VOYAGER

片岡義男.com 全著作電子化計画

MENU

特 集

未ログイン時には閲覧時間制限がございます。ご了承ください。

【特集】作家は、なぜ写真を撮り続けるのか

【特集】作家は、なぜ写真を撮り続けるのか

2022年11月11日 00:00

このエントリーをはてなブックマークに追加
「僕が書く小説は写真だ」
  

片岡義男はそう言います。どういうことだい? わかったような、わからないような。調べてみると、写真について書かれた片岡作品は幾多あります。片岡義男と写真の世界を、しばし、みなさんと旅してみましょう。

 本日より、1998年に小学館文庫で出版された『撮って、と被写体が囁く』を電子的に公開いたします。小学館文庫では「文庫初CD-ROM付き!!」と謳い、当時の読者に大きな驚きを与えたのです。映像メディアと本を合体させた文庫の企画は、しかし続きませんでした。CDに格納された写真を、デジタル出版に受け継ぎました。あの頃の幻想、今の現実を、どうぞご覧ください。

 そして片岡義男が書いてきた「写真」に関する作品を、このあと次々とお届けしていきます。片岡義男と長らく仕事を一緒にしてきた写真家・佐藤秀明さんの協力も得て、地球のあちこちをともに歩いた話も聞いてみようではありませんか。

片岡義男
片岡義男

 写真が持っている多くの機能のなかで、写真自体がもっとも得意としている機能は、ほかのすべてを抜いて、記録することではないか。どのようなディテールまでをも、レンズとフィルムの性能の範囲内で、そして光があるかぎり、機械的に光学的に化学的に、写真は正確に写し取る。
 写真は最初から、なんの苦労もなしに、客観に到達している。記録とは客観だ。世界や事物、そして人を、写真は客観的にとらえる。客観だからこそ、それは記録たり得る。客観的に見たいという願望の内部には、世界や事物、そして人を、より正しく、より深く、結果としてより良く理解したい、という願望が存在している。その願望を満たすために写真は生まれ、いまもそのことのために機能している。
 撮ることによって僕は自分を確認しようとしている。シャッター音とともに、その一瞬はどこにもない過去という世界へと、運ばれ始めている。写真を撮っていると、自分の一瞬が過去という時間のなかの一瞬に変化するのを体験することができる。

こちらでは公開済みの作品から写真や写真集に関連した作品をご紹介します。

1)『なぜ、そんな写真を撮るのか』

下北沢の喫茶店から歩いて3分とかからない裏道にあった、50年ほど前に建てられたと思しき民家。片岡義男の気持ちを最も強くとらえたのは、玄関のドアでした。「なぜあのような家を写真に撮るのですか」と同行の女性に聞かれますが「なぜだか僕にもよくわからない」と答えます。しかし「『僕はそこに経過した時間を撮っています』という答が、もっとも正解に近いだろう」とも答えています。『新潮45』(2013年12月)より

2)『写真を撮っておけばよかった』

片岡義男が写真を撮るという行為の根底にあるもの。そのひとつに、過去に対する反省あるいは懺悔があるようです。子供の頃には写真を撮るのが好きだったという彼ですが、大学生になってからは、まったく撮らなくなったと。その理由を「自分という現実を日々のなかで受けとめていくだけで、精いっぱいとなったからではないか」と語っています。『坊やはこうして作家になる』(2000)より

3)『ただひとり東京と向き合う』

似たような光景の写真が2枚。このような写真を撮る際には、撮影者はひとりきりでその風景や対象物と向き合うことになります。光景を撮ろうとして孤立無援、天涯孤独な状態になる、その時間が大事なのだと言います。『ホームタウン東京──どこにもない故郷を探す』(2003)より

4)『写真の学校に学んだなら』

もしあなたが写真を学ぶ学生だったとして、「東京ディズニーランドからもっとも遠い景色を撮って提出しなさい」という課題を与えられたら、どんな風景を写真に撮りますか? ディズニー・ランドを表現する言葉は例えば、夢、ファンタジー、虚構などいくつもありますが、どの言葉も同じひとつの根へと戻っていきます。そうした思考の末、撮られた写真とは?『ホームタウン東京──どこにもない故郷を探す』(2003)より

5)『明日もたどる家路』

何枚かの写真を組み合わせることでメッセージを伝える「組写真」。現実だけでなく、フィクションも伝えることができますが、ここにあるのは「家路」というフィクション。いつも見ていて、それゆえに意識すらしないような光景の断片が写真として続くと、忘れていた記憶を取り戻すと同時に、現実が写真によって裏書きされることを体験できるといいます。『東京22章──東京は被写体の宝庫だ。』(2000)より

6)『壁面とマネキンの街を歩く』

『撮って、と被写体が囁く』には女性マネキンを主題とした写真が30枚、収められています。なぜマネキンを撮影したのか、その理由については本書の中でも語られていますが、このエッセイではマネキンを撮ることについて、時間という概念も絡めてもう少し深く語られています。『ノートブックに誘惑された』(1992)より

7)『ジャパニーズ・スタイルを撮ってみましょう』

マネキンとともに『撮って、と被写体が囁く』の中によく出てくるのは、街に貼られたさまざまなポスターです。そこに書かれている文字には、日本語のきわめて日本語的な部分、いわば「ジャパニーズ・スタイル」とでもいうべきものが潜んでおり、それらを写真で拾い上げて観察するのが片岡流のようです。それは撮影と言うよりも、標本採集に近いものかもしれません。『ノートブックに誘惑された』(1992)より

8)『この貧しい街の歌を聴いたかい』

(『ジャパニーズ・スタイルを撮ってみましょう」の続編になります)
街のある場所にポスターが1枚あると、その周辺の光景がなんとも言えず象徴的なものに見えてくることがあります。今の日本の広告ポスターの言葉は、極めて浅い主観の言葉であり、日本語の持っている性能の特性を極限にまで高めたものです。そして日本語は主体について満足に語る性能がないから、客体も成立しない。……片岡義男はポスターのある街の光景の中に、そうした「言葉の世界」を見ており、それを写真に撮っているのだと語ります。『ノートブックに誘惑された』(1992)より

9)『忘れがたき故郷』

東京で生まれ育った人はよく「故郷がない」と言います。しかしそんな人にも故郷と呼ぶべき風景は必ずあるはずです。山や小川はないかもしれませんが、幼い頃から何度も見た光景が、自己の無意識に蓄積されているかもしれません。それを写真に撮ることは可能なのでしょうか。『東京22章──東京は被写体の宝庫だ。』(2000)より

10)『虚構のなかを生きる』

写真というものは、時間の断片を停止させ封じ込めます。もし時間だけが真実だとするならば、私たちが現実だと思っている光景は実は真実の擬態であり、虚構だということにならないでしょうか。もしそうであれば、光景から反射された光がフィルムに固定された「時間」こそが、真実なのでしょうか?『自分と自分以外──戦後60年と今』(2004)より