争の直接的な記憶は断片的であっても、当時の出来事が片岡義男のその後の人生にいかに影響を与えたかが伺えます。

(『ひらく』第7号[2022年6月15日発行]掲載)


5)「僕の国は畑に出来た穴だった」

 昭和22年11月7日に米軍が瀬戸内海全体を撮影した一枚の航空写真。撮影された当時、片岡義男はその写真の中に確かにいたと言います。そしてその写真は疎開先の瀬戸内の町で、戦後に見た丸い池や、それらにまつわるさまざまな記憶を呼び起こします。

(『日本語の外へ』筑摩書房 1997年所収)


6)「空と無」

 父親が英語、母親が日本語という言葉の二重性の中で幼少の頃から過ごしてきた片岡。終戦の日を境に父親がGHQ勤務となったことで、片岡家はアメリカ側に大きく傾き、日常生活においても二重性が生まれます。

(『言葉を生きる』岩波書店 2012年所収)


7)「チャタヌーガ・チューチュー」

 1941年12月8日に行われた日本海軍航空隊による真珠湾攻撃。この時、現地時間は午前7時49分。市民の多くはいつもと変わらぬ朝のひとときを過ごしていました。その日常の中に突然現れる非日常……市民が戦争の始まりを知るのは今も昔もこのような形なのかもしれません。ハワイ移民の祖父を持つ片岡ならではのショート・ストーリー。

(『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年所収)


8)「結束してこそ我らは建つ。一九四二」

 アメリカ建国以来の理念である「自由と民主」が、資本主義や「科学的な合理性」とどのように結びつき、戦争という営みでいかに発揮されてきたかを当時の雑誌を通して考察します。

(『Free&Easy』2002年2月号掲載)


9)ワシントン・ハイツの追憶

 ワシントン・ハイツは太平洋戦争後にアメリカ軍が東京・代々木に設けた軍関係者とその家族のための団地です。1958年に撮られた空中写真に写る、ハイツ内の整然とした街並みに片岡は科学的な計画ぶりを指摘します。そして「日本はアメリカから未だに科学性を学んでいない」と断じます。

(『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年所収)


10)「あのときの日本といまのこの日本」

 アメリカという国の持つ特質のひとつとして「『観念』を『現実』へと転換し、目標達成のため前進する国」という点を片岡は挙げます。かつての日米戦争における日本本土への空襲、そして広島と長崎への原爆投下もその産物でした。このエッセイでは戦後の日本の民主化改革、東西冷戦、そして2000年代初頭の湾岸戦争まで時間を下りながら、アメリカの「観念を現実にあてはめる」という行為について考察し、それに対する日本の状況についても言及しています。

(『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年所収)