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音楽エッセイ「クローズ・アップ」より8作品を公開

『別冊 FM fan』(共同通信社)にて1973年から1976年まで連載された、洋楽LPアルバムについてのエッセイ「クローズ・アップ」を公開しました

 確かに刺激的ではあるけれども、とにかく何とも不自由きわまりない歌い方だとつくづく思いながら、ターンテーブルからLPをはずすことになる。ジャニス・ジョプリンの5枚のLPを、ふと聞いてみたりしたときには、必ずそうなるのだ。ジャニスの絶叫が、単なる絶叫ではなく、彼女自身うっすらとでも自覚していたはずの、彼女の内部で確実にすさまじく欠落していたなにごとかの、その欠落した虚ろなる部分から発せられた絶叫であったことは、残された5枚のLPのうちのどれでもよいから片面だけでも聞けば、すぐに直感できる。心が満たされたあとに出てくる歌でもなく、歌として成り立ち得る条件をプロフェッショナルに磨きたてて放った歌でもなかったジャニス・ジョプリンの絶叫が、観客たちのなかに「すばらしい光景」をつくり出したことこそ、ひとつのかなり大きな悲劇だった。
・Janis Joplin「Down On Me」(1967)

(『別冊 FM fan』No.1 1973年6月15日号掲載)

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 ザ・グレートフル・デッドも、あるいは、ジェリー・ガルシアを筆頭にそのグループを構成する人たち全員が、ひとつの時代を形づくっている。物心ついたジェリー・ガルシアにとっての最初の必然は、彼自身の言葉でいまここに再び言い直すと、「何もすることがない」であった。これは、大人という他人たちの手によって自分のまわりにほぼ完璧にプログラムされて進行中の世の中の内部に、自分の内的本質と真剣に関わりあう興味の対象が、何ひとつない、という優れた状態のことなのだ。15歳の時、エレクトリック・ギターを手に入れたガルシアは、それまでの自分の生活をすべてほうり出してしまった。当時のアメリカ社会では、ドロップ・アウトするためのさまざまな条件が、ごく日常的に、そしてその気になればいますぐにでも役に立てられるような具体的な形で身のまわりに整っていた。このドロップ・アウトという、あるひとつの生き方を中心にして、その内部から、ザ・グレートフル・デッドというグループは生まれてきたのだ。
・Grateful Dead「Touch Of Grey」(Official Music Video/1987)

(『別冊 FM fan』No.2 1973年11月20日号掲載)

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 自分でつくった歌の世界をカーリー・サイモンが自分で歌うとき、自分がつくった世界に対して彼女はある一定の距離をいつも置いているようだ。この距離が、最初のヒット・シングルのタイトル「THAT'S THE WAY I'VE ALWAYS HEARD IT SHOULD BE」から、強く感じられてしまった。直訳すると「そのようなことはやはりそうあるべきなのだと、これまでずっと私は、聞かされてきました」というような意味となる。冷めているとか、クールである、あるいは、倦怠している、などの表現も、部分的には当たっているはずだ。どの歌を聞いても、ひとつの情景が、絵のように浮かんでくる。その情景の中には、さきほど書いたように、いつも陽がさしている。この、いつも陽がさしているのが、面白さであり怖さでもあるとぼくは感じる。少し大げさに言うなら、完璧な絶望感というものは、こんなふうにきらめく陽光とそよ風をたたえた、明るい世界なのではないだろうか。
・Carly Simon「That's The Way I've Always Heard It Should Be」(1971)
・Carly Simon「Anticipation」(1971)
・Carly Simon「Misfit」(1974)

(『別冊 FM fan』No.3 1974年7月1日号掲載)

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 キャロル・キングの名がアメリカのポップス界に浮上してきたのは、1960年だ。以来、数多いヒット曲の作詞作曲者として、あるいは、ピアノ、キーボードの演奏者として、押しも押されもしない重要な存在になってきている。歌手としてのデビューは、1962年だった。2枚目のLP『つづれ織り』の歌は、そのどれもが、ひとつのストーリーを物語っている。ひとつのストーリーを持った彼女の歌を順番に聞きこんでいくと、聞く人の心のなかには、アルバムのタイトルのとおり、一枚のつづれ織りが、力強い明確な針さばきで、織りあげられていく。A面の最初の曲『地球が動くのが私には感じられる』という歌を聞いた上で、1960年にシュレルズというボーカル・グループがヒットさせたキャロル・キングの歌『あなたは明日も私を愛してくれますか』を聞いてみると、キャロル・キングの成長ぶりに驚いてしまうのだ。ふたつの歌を比べててみると、言葉の使い方、そして、言葉の使い方のむこうにある、キャロル・キング自身の世界の広がり方が、まるで違っている。
・Carole King『Tapestry』(アルバム/1971)

(『別冊 FM fan』No.4 1974年11月5日号掲載)

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 ブリジット・フォンテーヌのLP『幻想の会話』(1973)は、オリジナルタイトルを『ランサンディ』という。火災、という意味なのかどうか確かめてはいないが、英語にも同じ語源の言葉がある。INCENDIARYという言葉だ。意味は「放火の、扇動的」「放火犯、扇動者、焼夷弾」だ。まずなによりも先に、火災が燃えあがったときの、その火災をも含めた全体の光景の持つ静かさが感じられる。熱い火には違いない。だが、静かなのだ。静けさのなかには当然、不吉さが感じられる。その不吉さは底なしだ。と同時に、その底なしの不吉さのなかを覗き込んでみたくもなる。ブリジットが歌い描くところの、なんとなくほの暗かったり雨が降っていたりする、静かでペシミスティックな世界は、確かに魅力を持っている。たいした理由もなく、誰もが時としてふと落ちこむペシミスティックな感情といったものが、もし普遍的なものなら、ブリジット・フォンテーヌの歌に対するぼくたちの共感のきっかけは、そのあたりにあるのだ。
・Brigitte Fontaine『L'Incendie』(アルバム/1974)

(『別冊 FM fan』No.5 1975年4月10日号掲載)

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 リチャードとカレンのカーペンターズ兄妹は、いい歌を選んでいる。そして、リチャードの自作曲には、いい詞をつけさせている。他の人たちが作詞・作曲した歌を、ふたりは完璧に自分たちのものにしてしまっている。やさしさと力強さとを、簡単な言葉のつらなりのなかで、くっきりとうたっている。甘い、おぼろなラブ・ソングではなく、存分に強靱な生き方の歌なのだ。そして、それらの歌は、誰にでもわかる。カーペンターズの歌を聞いた記憶は心に残る。さわやかな皮ふ感覚としてまずはじめ彼らの歌は聞く人を包み込み、心の中にいつのまにか、しみこんでいく。人それぞれの日常の中で、そんな歌をふと思い出し、断片を唇の先でうたったり、心の中でうたってみたりする。かつて聞いた心に残る歌の断片ではあるのだけど、ふと思い出してうたってみることを何度かくりかえしているうちに、聞いて記憶した歌は、自分の内部から生まれてくる歌へと、変化している。
・Carpenters「Yesterday Once More」(1973)

(『別冊 FM fan』No.6 1975年7月10日号掲載)

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 フィービ・スノウの1枚のLP『フィービ・スノウ』を、AB両面、聞き終えたばかりだ。これで三度目だ。心の中に残っていくいい気分は、3度目でも変わらない。音の印象が例えようもなく素敵だ。ほんのわずかに、しかしはっきりとブルーに内向していく雰囲気をたたえつつ、全体はすっきりとメランコリックだ。おさえの効いたシンプルな、余裕のあるリズムが、ひどく都会的に洗練されている。フィービ独特のとしか言いようのない、趣味のいい知的なブルースが、A面からB面の終わりまで心地よい緊張を保って、びっしりとはりつめている。小さく震える裏声に託された感情は、歌詞の英語がひとこともわからなくても、伝わってくるような気がする。フィービ自身のアクースティック・ギターが、みごとだ。テディ・ウィルスン、ズート・シムズ、チャック・イスラエル他、サポートがまた素晴しい。こんなふうに両面ともきっちりと完成されたデビューLPは、珍しい。ほんとうに、いい音だ。
・Phoebe Snow『San Francisco Bay Blues』(アルバム/1974)

(『別冊 FM fan』No.7 1975年10月16日号掲載)

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 ジョルジュ・ブラッサンスの名前は聞いていたが、彼の歌は知らない。一度も耳にしていない。『パリの吟遊詩人との再会』A面『フェルナンド』からぼくは聞き始めた。ギターの音の運びがいい。音が澄んでいる。それに、はずみがある。このしなやかさや、はずみは、ジョルジュ・ブラッサンスというひとりの男の肉体そのものだ。ギターを介して、肉体から出てくる音だ。ベースがバックを支えている。このベースもいい。いいぞ、と思っていると、すぐに歌声だ。冒頭の一節か二節を聞いただけで、ぼくはジョルジュ・ブラッサンスと触れあったことを非常にうれしく思った。フランス語の詩の内容はさっぱりわからない。しかし、聞いていて心地よい。あなたやあなたのその歌にぼくは大賛成だ、という気分になってくる。これは、うれしいことだ。ギターの音と同じように、言葉のつながりも美しい音の配列になっているようだ。誰に対しても絶対に媚びてはいない。自分自身がころっと丸ごと歌となって、いささか無愛想に提示されている。
・Georges Brassens「Fernande

(『別冊 FM fan』No.8 1975年12月25日号掲載)

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2024年7月19日 00:00 | 電子化計画

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