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エッセイ『町からはじめて、旅へ』より15作品を公開

エッセイ『町からはじめて、旅へ』(晶文社/1976年)より15作品を本日公開いたしました。なお、底本には2015年の改版を使用しています。

小学校に入ったころから、高校の二年生くらいまでのおよそ十年間に公開された西部劇のほとんどを、ぼくは観ている。なかでもターザンが好きだった。ジョニー・ワイズミュラーのターザンにかぎっての話だが。

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かつては胸をときめかせて見たはずの、正義のガンマンの活躍が、退屈で正視にたえないものになってしまったのは、いつからだろう。自分が生きているこのいまの時代のなかから、正義のガンマンの映った無数の西部劇が、すっぽりと抜け落ちていってしまった。

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アメリカのサーカスやカーニヴァルに、ぼくは昔から興味を持っている。資料をすこしずつ集め、ひまなときにちょっと読んだりしているだけでも、楽しさはつきない。それはそれは面白いものだ。バッファロー・ビルについて、資料から知ったことをすこし書いてみようか。

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一本のギターがどんなふうに生活の中の音楽で使われてきたかを辿ることによって、アメリカの近代史、現代史を書きうるのではないのか。新大陸アメリカに、ギターはかなり早い時期から入りこんでいたはずだ。ニューオルリンズではギターを用いた黒人ブルースが初期のジャズとなり、その舞台はすでに白人によるジャズが生まれていたシカゴへと移っていった。

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子供のころから、いろんな音楽を浴びていたが、ブギの影響が濃いものに対して、その濃さに応じて全身がときめいていた。なぜだかは、わからない。ブギ・ビートが体ぜんたいで好きだからにちがいない。ブギは、それを聞くと踊らずにはいられないという体の状態がおこってくる。なぜだろう——。

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人は人としてこの世に生まれたなら、なにか有益なことをおこない、なにごとかを打ちたてつくりあげ、生産していかなければならない、という強迫観念は、いつ、なぜ、生まれたのだろうか。このような強迫観念は、心にとっても体にとっても、まことによくない。

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汚れ果てたマヴェリックのジーンズの尻ポケットからぼくはアルミニウムのクシをだし、ホノルルの下町で買った日本製のヤナギなんとかというギトギトの緑色のポマードでなでつけたリーゼントの形を整え直した。すると、となりのストゥールに座っていたチンピラのフランス男が……。

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久保田麻琴と夕焼け楽団のLP『ハワイ・チャンプルー』の登場をぼくは心からよろこびたい気持だ。どの曲も自分たちのものになりきっていて、個々の歌としてではなく、自分たち自身として提示されている。彼ら自身が本当に楽しみながら、自分たちのアイデンティティをさりげなくつくりだしている。それがうれしい。

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ゴールデン・ステートという別名をカリフォルニア州は持っているけれど、ゴールデンなどをとおりこして、一種の魔力を、この州は常に自分のまわりにたたえている。人をひきよせる力がとてつもなく強力であるから、あらゆることが非常に巨大なエネルギーをはらんで、いっきに可能なのだ。

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南カリフォルニアでは空気が極端に乾燥しているから、マッチの小さな炎をタバコのさきに持っていくと、吸いこまなくても、ぽっぽっぽっというような感じで、火がついていく。日本にいて両切りタバコに火をつけるとき、ふと、思い出されるのは南カリフォルニアでひっきりなしに流れるCMだ。

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LAからナショナル・インタステート・ハイウエイ5でフレズノやサクラメントにいったときに見たトマト畑が忘れられない。まっ平らで肥沃な盆地のまんなかに、広大なトマト畑が広がっていた。赤とも緑ともつかないおかしなまだらの半熟みたいな状態で、見渡すかぎり無数に茎に実っているのは、壮観を通り越している。

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ニューヨークという管理都市は、いっさいが政治によってとりしきられている。その政治たるやなにからなにまでぜんぶ悪玉によって握られているのではないのかという不安が、常に警官の頭にある。ことと次第によっては、自らも悪玉の末席につながりかねないし、もうつながっているのかもしれない。

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とあるスナック・バーのカウンターに、ひとりの女性が入ってきた。ぼくの右どなりの椅子ひとつおいてそのむこうの椅子に、腰をおろした。ぼくは、ふと、彼女を見た。そして、おどろいた。ものすごい美人なのだ。あーっ! と胸のなかで声をあげ、目をまん丸にむいて口をあけ、および腰になってその美人をながめた。

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ソーダ・ファウンテンって、なんだろうか。研究社の『ポケット英和』をひいてみると、次のように説明してある。「ソーダ水売り場。アイスクリーム、各種の清涼飲料、軽食なども出す」——日本にもカウンター式のコーヒー・ショップがあるけれど、あれをもっとアメリカ的にしたものだと思えばいい。

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生活に必要なものは、すべて店で買うことができるが、満足しているだろうか。選択の余地が大きく残されているように宣伝されているけれど、ほとんどない。商品に対する不満。そして、商品によってとりかこまれつくしている自分に対する不満やいらだちがうかんでくるとき、どのようなことにぼくたちは気づくのだろうか。

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2022年6月7日 00:00 | 電子化計画

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