【特集】76年目の夏に——片岡義男と「戦争」
2021年8月15日、日本は76年目の敗戦の日を迎えます。今年は新型コロナウイルスの蔓延とその渦中でのオリンピック開催という、まさに歴史に刻まれる年となりそうです。しかし私たちは、76年前の8月に起こった出来事を決して忘れてはなりません。
片岡義男は1939(昭和14)年、東京で生まれました。国内では前年に国家総動員法が公布され、その後生活必需品の統制が始まっていった頃です。片岡家は東京を離れ、祖父の住んでいた山口県岩国市に疎開、戦後は広島県呉市で数年間を過ごしました。当時のことは後年さまざまなエッセイに書かれていますが、今回はその中から8本をセレクトしてみました。オートバイも都会の生活も出てきませんが、片岡義男の原点ともいうべきものがここにあります。そして、これらのエッセイに描写されている76年前の日本と日本人の姿を、ぜひ今の私たちと重ね合わせてみてください。
■白い縫いぐるみの兎
1945年2月、5歳だった片岡義男は両親とともに、東京から祖父のいる山口県岩国市へと汽車で旅をします。それは日本の敗色濃厚な中で空襲から逃れるための疎開でした。後年、彼らの旅がスムーズに進んだのは「婆や」と呼ばれていた若い乳母の懸命な働きがあったことを、母から聞かされます。▶作品を読む
■大変なときに生まれたね
1975年の夏に、FM番組のインタビューで横溝正史さんの別荘を訪れた片岡義男。「大変なときに生まれたね」は彼の生年を聞かされた際の横溝さんの言葉です。このエッセイでは当時の食料事情を時系列で辿ることで、いかに「大変」な時代であったかを追体験できます。そして文末では今の日本政府に対して痛烈な一言を放っています。▶作品を読む
■その光を僕も見た
1945(昭和20)年8月6日の朝、片岡義男は岩国市にいました。このエッセイではその日、外を歩いていて背後から前方に向けて一瞬走り抜けた「明るい光」と、同じ日の夕方、東の空に見た「雲」について書いています。「この光だけは過去にならない。だから僕はいまもこの光の中にいる」▶作品を読む
■爆弾の穴について思う
山口県岩国市に最初の空襲があったのは昭和20(1945)年3月19日。その後9回あまりの空襲があり、最後は終戦前日の8月14日でした。表題の「爆弾の穴」はこれらの空襲でできたものですが、多感な時期に10年ほど瀬戸内に住んでいた片岡の記憶のなかに今も鮮明にあると言います。▶作品を読む
■『日米会話手帳』という英語
終戦の年の10月に出版された本『日米会話手帳』は3ヶ月ほどの間に360万部以上を売り上げた、戦後日本の最初のベストセラーです。つい数ヶ月前まで鬼畜と呼び「一億総火の玉」となって戦っていた国の言葉を、なぜ人々はこぞって学ぼうとしたのか。その謎について考察します。▶作品を読む
■ワシントン・ハイツの追憶
ワシントン・ハイツは第二次大戦後にアメリカ軍が東京・代々木に設けた軍関係者とその家族のための団地です。昭和33年に撮られた空中写真に写る、ハイツ内の整然とした街並みに片岡義男は科学的な計画ぶりを見て取ります。そして「日本はアメリカから未だに科学性を学んでいない」と断じます。▶作品を読む
■トリス・バー。バヤリース・オレンジ。バッテンボー
タイトルに出てくる3つの言葉すべてを知っている、という人は今や少ないかもしれません。敗戦から5年後の1950年代の初め頃、日本人の誰もがこの言葉を口にしていた時代がありました。それは様々なものが流行り物として現れ、消費されるという時代の始まりでもありました。▶作品を読む
■あのときの日本といまのこの日本
アメリカという国の持つ特質のひとつとして「『観念』を『現実』へと転換し、目標達成のため前進する」というものがあります。76年前の日米戦争での日本本土への空襲、原爆投下もその産物でした。このエッセイでは戦後の日本の民主化改革、東西冷戦、そして2000年代初頭の湾岸戦争まで時間を下りながら、アメリカの「観念を現実に転換する」という行為について考察し、それに対する日本の状況について言及します。▶作品を読む
Previous Post
Next Post