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エッセイ『片岡義男の私と小田急』7作品を公開

エッセイ『片岡義男の私と小田急』(『おだきゅう』小田急電鉄広報部発行/2001年9月号〜2022年3月号まで連載)の7作品を本日公開いたしました。

ホノルルの空港で僕がイミグレーションを出るとほぼ同時に、隣の列で手続きを済ませた日本人の中年男性が、笑顔で僕に歩み寄り、「失礼ですけど、カタオカさんですよね」と言った。僕が、はい、そうです、と答えると、「やっぱりそうだ。実は私は、東京ではいつも小田急線に乗ってるんですよ。電車のなかで、ときどきお見かけしてたんです」そう言って彼は僕に向けて右手を差しのべた。

(『おだきゅう』2001年9月号掲載)

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僕がまだ子供だった頃、マンボが日本で最初の大流行となった。明るい模様の布地を使って、下北沢の生地屋さんが、若い女性向けに半ば冗談で、カプリ・パンツを作って店に出した。これが大変な好評でよく売れたという。そのカプリ・パンツは、誰言うともなく、シモキタ・マンボと呼ばれるようになり、ファッション用語としても定着した。

(『おだきゅう』2001年10月号掲載)

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ロマンスカーという電車が走り始めたのは、僕がまだ子供の頃のことだった。初めのうちはオルゴールを鳴らして走っていた。駅から7、8分のところにあった僕の自宅から、その音がよく聞こえた。夏のロマンスカーは納涼ビール電車となった。駅に貼ってあったポスターを見て、納涼ビール電車とはいったいなんなのか、子供の僕が頭をひねったのを、いまの僕がまだ覚えている。

(『おだきゅう』2001年11月号掲載)

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15歳のときの元日から始まって25歳の元日までの10年間、1月1日の午後、僕は一度も欠かすことなく、小田急線の電車に乗った。各駅停車で駅の数にして4つないし5つ。15歳当時のいたずら仲間たちが、10年にわたって、元日の午後に焚き火大会をおこなったからだ。

(『おだきゅう』2001年12月号掲載)

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テキサス州アマリロ出身の彼は、エルヴィス・プレスリーと生年そして生まれ月が同じだった。身長は同じで体つきは瓜ふたつ。したがって歩き方やふとした身のこなし、さらにはぜんたいにわたってかもし出される雰囲気など、エルヴィス・プレスリーそのものだった。顔がここまで似ていると、声や喋り方もそっくりとなる。

(『おだきゅう』2002年1月号掲載)

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僕がまだ大学の1年生を終えて2年生になる直前、3月の初め、ある快晴の土曜日の午後。小田急線の世田谷代田駅の改札口で、近所に住んでいた同じような年齢の女性と、偶然いっしょになった。上りホームで電車を待つ間、お見合いをしなくてはいけなくなった、という話を彼女は始めた。

(『おだきゅう』2002年2月号掲載)

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小田急線の駅名のなかに、「ヶ」という片仮名が六つある。そのうちの四つは花と関係している。片仮名はもっと多いかと思ったが、意外に少ない。片仮名語がなければ成立しないのがいまの日本でもあるけれど、駅名というものは、片仮名を取り入れることに関して意識的に慎重であろうとしている、と僕は推測する。

(『おだきゅう』2002年3月号掲載)

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2023年7月25日 00:00 | 電子化計画

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