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ぼく自身がロンサム・カウボーイになる――出発直前インタビュー

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 写真家・佐藤秀明さん。1960年代後半にニューヨークに住み、70年代に入ると波を追いかけてサーフィン雑誌を中心に活躍、その後は北極、アラスカ、チベット、ポリネシアと辺境を撮影して、近年は日本の雨の風景などにも取り組んで来られました。角川文庫版の片岡義男さんの多くの小説やエッセイのカバーで、佐藤さんの写真を見ることができます。
 その佐藤さんがこの秋、新たなプロジェクトを始動されます。名付けて、『ロンサム・カウボーイふたたび』。およそ30年ぶりにアメリカの地を踏む佐藤さんに、出発直前の心境をうかがいました。
 『ロンサム・カウボーイふたたび』特設サイトはこちら
起点はラスベガス

―― いよいよご出発が近づいていますが、どのくらいの期間を予定されていますか?

 10月10日に出発して、20日間。前半の10日間は計画を立てています。その10日間で、現地のいろいろな情報がわかると思う。まずはラスベガスに入って、車を借りてネヴァダの砂漠を走ろうかと思ってます。10日目に車を返して、そこからはツーソンに行くか、フェニックスに行ってサンディエゴに渡るか。順序はまだわかりません。日本では切符が取れないし、向こうでは安い航空会社もたくさんあるから、後半は向こうで決めます。

(Googleマップを見ながら)まずラスベガスからイーリーに行きます。このあたりの砂漠が面白いんだ。エリア51というのがあって、そのあたりを通って行きます。それからノーザン鉄道の駅があるんですね。昔の古いディーゼル機関車を保管してあって、それを走らせたりする。

―― 車で走っているあいだは、モーテルに泊まることになりますか?

 もちろんモーテル。時にはキャンプ場にも入るかもしれませんが。

―― モーテルって、今もたくさんあるんですか?

 あります、あります。いくらでもある。予約なんかなしで、すっと泊まれる。後半のうち2、3日はロスに滞在します。知り合いのサーファーと合流して、彼から伝説のサーファーを紹介してもらうつもり。ぼくのその知り合いはものすごく古い車を持っていて、サーフボードをのっけて砂漠を走っていくわけです。そういうのがいいなあと。

―― おいくつぐらいの方ですか?

 まだ50代だと思う。2020年の東京オリンピックのサーフィン会場になる予定の一宮(千葉県)あたりで、彼は毎日やってますよ。

片岡義男さんから「ロンサム・カウボーイ」をもらった

(晶文社から2015年に復刊された片岡義男さんの『ロンサム・カウボーイ』を手に取りながら)これだよね、これ、これを読んだんだ。

―― 読まれたときの印象は?

 ニューヨークから帰ってきたばかりの時でした。ここに書かれていることがすごくよくわかった。懐かしい話だなあと。自分の見た風景が見えてくる。ネヴァダの方をずっと旅したことがあるんですよ。その時の風景がここにたくさん書かれているじゃないかと。それで再び訪ねてみたいと、ずっと思っていたんです。
 アメリカには何度も行っているんですが、自分が撮った写真を整理していたら、だんだんこの本に近づいていくんですね、写真も、気持ちも。それで片岡さんとご飯を食べた時に「ロンサム・カウボーイをちょうだい」と言ったら、「いいよ」と。

―― 「ちょうだい」というのは言葉を? 概念をですか?

 気持ちをね。テーマとして。ぼく自身がロンサム・カウボーイになって撮ろうと思った。そうしないと写真は撮れないから。話はいったん途切れていたんだけど、ある時片岡さんから「あれ、やりなよ」と言われました。
 それで片岡さんのロンサム・カウボーイと同じ風景を旅した時にね、立ち寄った町が2つあるんです。その1つがオースチン。ネヴァダ州にあります。これがいい町で、そこにまたいいサルーンがある。

―― 「サルーン」というのは?

 バーです。昔の西部劇によく出てくるような。2階は宿で、場所によっては売春宿になっている。下の階がバーで、誰かがピアノを弾いている。そういう名残のバーが、今でもあります。オースチンのあたりは昔のままで、何百年も営業しているバーもある。
 そこでかつて撮った写真が何枚かあるから、それを今回持っていって、これはここじゃないか、あそこじゃないか、とか、そこに写っている人は誰それじゃないか、なんてことになったらおもしろいじゃない。この写真と並んで撮らせてよ、なんて言えるでしょう。

―― 思いがけない再会があるかもしれないですね。片岡さんの『ロンサム・カウボーイ』を読んでかつて旅したアメリカを思い出し、また訪ねて、そしてそこからかなりの歳月が経って今回、2017年にまた旅立とうとしている。およそ何年ぶりになりますか?

 だいたい30年近くは経過してますね。

―― 行きたい所がいくつも頭に浮かんでいることでしょうね。

 もちろん。例えば、ネヴァダの50号線。インターステートじゃない、普通の田舎道で、あの『LIFE』誌が「アメリカでいちばん寂しい道」として特集を組んだことがあるんです。田舎道も寂しい道もたくさんあるんだけど、なぜここが特集されたかというと、昔、「ポニーエクスプレス」というのがありました。郵便ね。昔の郵便は、日本は飛脚で、アメリカは馬だった。郵便の中継地点に馬が何頭かプールされていて、馬を乗り換えながら目的地まで運ぶんです。その馬をプールしていた所が町になった。そこを通っているのが50号線なんです。そういう歴史がある。ほとんど車の通らない、寂しい道なんですけど。

 でね、昔そこを走っていたら、たぶんサーファーじゃないかなという人たちが、砂漠の向こうからブワーッと走って行ったんだ。慌てて車から降りたけど、撮るのは間に合わなかった。そこからカリフォルニアの海までは4~5時間、いや、もっとあるかな。その瞬間のことは今でも鮮明に覚えています。

 それからユーレカにも行きたい。ユーレカには、アメリカでいちばん古いオペラハウスがあります。昔はこの辺にたくさん銀や金が出たから、人がたくさん押し寄せたんです。

―― ゴールドラッシュですね。

 そう。半年ぐらいのうちに町になってしまった。ところが銀や金が出なくなるとみんな撤退してしまって、寂しくなった町がそのまま残っています。中にはこの土地が気に入って、根付く人もいるわけでしょう。そういう人たちがいるから、人口は少ないけれども町は残る。ここをさっき言った「ポニーエクスプレス」が走っていました。

―― ユーレカはどのぐらいの規模の町なんですか?

 今はビルが5つか6つぐらいしかない、小さな町です。その真ん中を50号線が突っ切っている。一方のオースチンなんてビルすらないです。標高は2,000メートルぐらいで、春先に山が雪をかぶっている姿なんか、本当にいいんだ。寒いけどね。前に行ったのは4月の末ぐらいだったかな。足元にも雪が残っていた。今回はちょうど紅葉の季節だから、これもまたいいかもしれない。
 車で走っているとね、向こうに山があって、道がグワーッと流れていて、逆光で輝いてる。そこをカウボーイが馬に乗って、横切ったりするんだよ。たまらない風景。

―― まさにロンサム・カウボーイですね。そういう瞬間をいくつ捉えることができるか。

 オースチンでは、ぼくが昔撮ったのと同じ所から、同じように撮ろうと思ってる。昔撮った時は教会がいくつかあって、それぞれの家の庭には50年代の古い車がみんな置いてあるんだよ。調べたら、町並みはほとんど変わっていないらしい。泊まったホテルやサルーンがまだあるかどうかは、わからないけど。それと、このあたりは売春が公認です。だから夜走っていると、何にもない中にネオンがキラキラしています。

―― そういう場所なんですね。少しは様子も変わっているでしょうけれど、かつてと同じ場所で撮りたいというお気持ちは、いわゆる「ノスタルジー」とは違うものでしょうか?

 変わりようを見てみたい、ということです。それに、前は仕事で行っていますから。もっと時間をかけて撮りたい風景がたくさんあるのに、「ちくしょう、ちくしょう」と思っていました。

―― 当時から、ここにはまた来たい、撮りたいというお気持ちがあったんですね。

 いつかまたこれを、という気持ちはありました。それが今回、30年越しで実現するんです。

伝説のバーや強制収容所跡

 できたらもう1つ、グッドスプリングスを考えています。あまり有名になってしまって、本当に行くかどうかわからないけど。グッドスプリングスは、名前のとおり、水がいいんです。昔はいい銀も出た。そこに1軒、パイオニア・サルーンというバーがあります。100年以上続いている有名なバーです。
 なぜ有名かというと、『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルです。彼は愛妻家で、奥さんも女優(キャロル・ロンバード)だったけど、彼女が飛行機でネヴァダの砂漠を飛んでいる時に行方不明になってしまった。その奥さんの安否を気遣って、捜索隊が出ている間じゅうずっと、クラーク・ゲーブルが待機していた場所がグッドスプリングスのパイオニア・サルーンなんです。
 結局、奥さんは亡くなって発見されました。それでクラーク・ゲーブルは、その後、映画も人生もダメになってしまいました。今でも、当時彼が飲んでいたコーナーが残っていて。そういうことでものすごく有名になっているらしい。
 ただね、今はバイカー連中がダーッと来るらしいんだね。そのサルーンは食事もおいしいから。レストランも大きくなってしまったし、となると、行かない方がいいかなあ、と思ったり……。

―― 行くとガッカリしてしまう可能性もありますね。

 そうなんだ。あとね、こっちは行くだろうと思うのはマンザナね。砂漠ですけど、第二次世界大戦の時に、日系人の強制収容所がネヴァダの砂漠のマンザナという所にあったんです。アンセル・アダムスの写真でも有名です。日系人は当時、みんなそこに押し込められていた。

―― 周りには何もない……。

 周りは砂漠だから、逃げられない。後にアメリカは、政府が犯した過ちだったと謝罪してますが、その強制収容所跡に碑が建っています。これ、パイオニア・サルーンのわりと近くなんです。

―― 再訪する場所や、すでに予定しているスポット以外にも、様々な出会いがありそうですね。

 うん。高速道路の途中に、トラックドライバー専門のサービスエリアというのがあって、例えばそんな所にふらっと寄ってみたって面白いと思うね。トラックの荒くれ男たちを相手にした食事は、量も違うでしょう。普通の日本人にはとても食べられないようなボリュームだろうね。
 出会うかもしれない人々としては、ロデオをしながらあちこち歩く人たちもいるんだ。カーニバルや移動遊園地。大きなトラックに荷物を積んで移動しながら、集落があると観覧車を置いたり、ショーをしたり、ロデオをやったりする。1週間ぐらい経つとそれを畳んで、また次の場所へ移動していく。
 偶然に出会いたいのは、そうやって重要な仕事をきちっとしながら旅する人たちですね。

バスの窓から見た風景が忘れられない

―― 今までお話の中に出てきた町には、いくつかの共通点があるように思います。町が小さいこと、寄る辺なさ、今日ではむしろ昔日の面影を残す場所になっていることなど、です。佐藤さんは、アメリカのどこに惹かれるのでしょう?

 アメリカはぼくにとって最初の外国でした。ロサンゼルスからニューヨークまで、グレイハウンドのバスに乗りました。そうすると、バスの窓から見える風景が、1日ごとに変わっていくわけ。アリゾナだったかな、砂漠を通った時に、枯れ草のお団子が風に吹かれてコロコロと転がって行って、映画の中で観ていたような風景が本当にあるんだと思いました。
 ニューメキシコのギャロップへ着いて、バスを乗り換えるのに休憩があったんだけど、そこまでの間にバスの窓から見た風景がまたものすごいインパクトでした。そのすぐ後に読んだのが片岡さんの『ロンサム・カウボーイ』だったから、「ああ、あの風景だよ! よし、もう1回行かなくちゃ!」と思ったんです。

―― 実際に見てしまったら、また来たくなってしまう。

 ギャロップで泊まったホテルというのがガラガラに空いていて、その感じがまた良かったんだけど、今は有名になってしまいました。1週間ぐらい、いたかな。先住民族の集落の中にも行ったしね。もっとちゃんと写真を撮っておけばよかったなって、今になって思う。
 初めてホーボーを見たのもその時です。

―― ホーボー。放浪する人たちですね。

 そう。当時まだ「ホーボー」という名前は知らなかったけど、「こんな貨物で旅している人たちがいるんだ」と思いました。
 ギャロップのサンタフェ鉄道は、貨車が何キロも連なったのが止まっているんです。それにさえぎられて、向こうへ行きたいのに行けないんだ。だから子どもたちもみんな、貨車の下をくぐって行くわけです。その間に貨車が動き出したらおしまいだよね。ぼくもくぐって行ったし、ホテルに戻るにはまたくぐらなくちゃいけない。
 その時、貨車のドアが開いていてさ。奥に数人いたよ。おしっこ臭かったな(笑)。

―― 彼らはそれが移動の手段だったんですね。

 日本で言えば季節労働者、放浪者。昔は日本にもいたんだよ。日本で川の取材をしていた時に、ライターとは橋の下で待ち合わせるんだ。そのライターは彼らと話すのが大好きで、どこそこの橋の下にいるから、と連絡が来る。行ってみると、焚き火を囲んで酒盛りをしているわけ。ぼくも「カメラマンの佐藤さん」と紹介されて、「おう」と言われたりして。
 季節が変わっていくと、暖かい所に移動していく。寒くなると南の方に行くんです。そんな生活をしている人たちが、昔はいました。そういう人たちの寝床の脇には、農家でもらった食べ物がたくさん置いてある。農家の仕事を手伝ったりするんだね。お酒もどこかからいただく。

―― とても自由でタフな生き方ですね。

 そういう人たちにくっついて写真を撮るのは面白かったね。ニューヨークではホームレスばかり撮っていました。

写真家・佐藤秀明のニューヨーク時代

◆佐藤秀明さんが私たちに送ってくださった写真集“REQUIEM WORLD TRADE CENTER”『鎮魂・世界貿易センター』巻末に佐藤秀明さんが書いた『ワンス アポンナタイム イン ニューヨーク』という一文が掲載されている。1967年、写真修行の場としてニューヨークに住んだ時代の写真が数々紹介されている


―― 佐藤さんは1967年から3年間、ニューヨークに住んでいらっしゃいました。ホームレスの人たちは、撮らせてくれるものですか?

 だいじょうぶ。若いっていうのはいいんですよ。今のぼくみたいな歳になると殴られちゃうけど(笑)。若い人がビールなんか持って「こんにちはー」って行くと、喜んでくれる。
 被写体に好かれる年齢ってあるんです。20代ですよ。30代になると、もう胡散臭いでしょう。20代だったから、すごいものも撮れました。マンハッタンのど真ん中、ハーレムで、黒人たちがドラム缶で焚き火をしている。そういう所に入って撮ったりもしていました。

―― 怖くはなかったですか?

 怖くなかった。「お前何してるんだ」と言われて、「写真を撮ってるんだ」って。「日本がどこか知ってるか」「サンフランシスコの隣か?」なんてやりとりをしてね(笑)。今から考えると、びっくりするようなことをやっていました。

―― ニューヨーク時代、つまり、佐藤さんがプロフェッショナルの写真家になる前のお話をもっとうかがいたいです。そこに今回の「ロンサム・カウボーイふたたび」につながるエッセンスというか原点というか、そういうものがすでにあるような気がしてきました。

 ハーレムの、貧しい人たちが住む所を歩いていると、アパートの窓から覗いている人がいるのね。パッと視線が合う。瞬間的に「写真になるなあ」と思ったから、アパートに入っていって「中で撮らせてくれないか」と言うと、撮らせてくれるんだ。歳をとっていたらそんなこと絶対に不可能だよ。そういう所に行って、そこでまた新しい被写体を教えてもらったりもしました。

◆ハーレムの夫婦 “REQUIEM WORLD TRADE CENTER” より

 あの頃、ハーレムは怖くて危険だからと言って、日本からニューヨークに来ても、外出しない旅行者がたくさんいました。

―― でも、佐藤さんは怖くなかった。

 修羅場はくぐっています。例えばニューヨークに着いてそれほど経っていなかった頃、先にニューヨークに来ていた友人の絵描きから、カナダの航空会社のコマーシャルを撮っている女性の写真家を紹介してもらったんです。気さくな人で、タイムズ・スクエアの飲み屋のカウンターで一緒に飲んでいた時のこと。
 突然、バーン!と音がして、ドアボーイが血だらけで倒れた。そうしたら女性はカウンターの中にパッと飛び込んだよ。ぼくはその場で動けずにいます。するともう1回バーン!と音がして、カウンターに弾が当たったんです。ぼくはとうとう、完全に腰を抜かしてヘナヘナと座り込んじゃってね。

―― その女性はすごいですね。腰を抜かす方が普通かなと思ってしまいますが。

 彼女はしかも、カウンターの向こうから、カメラで撮ろうとしているんだよ。ほんとうにあれはすごいなと思った。
 他にもあります。マンハッタンのイーストサイドの橋の方にAアヴェニュー、Bアヴェニューというのがあるんだけど、スパニッシュが住んでいて、そこはほんとうに怖かった。ハーレムの黒人とスパニッシュの違いはというと、黒人はぶん殴るけど、スパニッシュはカミソリで切るのね。
 そこにもカメラを持って入るんだけど、ちょうど麻薬が流行り出した頃でした。それまでは酒の酔っ払いだったのが、だんだん麻薬になっていく。酒で酔っ払っているうちは怖くないんです。後ろにいても、スパナを取り出して襲おうとするのが気配でわかる。相手がウワーッと振り上げた瞬間に逃げ出したりして。それが麻薬になってくると、相手が読めない。
 当時、麻薬の囮捜査に警察がずいぶん入り込んでいました。ぼくもカメラを持っていたから間違えられたことがあります。

―― 佐藤さんのことを私服警官だと思った?

 そう。鉄パイプを持った5、6人のスパニッシュに追いかけられました。若いからバーッと走って逃げたけれども、相手が先回りして散っていくのが見えるんだ。しょうがないからピザ屋に飛び込んで、カウンターの下で震えていました。窓の外では、鉄パイプを持ったスパニッシュが走っていく。

―― お聞きしているだけで震えます。

 でも、平和なマンハッタンはちっとも面白くないですよ。変なヤツがたくさんいないと。その後しばらくしたらディズニーランドみたいになってしまって、全然面白くないんだ。

◆コニーアイランドにて “REQUIEM WORLD TRADE CENTER” より

―― 当時佐藤さんは、ニューヨークの「吉兆」でアルバイトをされていたんですよね?

 あの頃ぼくは、昼は写真を撮って、夜は皿洗いをしていました。最初は「吉兆」にいて、その後「東京スキヤキハウス」という所に移りました。そこはウェイターで雇ってくれたんです。
そこに天ぷらを揚げている日本人のおじいさんがいたんだけど、彼は大正時代、日本人が初めて外国に自由に行けるようになった時に、貨物船の船員をしていたの。貨物船がサンフランシスコに寄った時に、逃げたって言うんだよ。だから国籍がない。住む所もハーレム。ハーレムは身元を明かさずにひっそりと住める所だったから。
 そういう人が身近にいました。ところがね、彼が毎週お金を稼いでくるのを知っている黒人たちが、家賃の分だけを残して、ほとんど取ってしまうんだ。彼も「どうせ取られてしまうから」と言って、取られる前に一生懸命使ってしまうのね。かわいそうだったよ。

(佐藤さんのニューヨーク話はあまりに面白いので次回に回し、ここで「ロンサム・カウボーイふたたび」と、片岡義男さんとの関係に話を戻します)

作家・片岡義男との接点はやはり波乗り

―― 片岡さんとの最初の出会いは、どんなものだったんですか?

ニューヨークでうろうろ写真を撮っていた時に、電柱にとってもきれいなポスターが貼ってあったんです。『エンドレス・サマー』という映画のポスターでした。当時、ニューヨークではロングランだったのね(邦題は『終りなき夏』)。

―― サーフィンの映画ですね。片岡さんがその映画についてしばしば書かれています。

 上映していたのは、グリニッジ・ヴィレッジにあったブリーカー・ストリート・シネマ(※1991年に閉鎖したもよう)。そこは黒澤映画を全部やっていたから、ぼくもよく観に行っていた映画館でした。ちょうどイスラエルとエジプトの戦争があって、イスラエル側のヒーローだった「片目のダヤン」ことダヤン国防相のポスターがすごく売れていた時期です。それと『エンドレス・サマー』のポスターと両方あって、ぼくはエンドレス・サマーの方に惹かれて、映画を観に行きました。ニューヨークでホームレスばかり撮っていたから、こういう世界もあるものかと思ったんだね。
 その時はそれで終わったんだけど、ニューヨークから帰る時に、ハワイに寄ったんです。そうしたら、波乗りのいい写真があるんだ。それで映画を思い出した。こんなのを撮ったら気持ちいいだろうなと思いながら、日本に帰ってきました。それからハワイで仕事がある度に、撮り始めたんです。それを雑誌に投稿したり。

―― 雑誌『POPEYE』の初期のサーフィン写真はほとんど佐藤さんでしたよね。

 そう。それで片岡さんも、ぼくが波乗りを撮っていることを知ったんだろうね。ある日電話がかかってきました。「仕事をしませんか」と。お会いしたら、片岡さんは「ハワイに、一緒に行ってくれませんか」とおっしゃった。

―― それで一緒に取材にいらしたんですね?

 ところがね、片岡さんは、その取材には行かなかったの。編集者はカンカンになっていたけど(笑)。なにか事情があったようです。その時ぼくが撮ってきた写真に片岡さんが文章を書いて、そこからぼくたちはお付き合いするようになりました。

―― 片岡さんの本が80年代から、角川文庫を中心にたくさん出始めます。佐藤さんの写真もたくさんカバーにありますが、そこで使わせてほしいという話になったのですか?

 そういう時代でしたね。波乗りの雑誌の創刊にもずいぶん立ち会っていて、ハワイの写真が増えていった頃です。『POPEYE』や『BRUTUS』でもハワイ特集をやっていました。『Fine』という雑誌もあったね。創刊編集長が「佐藤さん、今サーフィンてどう?」と聞くから、「これから盛んになるよ」と答え、それで最初のテーマをサーフィンに決めたみたいです。あの頃は毎年、11月の末から12月いっぱい、お正月明けぐらいまでハワイに行ってました。

(サーフィンの話もまたすこぶる面白いので、これも次回に送ります)

―― 人づてに、片岡さんの写真の師匠は佐藤さんであると聞いたことがあります。実際に手取り足取り、ということがあったのでしょうか?

 あくまで気持ちの上ででしょう。お互いにね。ぼくは片岡さんのことを心の師匠だと言っています。でも、ぼくが撮っている背中は見ていたかもしれないね。それくらいかな。手取り足取りだなんて、だいいち、片岡さんが言うことを聞くわけがないでしょう(笑)。

―― (笑)。ずっと気持ちよくお話をうかがってきました。アメリカでの成果はまず当サイトで見せていただきますが、その後、発表の形などはお考えですか?

 写真展もやりたいですし、いろいろなことをやっていきたいです。文章も書くかもしれません。なんでもやりたい気持ちになります。

―― 私たちもめいっぱい期待しています。今日は出発前のお忙しい中、時間をいただきましてありがとうございます。道中、どうかお気をつけて。


誰にだって思い出の風景がある。


『ロンサム・カウボーイふたたび』
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今回載せきれなかったエピソード盛りだくさん!

壮絶な小・中学生時代、ニューヨークで出会う“訳アリ”な人々……。佐藤さんの人柄がにじみ出た絶妙な文体で描かれるバラエティ豊かなエピソードの数々。絶体絶命のピンチから、思わず笑ってしまうシュールな話まで! カメラに興味のない人でも、佐藤さんに興味がわく一冊。

僕はこうしてカメラマンになった
本の雑誌社|定価:本体1,500円+税|221頁


DSC049882017年9月13日
株式会社ボイジャーにて
聞き手/北條一浩
撮影/祝田久

 


2017年10月1日 00:32