『真夜中のセロリの茎』7作品を公開!




『真夜中のセロリの茎』(左右社/2013年)所収の短編7作品を片岡義男.comで本日公開いたしました。
片岡作品のファンなら、この表題作のタイトルには聞き覚えがあると思います。1988年に祥伝社ノン・ポシェットから発売された『浴室で深呼吸』に収められた1篇と全く同じタイトルです。しかも今回の『真夜中のセロリの茎』を書くまでの四分の一世紀の間に2度(そのうち1度は書き直し)同名タイトルの作品は書かれており、都合4度目の作品となります。それぞれがどんな話であったか、なぜ書き直したのかなどについては、こちらのエッセイで詳しく書かれてますので、ご興味のある方はぜひどうぞ。
かき氷は、その名の通り、氷を削ったものにシロップや抹茶などをかけて食べるという、シンプル極まる食べ物です。要するに氷です。しかし、この短編小説『かき氷に酔ってみろ』で、56歳のラジオディレクター、木島竜太郎が言うように、「フラッペ」と「かき氷」は、確かに別の食べ物のように思えます。練乳を凍らせて削る台湾かき氷もまた、かき氷とは言うものの、やはり別物でしょう。更に、一時期流行った、天然氷を使った高級かき氷や、製氷皿で作った氷を家庭用のかき氷器でかいたもの、アイスクリームコーナーの中にあるかき氷などなど、この単純な、古くからある食べ物の内実は既に相当複雑なものになっています。それこそ海の家で食べないとという人もいれば、駄菓子屋の氷の幟の下でなければという人もいたりして、ロケーションさえも重要になることもあります。そんな複雑な食べ物を食べながらプロポーズすると、それは振られるだろうなと思うのです。
コンビーフがあれば、大体どうにかなると思わせる力があるのは何故なのでしょう。実際、そのままでも美味しいツマミですし、焼けばごちそう、煮ても良いスープが出来ます。学生時代、コンビーフと玉ねぎを炒めてトーストに乗せたサンドイッチを作って、よく食べたものです。この『駐車場で捨てた男』の中で、台風を避けて逃げ込んだ「食べ物は何もない」と家主に言われた別荘でコンビーフの缶を六つも見つけた日比野と水谷は、もうそれだけで安心して、ビールを飲み、短編小説『駐車場で捨てた男』のプロットを話し始めます。台風で足止めされた状態でも、その先には、コンビーフのパスタとコーヒーが待っていると分かっているから、二人はじっくりとプロット遊びに興じることが出来るし、良い結果を出すこともできるのでしょう。
男性二人と女性一人。三人の高校時代からの仲良しが、二十八歳になって久しぶりに飲んだ後、女性が一人で暮らしている家に行きます。酔って、全裸で寝てしまう女性。この展開から、セロリの茎を齧る物語へと収束させる、この『真夜中のセロリの茎』という短編小説の展開は、多分、片岡義男ファンにとっては、待ってましたというくらいに、片岡義男ならではの展開と言えるでしょう。そこでは、こういうシチュエーションの中で、いかにも起こりそうなことは何一つ起きず、男性二人は、なんと連載マンガの創作についての打ち合わせ的な話を始めてしまいます。寝室で寝ている全裸の女性は、物語が動くきっかけにはなっても、それ自体が物語を生むわけではないという小説内リアリティが片岡義男の短編小説の大きな魅力だと思うのです。
短編小説『三種類の桃のデザート』で描かれる翻訳家・青野健介と編集者・中野裕子の関係の微妙な距離感と、それに対比するように置かれた、空手家の牧原玲子との出会い頭の距離感、二つの男女の関係性をホテルとシャツという要素で繋いで、恋愛や性愛とは違う親密さと距離の取り方は、多分、小説でしか表現できないものだと思うのです。恋人とか行きずりといった、ありきたりな言葉では表せない、そして誰もが持てるというものでもない特殊な関係にリアリティを持たせられるのが、小説という表現であり、それを読む側の想像力を信じて描く作家の力量なのです。そういう繊細な描写で成り立つ物語の中に、「丹頂チック」とか「ワル」とか「ホテルの有線テレビでやっている料理番組」といった、この小説が書かれた2011年でも、既に懐かしいものとなっていたガジェットが組み込まれているのが、なんとも楽しいのです。
若い日の恋愛と、そこで生まれた感情を整理して、再び関係を持つために、二十年の時間を必要とした男女の物語を、この短い小説の中に余すことなく書き切る技術とアイディアこそが、片岡義男の短編小説の凄みだと思うのです。しかも、この『あまりにも可哀相』の中で描かれる、二十五歳の頃の栗山と由美子の出会いと、そこからのお互いの距離の接近は、そこを主題にして、片岡義男の短編小説で書かれていても不思議ではない物語になっているという構造が、この残酷で優しい物語にリアリティを与えています。そして、タイトルのセリフの意味の重さと切実さの現代性。これが2012年に書かれて、2013年に発売された短編集「真夜中のセロリの茎」に収録されていることが、「小説」という表現の可能性さえ感じさせてくれます。
アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』や、鈴木清順の『殺しの烙印』を思わせる、大雨の中を車を走らせるシーンが目に浮かぶような、この『雨よ、降れ降れ』。そのせいか、内容はマニアックなところが多く、特に、役者仲間の大島と川瀬が繰り広げる「雨」の歌を並べ立てるシーンは音楽好きにはたまらない曲名が次々と登場します。こういう会話の中で北原白秋の「雨」と、中島みゆきの「雨が空を捨てる日は」が並列に語られるのも片岡義男の小説を読む楽しさです。そして、物語はほとんど芸術作品と呼べる女性の全身のぬいぐるみを軸に、ぬいぐるみに勝負を挑む、一人称が「俺」の女性が登場するという思わぬ展開になります。これこそ、2000年代以降の片岡義男の小説の真骨頂なのだと思うのです。
短編集「真夜中のセロリの茎」に収録されている『かき氷で酔ってみろ』『駐車場で捨てた男』『真夜中のセロリの茎』『三種類の桃のデザート』『あまりにも可哀相』『雨よ、降れ降れ』、そして、この『塩らっきょうの右隣』の七つの短編小説は、どれも、一言では言い表せない、微妙な距離感と一般的な理解の外にある、しかしどこか自然な関係性の男女による会話が主題のように描かれています。そして、その会話自体が、関係性そのものを表すように構成されています。それは、外部から窺い知れない関係で、だからこそ小説となるのですが、多分、実際の人間同士の関係性も、単に「恋人」とか「友人」という言葉で括れるようなものではないのでしょう。つまり、便宜上の表現がいつの間にか自分たちを規制している世の中を、もう一度見直してみようと思わせる、そういう短編集なのかも知れません。
■関連作品
【小説】
・『真夜中のセロリの茎』[1988 version]
【エッセイ】
・「真夜中にセロリの茎が」
2022年2月10日 00:00 | 電子化計画
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