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『蛇の目でお迎え』はこう作られた

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「メイキングを書いてみようか」。作家・片岡義男のひと言からうまれた書き下ろし「『蛇の目でお迎え』はこうつくられた」。2017年4月14日よりサポータ限定の特別企画として先行公開されていた作品を、一般公開いたします。[全2回]

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全2回| 1 |

「In The City」という雑誌に書いた短編を一冊の本にまとめることになった。二〇一五年の四月か五月だった、と僕は記憶している。二〇一五年の冬の初めに刊行したい、ということだった。「In The City」に書いた短編とは、二〇一二年の夏号の『愛は真夏の砂浜』から始まる七編のことで、『いい女さまよう』『銭湯ビール冷奴』『春菊とミニ・スカートで完璧』『フォカッチャは夕暮れに焼ける』『ティラミスを分け合う』そして二〇一五年冬号の『あんな薄情なやつ』までだ。

 一冊にするには分量が足らない、と講談社の担当編集者である須田美音さんから言われた。足らなければ書くだけだ、いつものとおりに、と二〇一五年の四月か五月に思ったときすでに、現実に存在する場所や地理あるいは店舗などに、物語をはめ込むようにして短編を作ることを僕は考えていた。

 そう考えたきっかけは、きちんと探すかのように思い出せば、かならずある。作家の柴崎友香さんと渋谷のジュンク堂でトーク・ショーをおこなったのが、二〇一五年の一月だった。二〇一五年の確か四月に、小田急線・経堂駅のすぐ近くのグレッキオというイタリー料理の店で、編集者たちとともに、柴崎さんを主役に、夕食の席を持った。じつに楽しい夕食だった。いろんな話が出た。下高井戸のことが話題になったのは意外だった。

 京王線そして世田谷線の駅からすぐ近くにあるぽえむという喫茶店のことも話題になった。柴崎さんはこのぽえむの常連で、ここで本を読みコーヒーを飲み、インタヴューを受けたりしている、ということだった。ぽえむは僕も知っている。しかしそのときすでに、何年もぽえむにはいってなかった。カレーライスがおいしいと柴崎さんは言い、それに単純に反応した僕は、コロッケの店はご存じですか、と訊いた。知ってます、おいしいですよね、と柴崎さんは答えた。下高井戸、世田谷線、ぽえむという喫茶店、そしてコロッケなどを使って短編をひとつ書こう、となかば思ったのが、このときだった。

 と同時に、かねてより、つまり自分でもいつ頃からなのか判然とはしないずっと以前から、コロッケは妙だ、と僕は思っていた。妙、とはどのような意味なのか、説明しなくてはいけない。音声にしたときの、その音がまず妙なのだろう。片仮名書きしても、その四つの文字を見たとたん、音声としてのコロッケが、どこからか聞こえてくる。

 自分で作るコロッケと、町にある店舗で買って来るコロッケとの、ふたとおりがある。両者のあいだにはくっきりと一線が画されている、とも僕は思う。そしてその僕にとって、コロッケとは、店で買うものなのだ。したがって、これから書く短編小説のなかにコロッケをかならずや取り込もうと思うとは、登場人物たちの誰かが、店でコロッケを買うことが、その短編のなかにある物語にとって、重要な役を果たすはずだ、というような意味となる。

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 二〇一五年の六月のある日、雨模様の平日の午後、店で買うコロッケのことを頭のどこかで思いながら、僕は下高井戸へ向かった。僕はこうもり傘を持っていた。煉瓦色の長袖のポロシャツの上に、黒いナイロンのウィンド・ブレーカー、そしていつものトレッキング・シューズにリーの201という、アンエムプロイド・オリエンタルの見本のような服装だった。

 小田急線で豪徳寺までいき、そこで世田谷線に乗り換え、起点あるいは終点の下高井戸まで、すぐだった。駅を出て、日大通りを南へ歩くまでもなく、左側の建物の二階がぽえむという喫茶店だった。僕は階段を上がり、店に入った。店の構造、特に席の配置のぜんたいを見たとたん、登場人物たちのこの店におけるありかたのようなものが、一瞬のうちに閃くのを、僕は体験した。驚くほどのことではない。よくあることだ。

 登場する人物たちは、女性と男性だ。その中間も充分にあり得るのだが、ここでは男と女の話だ。ガラスのドアを開いて店に入ると、目の前にひとり用の席があり、その向こうにふたり用の席、そして窓を背にした席だ。まんなかのふたり用の席に女性の主人公を位置させよう、と僕は思った。ひと目見て編集者だとわかる三十代の女性に、十歳ほど年上の美人が向き合い、楽しげに話をしている、という場面を僕は思った。彼女はなんらかのクリエイティヴな仕事をしている人で、編集者との打ち合わせのためにぽえむへ来ていることにしよう、と僕はきめた。

 店のスペースはそこから左へ広がっていた。段差のある板張りのフロアの右側に、テーブル席がいくつか、窓に沿ってならんでいた。通路となるスペースをはさんで左側にはカウンターがあり、カウンターのなかは調理場だ。そのカウンターを見たとたん、男性の主人公が位置すべきなのはここだ、と僕は思った。

 カウンターの席はすべて空いていた。だから僕は、右端からふたつ目の席にすわった。男性の主人公が位置するのはこの席であり、その右隣の席には男性の編集者がいて、ふたりは打ち合わせのためにこのぽえむで落ち合った、という設定について思いながら、僕はコーヒーを注文した。

 コーヒーが僕の手もとに出て来た。僕はそれを飲みながら考えた。男性の主人公は四十代の作家にしよう。彼は編集者との打ち合わせのため、この喫茶店へ来る。男性の編集者はすでに来ている。彼はカウンターの右端の席にすわっている。コーヒー・カップを受け皿に戻しながら、現実の僕は顔をやや右に向けてその席を見た。そしていま現実の僕がすわっているこの椅子に、主人公の男性をすわらせるといい、と僕は考えた。

 女性の主人公と男性の主人公が、これでひとりずつ出来た。ひとりずつで充分だろう、と僕は思った。ふたりはおたがいに面識はない。編集者との打ち合わせという、ほぼおなじ目的で、おなじ日のおなじ時間に、ふたりはこの喫茶店に来ている。主人公たちふたりの、いちばん外側のおおまかな輪郭、そしてこの喫茶店におけるふたりの配置はこれできまった、などと思いながら僕はさらにコーヒーを飲んだ。配置とは、一軒の喫茶店のなかで、ふたりがどの位置にいるのかという、言葉どおりの意味と、物語のスタート地点、という意味のふたつがある。物語は始まり、動いていかなければならない。その動きの始まる地点だ。

 主人公の彼女と彼は、どちらも、編集者との打ち合わせのために、おなじ日のおなじ時刻に、おなじ喫茶店に来ている。かたちとしては左右対称だと言っていい。しかしこのかたちは内容におよぶ。かたちが左右対称であるなら、内容的にはふたりは対等である、ということだ。少なくとも僕の考えかたでは、そのようになる。主人公たちだけではなく、脇にいる人たちも含めて全員が、対等の関係にないと僕は物語を作れない。

 コーヒーを飲みながらさらに僕は考えた。男性の主人公には北荻夏彦という名前をつけることにした。以後、彼のことを、北荻と呼ぶことにしよう。北荻が約束の時間にぽえむにあらわれると、打ち合わせの相手である男性の編集者、坂本秀行はすでに来ている。彼はカウンターのいちばん右の席にすわっている。その左隣に北荻はすわる。

 さほど重要な打ち合わせではない。会ってコーヒーを飲みながら話をし、なにかポジティヴなものがその話のなかに出て来ればそれで充分、という程度の打ち合わせだ。北荻はなにかアイディアを提案する。編集者はそれに対して熱意を示し、なんとか実現させましょう、と言う。

 その程度の打ち合わせとは言え、時間は経過していく。今日はここまでにしておきましょう、と編集者が北荻に言うところから、僕は『蛇の目でお迎え』という短編を書き始めている。『この冬の私はあの蜜柑だ』という短編集に収録されているのをいま読みなおすと、そのようになっている。

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『蛇の目でお迎え』のストーリーを考えるために、僕が下高井戸までいってぽえむでコーヒーを飲み、世田谷線に乗って松陰神社前までいき、そこのカフェに入ってさらにストーリーの続きを考えた作業は、その日の半日で完結した。書き始めるまでの時間には余裕はあまりなかった。それでも僕は、下書きのさらに下書きのようなメモをまとめた。メモをまとめる時間は、この物語をどう書けばいいか、考える時間でもあった。その時間のなかでまず考えなくてはいけなかったのは、『蛇の目でお迎え』の物語を、どこから書き出せばいいのか、ということだった。

 この物語をどこから始めるかに関して、幸いにも僕は、正しい判断をした。どこから書き始めてもよさそうなものだが、正解はひとつしかない。主人公の彼女も彼も、ぽえむへ来るのだが、たとえばふたりのどちらかがぽえむへと歩いているところから書き始めたとすると、それは残念ながら間違いだ。たしかに二人はそれぞれぽえむへ来るけれど、物語が始まるのは、ふたりがぽえむを出るところからだ。したがって書き出しは、ふたりがそれぞれにぽえむを出るところからでなければならず、『蛇の目でお迎え』を読むと、幸いにも、とさきほど書いたとおり、ふたりがぽえむを出るところから始まっている。

 北荻が支払いをして店を出る寸前、主人公の彼女は編集者との話を終え、店を出ていく。彼には北荻夏彦という名前をあたえたから、彼女もこの物語の主人公としての名前で呼ぶことにしよう。彼女の名は荒地三枝子という。本名は高梨三枝子といい、高梨はしばしば高橋に間違えられるから、ペンネームは高橋三枝子にしようかと、デビューのときに編集者と相談したら、平凡すぎると言われて荒地三枝子という名前を提案され、それをペンネームにした、といういきさつを彼女自身がのちほど世田谷線の電車のなかで北荻に語っている。

 現実の僕が支払いをしてぽえむを出ていく動きに、北荻というそのときはまだ僕の頭のなかにしかいなかった男性の行動とは、ここから最後まで、重なることとなった。僕が考える北荻の動きに合わせて、僕も動いていったからだ。北荻と会った編集者は、もうひとり会うから自分はまだここにいる、と言う。だから北荻だけが店を出ていく。こうもり傘を持った北荻が階段を降りていくと、あるかなきかの小さな軒下に、荒地三枝子がひとりで立っている。日大通りにはごく軽く雨が降っている。

 ここで僕は反省を書かなくてはいけない。荒地三枝子は、北荻夏彦が誰だか知っている、という想定にすべきだった。面識はないけれど、ぽえむのカウンターでコーヒーを飲みながら編集者と話をしている姿を見れば、あれは作家の北荻夏彦だとわかるし、彼の書いた小説を何冊か読んでもいる、という設定にしておくべきだった。のちほど世田谷線の電車のなかで、このようなことを三枝子が北荻に語るなら、それ以後はもちろん、それ以前の会話を、読者は無理なく受け入れることが出来る。いずれ会えるだろうとは思っていたけれど、今日会ってしまったわね、くらいのことを、彼女は言ったほうがよかった、と僕は思う。

 階段を降りきったところでのふたりの会話を、『蛇の目でお迎え』から台詞だけを抜き出すと、次のようになる。

「よかったらお傘に入れていただけないかしら」
「いいですよ、どうぞ」
「ついそこまで」

 反省のついでに、こうではないほうがいい、という意味を込めて、いま僕が修正する会話を、まず台詞だけ書いておこう。

「もしかしたら世田谷線にお乗りになるの?」
「そうです」
「私もよ。でもその前に、ほんのちょっとだけ、買い物があるの。踏切のすぐ向こう。そこで買い物をして、世田谷線の駅へ戻って来るまで、お傘に入れていただけないかしら」
「どうぞ」

 三枝子は北荻が誰なのか知っている。自宅が梅ヶ丘にあることも知っているから、これから自宅に帰るのかな、という推測に立って、もしかしたら世田谷線にお乗りになるの、という言葉が無理なく出て来る。三枝子は北荻についてかなり知っていて、姿を見ればわかるし、著作をいくつか読んでもいる、という設定はやはり正しい。

 傘に入れてくれないか、と三枝子が言い、どうぞ、と北荻が応じるところから、物語は前方へと動いていく。踏切はふたりの目の前にある。北荻がこうもり傘をさし、そのなかに三枝子が入って、ふたりは踏切へと歩いていく。傘に入れてもらえないか、という三枝子のひと言がすでに、物語を前へと進めている。どのような方向へ、どんなふうに進展していくのか、すべての責任は書き手であるこの僕が負う。ただし、物語のなかで主導しているのは、三枝子だ。傘に入れてもらえないか、という最初の台詞を発した瞬間から、彼女がすべてを主導している。これも非常に重要なところだ。物語の進展は女性の主役が作り出す。

 すでに書いたとおり、三枝子は北荻とは面識はないけれど、作家の北荻夏彦についてはかなり知っていて小説は何冊か読んでいる、という設定にしたほうが、より正しい。北荻は彼女についてなにも知らなくてもいい。名前を言われれば、聞いたことがあるかな、という程度で充分だ。ただし、ぽえむで女性編集者と話をしている様子を見て、なにかクリエイティヴなことをしている人だ、と直感的にわからなくてはいけない。

 階段の下から踏切に向けて歩き出すまでの会話のなかで、ふたりがおたがいのことをどこまで知っているかが、明らかにされている。ここでの会話のなかでそこまで書いてしまうのは、間違いではないけれど、いま少しあと、ふたりが世田谷線の電車に乗ってからにしたほうが良かったはずだ、といま僕は書く。

階段の下のふたりに、僕はどのようなことを喋らせたのか。台詞だけを引用してみよう。

「ひょっとして僕たちは同業ですか。お打ち合わせをなさってた女性は、出版社の編集者でしょう」
「私はコミックスを描いています。おっしゃるとおり、いままだ上にいるかたは、編集者よ」
「僕は小説です。北荻夏彦といいます」
「あら、お名前は見てるわ。書店の本棚で本の背文字に。自宅の積ん読本のなかにも、あるような気がするわ。私は荒地三枝子です」
「そのお名前なら僕も知ってます。自宅にご本が何冊かあるはずです。誰もがシューコーと呼んでいる、優秀な編集者と打ち合わせをしていました」
「あら、坂本さん?」
「そうです」
「まったく気がつかなかったわ」
「彼はカウンターのいちばん奥です。窓の脇の。その左隣に僕がいましたから、見えなかったのでしょう」
「せっかくだから、坂本さんにご挨拶してくるわ。いいかしら」
「どうぞ」

 というやりとりを僕は書いたが、これはそのぜんたいが、まったく必要ない。三枝子は北荻のことをかなり知っている。おなじ喫茶店で顔や姿を見かければ、作家のあの人だ、とすぐにわかる。しかし彼は三枝子を知らない。という設定で充分だ。

 北荻が会っていた坂本という編集者と三枝子は、仕事をとおして親しく知り合っている関係として僕は書いたが、これもそうする必要はない。三枝子が坂本を知らなくても、物語の進展にとって、困ることはなにひとつない。

「あら、お名前は見てるわ」

 という三枝子の台詞は浮いている、よろしくない。作家としての北荻夏彦はよく知っている、小説は何冊か読んでいる、という設定のほうがいいにきまってる。

 坂本さんにご挨拶してくると言って三枝子は喫茶店の階段を上がっていく。これも必要ない。三枝子と坂本は仕事の上で親しい関係がある、ということを書くから、その延長としてこんなことにもなる。必要のないことを書くと、そこからさらに、必要のないことを書くはめになる。階段を上がっていく三枝子の服装と体つきが描写してあるが、これはたとえば彼女がコロッケを買う店先での描写にしたほうがいい。北荻はコロッケを買わずに見ているだけなのだから、その彼の視線のなかに三枝子を取り込むといい。ひとつ間違いをおかすと、そこから連鎖していくつもの間違いが引き起こされる。

 三枝子が階段を降りて北荻のかたわらへ戻ってくる。坂本さんは驚いていた、と彼女は言う。坂本が驚くのはいいとして、彼女の次の台詞は良くない。

「今日ここで私が北荻さんと知り合いになるなんて、まるで小説ですよと坂本さんはおっしゃったのよ」

 なんだ、これは、といまの僕は書く。まったく必要ない。と言うよりも、これはあってはいけない。まるで小説ですよ、と坂本に念を押させる必要はどこにもないのだから。

 ぽえむの階段の下から僕は傘をさして踏切まで歩いた。遮断機が降りて警報が鳴っていた。電車が通過していくのを人々が待っていた。僕もそこに加わった。踏切の前にひとつの傘をさして立ちどまっているふたりは、会話をするだろう、と僕は思った。このような時間は、なにげない会話にふさわしい。きわめて深刻な会話でもいいのだが、その場合は物語がまるで異なったものとなるだろう。踏切で電車の通過を待ちながら、ひと組の男女が深刻な話をする場面のある短編。いいではないか。いずれは書くことにしよう。

 北荻が開いて持つ傘の下にいる三枝子は、その傘を見上げて、大きな傘なのね、と言う。開くとその直径は一メートル四十四センチになる、と北荻は答える。私の番傘より大きい、と三枝子は言う。ここで始めて番傘が出てくる。それを出したのは三枝子だから、その番傘を物語の進展のためにどう使えばいいかを考えるのは、北荻の役目だ。

 その番傘は使ってるのか、と彼は訊く。もう何年も納戸の片隅に立てかけたままだ、と彼女は答える。ひと目見て気に入った番傘で、一万円以上の金額を支払った、と彼女は言う。では僕がその番傘を一万円以上で買い取ります、と北荻は提案する。その提案に三枝子は応じる。踏切で電車を待っているあいだ、ひとつの蝙蝠傘の下で、番傘一本で物語は確実に進展していくではないか。番傘をひと目見て気に入るだけではなく、一万円以上を出してそれを買う三枝子という人の提示としても、この番傘は機能している。彼女は自分らしさに徹している人、という提示だ。

(→[2]に続く

『この冬の私はあの蜜柑だ』

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講談社|ISBN:978-4062197649 C0093|定価:本体1700円+税|四六判|266頁

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2017年10月1日 00:00