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特集 片岡義男が書いた 戦後日本の文化

特集 片岡義男が書いた 戦後日本の文化

2024年8月2日 00:00

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今年は太平洋戦争終結から79年となります。
1939年生まれの作家・片岡義男は6歳のとき、疎開先の山口県岩国市で広島に投下された原爆の光を見ており、この日を自身の「物心のついた日」と定義しています。その9日後の終戦から始まった新しい「民主主義の日本」の中で、少年時代の片岡義男は何を見て何を感じたのでしょうか。そこには作家・片岡義男を形成した戦後日本の文化があったはずです。終戦後のさまざまな体験を綴ったエッセイから、当時の文化とそれをどう受け止めたかが伺える作品をご紹介します。


「一九五三年までの日本は古き佳き日本だった、と僕は判断している。根拠としては体感しかないが、いろんな視点からこの体感は裏付けすることが可能だろう、と僕は思っている。一九五三年からの日本は、あらゆる領域で身の丈を越えて、無理に無理を重ねた日本だ。このような日本のスタートに、僕の少年期の始まりが重なっている」

(『十年一滴』(『言葉を生きる』2012)より)


1)「昭和二十一年、津々浦々の民主主義」

アメリカの女優、バーバラ・スタンウィックを表紙に使った雑誌『映画の友』昭和21(1946)年9月号が冒頭に紹介されます。まだ幼かった片岡義男にこの雑誌が並んだ書店の記憶はありませんが、そこからは戦前と戦後をはっきりと二分し、日本に民主主義を刷り込んだアメリカの見事な仕切りを感じるとともに、当時自身も夢中になったアメリカ映画、特に西部劇を超満員の映画館で見た記憶が蘇ると言います。

(『Free&Easy』イースト・コミュニケーション/2002年3月号)


2)「少年たちはたしかに映画を観た」

小学校1年生の頃から映画を観始めた片岡少年。短編の漫画映画と併映された『オクラホマ・キッド』という西部劇を皮切りに、小学校を出るまでまさに「浴びるように」映画を観ます。そして気に入ったシーンを友達と一緒に再現するという遊びを通し、その記憶をより強固にしたそうです。また、同時併映されていた漫画映画のバックにはジャズ風の音楽がよく使われており、それらは少年だった彼の体に染み込んでいったと言います。

(『町からはじめて、旅へ』晶文社/1976年より)



3)「トリス・バー。バヤリース・オレンジ。バッテンボー」

1949年に日本でも公開されたアメリカの喜劇西部劇『ペイルフェイス』(邦題『腰抜け二丁拳銃』)。この主題歌である『ボタンとリボン』の日本語版(歌は池真理子)の歌詞にある「バトンズ・アンド・ボウズ」という言葉を、そのまま聞き取って日本語に置き換えたのが「バッテンボー」です。なぜか当時の日本で大流行しました。トリス・バーは1950年に発売された国産ウイスキー「トリス」をメインにした酒場。バヤリース・オレンジの発売もこの年でした。日本はまだアメリカの占領下にありましたが、大衆の娯楽として映画が君臨していたころの話です。

(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版/2005年より)


4)「自己の論理の具現としてのターザン」

小学校から高校時代まで、西部劇や活劇、漫画映画ばかり見ていたという片岡少年。活劇ではジョニー・ワイズミュラーのターザン、西部劇では正義のヒーローよりもアウトローの方が記憶に残っていると言います。特にターザンは論理と行動との間に落差がまったくなく、密林におけるターザンのアクションのすべてが彼の論理であり、存在そのものであることが、少年が思い描く「自由」というものと一致していた、と回想します。

(『町からはじめて、旅へ』晶文社/1976年より)


5)「歌謡曲が聴こえる 黙って見ていた青い空」

並木路子の『リンゴの唄』は今の若い人でも知っている、戦後で最も有名な曲かもしれません。1946年の初頭には、自宅のラジオで、ラジオ店の店頭で、街の広告塔からと、いつでもどこでもこの歌が流れていたそうです。しかしこれが戦後すぐの1945年10月に公開された『そよかぜ』という映画の主題歌であることは多くの人が忘れているのではないでしょうか。資料をもとに、映画を離れてなぜこの曲だけがヒットしたのかを解き明かしていきます。

(『歌謡曲が聴こえる』新潮新書/2014年より)


6)「銀座カンカン娘」

幼児期を過ぎ、ひとりで町を歩くようになった片岡少年の耳に繰り返し飛び込んできた音楽は「銀座カンカン娘」でした。不思議であると同時にロマンチック、まさに時代が求めた歌。その曲の明るさは、無理に元気に振る舞うのではなく、無理をせずどこにも媚びない健康的なもので、当時の若い日本女性たちの「自分もこうあることができればなんといいだろう」というイメージの総体だと片岡は指摘します。このイメージは、のちの片岡作品の女性像にも通じるものがあるのではないでしょうか。

(『音楽を聴く』(第三部「戦後の日本人はいろんなものを捨てた 歌謡曲とともに、純情も捨てた」東京書籍/1998年)


7)「少年とラジオ」

終戦から6年後の1951年頃、片岡少年の部屋には当時の真空管式ラジオが5台くらいあったと言います。1950年代のごく初期のアメリカのSF、あるいはアメリカのペイパーバックのSFイラストレーション的な雰囲気のデザインのラジオたち。片岡はこのラジオから流れる、FEN(極東放送網)の音楽番組やコメディをよく聞いていたそうです。この同時期、彼は自宅に山のように積まれたペーパーバックを少しづつ読み始めており、おそらく耳と目の両方から英語を吸収していったのではないでしょうか。

(『アップル・サイダーと彼女』角川文庫/1979年より)


8)「マヨネーズが変わった日」

片岡義男にとっての日本は、敗戦後の占領下の日本と、占領が終わったあとの、それまでと全く異なる日本の2つに分かれており、その前半はアメリカと日本が重なってひとつの体験を構成していると言います。戦後日本のジャズと、そことつながったポピュラー音楽はそのわかりやすいひとつの例ですが、片岡にとってその前半を象徴するのが、ハリウッド映画『サヨナラ』でアカデミー助演女優賞を東洋人として初めて受賞した俳優・ナンシー梅木だと言います。そして、その前半の日本体験の終わりは、食卓のマヨネーズの変化としてはっきり覚えてると言います。

(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版/2005年より)


9)「かあちゃん、腹へったよう」

1953(昭和28)年、NHKが大相撲のTV中継を開始し、街頭テレビが人々の人気を集めました。蛍光灯が家庭に普及しはじめ、インスタント食品のはしりであるスープが森永から発売されます。そんな時代、チキンライスは子供にとってはひとつの「ごちそう」でした。フライパンにバターもしくは食用油を入れ、玉葱を炒める。魚肉ソーセージをダイス切りにし炒めたら、ご飯を加えてさらに炒め、最後にケチャップを加えて少しだけ炒める……。こんな素朴とも言えるチキンライスの作り方が、庶民の母親たちに共通する基礎体験と知識だった時代が、日本には確かにありました。

(『ナポリへの道』東京書籍/2008年より)


10)「酸っぱい酸っぱい黄色い水」

戦後の小学校での給食は1947年の1月から実施されました。片岡の1学年下だった男性によると、その献立はコッペ・パンに、脱脂粉乳をお湯で溶いたものだったそうです。その後グレープフルーツのジュースが加わりますが、当時はグレープフルーツそのものを見たことも聞いたこともなく、薄黄色をした酸っぱい水、という印象だったと言います。しかしなぜオレンジでもパインでもなくグレープフルーツ・ジュースだったのでしょうか。

(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版/2005年より)


11)「僕の戦後」

このエッセイでは、岩国市の祖父の家に疎開していた片岡義男が、戦後の時期に普段はどのように暮らしていたのかが綴られています。「物心がついた日」である1945年8月6日の出来事から始まり、岩国での暮らしで学んだこと、学校でのことなど、当時の暮らしぶりがわかると思います。

(『ひらく』7 エイアンドエフ/2022年6月15日発行)


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