【特集】僕の戦後、あなたの戦後 2023
広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日。次いで長崎への投下が8月9日。そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えます。私たち日本人にとって8月は特別な月と言ってよいでしょう。
その太平洋戦争終結から今年で78年。もはや80年近くと言ってよいこの長い期間を、私たちは「戦後」と呼んできました。でも、ひょっとすると後世の歴史家は私たちが生きている今の時代を「戦前」と呼ぶかもしれません。今の世界はそれほどまでに先行きの見えない不透明な時代になってきていると感じませんか?
作家・片岡義男は78年前の8月6日、疎開先の山口県岩国市で原爆の「光」を目撃します。後年、彼はその瞬間を「自分の物心がつき始めた瞬間」と書いています。原爆、終戦の日を経て、まさに「戦後」という時代を生きてきた片岡義男は、当時のことやその後の日米関係についての考察などを多くのエッセイに記しています。そこからは今現在、私たちが生きている日本という国が、終戦後どのように形成されてきたかを知ることができます。
この夏、ぜひこれらのエッセイをじっくりとお読みいただき、片岡義男のメッセージに耳を傾けてみてください。
なお、ボイジャーからは『ヒロシマ・ナガサキのまえに』という電子本が出版されています。ここには「原爆の父」とも呼ばれるJ・ロバート・オッペンハイマーと原爆を作った科学者たちへの徹底したインタビューが収録されています。少年時代の片岡が見た「光」はいかにして生まれたのか……。ぜひ併せてお読みください。折しも7月21日、アメリカではオッペンハイマーを主人公に据えた映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)が公開され大きな話題になっています。残念ながら日本での公開は未定のようですが。
そして、みなさんの「戦後」に関連した体験や、あなたの考える戦争や戦後について、片岡義男のこれらのエッセイを読んだ感想なども、ぜひお聞かせください。お問い合わせフォームから、お問い合わせ内容を「その他」、タイトルを「わたしの戦後」として、あなたの「戦後」にまつわる思い出やご意見などなんでもお寄せください。お待ちしております!
1)「大変なときに生まれたね」
1975年の夏、片岡義男はあるFM番組の取材で、作家・横溝正史にインタビューをします。その際に横溝から生年(1939年)を尋ねられ、答えた際に言われた言葉がこのエッセイのタイトルとなっています。当時、日本は日中戦争の真っ只中でした。このエッセイでは歴史年表から当時の「食」を中心とした項目を時代を追ってピックアップし、当時の「大変さ」を追体験していきます。そして、その大変さを国民に強いた日本政府は今も消滅しておらず、また同じことをやるだろう、と警鐘を鳴らしています。
(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年所収)
2)「『ハナ子さん』一九四三年(昭和十八年)」
1942年6月、日本軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫し、その後戦局は劣勢へと転換していきます。その翌年に公開された映画『ハナ子さん』(監督:マキノ雅弘)は戦意高揚のためのミュージカル映画でしたが、それでも検閲で多くのシーンがカットされたと言われています。このエッセイでは映画のいくつかのシーンを描写しつつ、正しい情報を国から遮断され、無防備だった戦時中の庶民の日常について考察します。
(『映画を書く──日本映画の原風景』文春文庫 2001年所収)
3)「僕の戦後」
片岡義男にとって、戦中が戦後に変わったのは1945年8月6日の朝、疎開先の山口県岩国市内で友達の家から自宅まで歩いていく途中に「奇妙な黄色い光」を浴びた瞬間だったと言います。戦前から戦後にかけての約6年、当時の岩国での片岡少年の暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。そして、そこで学んだこととは。
(『ひらく』第7号(2022年6月15日) 特集「日本人の戦後77年」より)
4)「僕の国は畑に出来た穴だった」
昭和22年11月7日の午後に米軍が瀬戸内海全体を撮影した一枚の航空写真。撮影された当時、片岡義男はその写真の中に確かにいたと言います。そしてその写真は疎開先の瀬戸内の町で、戦後に見た丸い池や、それらにまつわるさまざまな記憶を呼び起こします。あれから50年、日本という国のシステムはその間に起こった様々な問題に対し、うまく機能してきたのでしょうか? 戦後50年目に書かれた論考です。
(『日本語の外へ』筑摩書房 1997年所収)
5)「あのときの日本といまのこの日本」
アメリカという国の持つ特質のひとつとして「『観念』を『現実』へと転換し、目標達成のため前進する国」という点を片岡義男は挙げます。アメリカのIT企業などはまさにその典型ですが、かつての日米戦争における日本本土への空襲、そして広島と長崎への原爆投下もその産物でした。このエッセイでは戦後の日本の民主化改革、東西冷戦、そして2000年代初頭の湾岸戦争まで時間を下りながら、アメリカの「観念を現実にあてはめる」という行為について考察し、それに対する日本の状況についても言及していきます。
(『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年所収)
6)「真の文化とは時間の蓄積だ」
日本は戦後から現在まで、ひたすら経済活動だけを追求してきました。その結果として「経済は一流、政治は三流」と国内ではしばしば言われます。政治家がいけない、と多くの人は言いますが、いけない人たちが勝手に政治家になれるシステムは日本にはありません。投票の結果として三流の政治になったなら、それは有権者である私たちの投票時の判断が三流だった、ということにほかならないのです。
(『日本語の外へ』筑摩書房 1997年所収)
7)「教養としての世界地図」
冷戦はアメリカが長期公演した大芝居だったと理解すると、それからあとのことがわかりやすくなります。しかし冷戦が終結しても、世界が抱える問題は何一つ解決しませんでした。さて、次はどうすればよいか、とアメリカは考えます。中東、アジア……それぞれの国が抱える問題を少しでも知った上で世界地図を眺めると、さまざまなことが見えてきます。そこにはアメリカや日本がとるべき道も……。
(『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHK出版 2004年所収)
8)「現実に引きずられる国」
日本では何かが起こるたびに「憲法改正」を声高に叫ぶ人たちがいます。その理由の多くは「現実に対応出来ないから改正する」というものです。しかし今の社会においては、新しい現実は次々に立ち現れます。次々に現実を追えば、常に現実に引きずられることになるのは目に見えています。特に日本のように場数を踏んでいない国は……。
(『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年)
9)「主体的な日本を求めて」
戦後、独立後の日本はアメリカの同盟国となり「核の傘」の下に入りました。しかしそれは本当に「独立した」と言えるのでしょうか。このことが露わになったのが、「テロとの戦い」後のイラクへの自衛隊派遣についてのアメリカの態度とそれに対する日本の対応でした。米国が何事かを要求する際には常に「日本が主体的に決めることだ」と言いますが、これまで日米の間でそのような判断はあったのでしょうか。こうしたアメリカと日本の関係の尋常ではない様子は、世界に類を見ない、と片岡は言います。
(『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHK出版 2004年所収)
10)「世界はただひとつ」
太平洋戦争後の日本の国家システムや経済発展は、米ソ冷戦で優位に立とうとするアメリカの方針のもとで進められました。日本経済は右肩上がりを続けますが、その結果として、日本国内が世界のすべてだという考え方、ありとあらゆることが日本語で間に合う社会が強固に出来上がったと、片岡義男は考えます。そしてそれは「日本語の使いかたや自覚のありかたに関して、恐ろしいまでにただひとつの方向へと傾き続けた時代」であったと。
戦後の経済発展に伴い発生した、国内のさまざまな問題や課題を「日本語」という言葉の持つ特殊性から見つめ直した評論です。
(『日本語で生きるとは』筑摩書房、1999年所収)
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