連載小説『彼と彼女の信頼関係 午後三時のハイヒール』より6作品を公開(2)
『週刊宝石』(光文社)1992年4月2日号〜1993年1月28日号に掲載された連載小説『彼と彼女の信頼関係 午後三時のハイヒール』からの6作品を本日公開いたしました。
※この連載は後日加筆修正、再編した上で改題され、『花までの距離』(光文社/1993年3月)として刊行されています。前回に引き続き、『花までの距離』に未収録のエピソード、加筆修正される前のオリジナルのエピソードを連載時の形のまま公開いたします。ぜひ両作品併せてお読みください。
美しく晴れた朝、オフィスへ着くとすぐに、彼女は彼に電話をかけた。1日分の仕事をすべて中断させ、海岸へ散歩にいきましょう、と。彼は賛成した。だからいま、ふたりは客の少ない車両のなかで隣り合わせにすわり、笑顔でいた。彼はこの1週間の彼女のことを教えて欲しいと彼女に言った。
「先週の今日、私は下着の店に寄ってから、あなたとの待ち合わせの場所へいったのです」
「きみは泣いていた。下着店の年上の女性に対する恋心が燃え上がりきって、もはやどうにもならずに、きみは泣いていた」
「だから私は、あなたが強く提案してくれたとおり、あのホテルの部屋で泣いた顔を洗って化粧を直し、下着の店へひきかえしました……」
それは私にとって、生まれて初めての性的外泊だった、と造語を交えて語られる彼女の物語に、彼は深く息をついた。
「ふたりの素敵な女性たちは——どちらも相手に自分を見ている。時間のかなたにあるはずの自分を。ひとりは過ぎ去った自分を、そしてもうひとりは……」
(『週刊宝石』1992年7月30日号掲載)
暑い土曜日の午前中、彼のところに彼女からの手紙が届いた。彼女は今、下着店の店長をしている年上の女性とふたりで北海道の別荘へ出かけている。その彼女からのものだ。届いたのは1本のヴィデオ・テープと手紙だった。下着店の年上の女性が、旅行中の彼女を撮影したものだという。
いつもとはまるで異なった彼女を見ることが出来るはずだ、と彼は思った。しかしそのテープを再生して、この部屋で見るのか。嫌だ、それだけは避けたい。しかし、テープに記録されている彼女を見たい気持ちは、たいへんに強い。どうすればよいか、彼は思案した。そして自分の日常ではない場所で、このテープを再生して見ればいいのだ、と結論した。もっとも簡単にはホテルの部屋だと思った彼は、計画を作り、最上階にプールのあるホテルにツインの部屋を予約した。そしてその部屋でヴィデオ・テープを再生した。そこには、朝食を食べながら、カメラには写っていない、テーブルの向こう側にいる年上の恋人にむかって何かを喋っている彼女がいた。
(『週刊宝石』1992年9月3日号掲載)
午後5時前に彼女から電話があった。彼は彼女の声を17日ぶりに聞いた。
「私です」というひと言を耳のなかに受けとめて、安堵感が全身にしみわたるのを、彼は感じた。そして、彼女が自分に対して持っている影響力の大きさを、そのとき彼はあらためて自覚した。
「迎えにいくよ。夕食をぜひともいっしょに」
「うれしいです」
空港で自分を迎えてくれた彼に、彼女は聞いた。
「私はいつもの私ですか」
「確かに、まちがいなく、きみだ」
「私と彼女は、彼女の別荘でずっといっしょでした。ひとまわり年齢の離れた、ふたりの女性のレズビアニズムを実践してきました。私との性的な恋愛関係における彼女をひと言で表現するなら、オート・エロティシズムの、見事なまでの一例です」
「きみと彼女と、当事者はふたりいるのに、なぜオート・エロティシズムなのだろうか」
「私を相手にしながらも、彼女はじつは自分と性愛しているからです……」
(『週刊宝石』1992年9月10日号掲載)
「四十年ほどまえの日本がまだ少しは残っているところを歩き回り、心のなかにそれを焼きつけて来たいのです」
そう電話で彼に告げた彼女は、夏休みを取って沖縄へ飛んだ。彼の夏休みもまだ続いていた。予定らしいものはなにもないが、唯一の課題は、北海道のおみやげと称して彼女がくれた、一本のヴィデオ・テープだった。それは、別荘である夜、彼女が年上の恋人の女性との性的な饗宴の果てに、その恋人を彼女が撮影したものだ。今度も、どこか別の場所で、なんらかの状況を作った上で、そのテープを見るべきだと、彼は自分で自分に課題を与えた。
ある日の夜、彼女としばしば一緒にいくあの町へ行くというアイデアを思いついた彼は、翌日新幹線でその町へ向かう。うまくいけば晩夏光を体験することが出来るかもしれない、という期待とともに……。
(『週刊宝石』1992年9月17日号掲載)
「私はヨーロッパへいくことになります」と彼女は言った。
「サルヴァドール・ダリのアトリエが、いまでは廃屋同然で放置されているのですって。それを元通りに修復する仕事が、来年の冬からスタートします。その仕事に私は参加します」
彼女は下着店の店長の女性と、来年の夏まで四季のひとめぐりを恋人同士として体験する約束があり、それを遂行してから渡欧するという。その彼女に、彼は同行することを告げた。
「私は自分の世界へあなたを無理にまきこんではいないかしら」
「喜んで、積極的に、自ら切望して、僕はきみの世界にまきこまれていたい。どこまでまきこまれても、そこには無理などなにひとつない」
そして彼女は、夏休みに沖縄へ飛んだ理由と、そこで得たものを彼に語る。下着店の店長をしている年上の女性は沖縄の出身だという。
「彼女という素敵な人の土台を作った、三十年ほど前の日本というものを、私は見たいと思ったのです。視覚をとおして感じる雰囲気や情景だけでよければ、沖縄とその周辺の島へいけば、まだ断片的に昔の日本を見ることが出来ると、彼女は教えてくれたの。ですから、それを見たくて、私は沖縄へいきました」
(『週刊宝石』1992年10月22日号掲載)
毎年、10月から12月にかけて、次の年の手帳を何冊も買いこむのが、彼女にとっての恒例の趣味だった。自分の好きなデザインと質感を持った手帳を何冊も買い集めるのは、彼女にとってはたいへんに楽しいことだった。どのページにも書きこみはまだされておらず、白い空白のページは美しく端正だ。どのページの日も、まだ来てはいない、つまりこれから来るはずの、輝かしい未来の日々だ。日付を見ながら、この日は自分はどこでなにをしているだろうか。その想像を広げていこうとしたところへ彼が現れた。
「好かれて困ったときの話を聞かせて。あなたから見て異性、つまり女性から好かれて、そのことであなたがたいへん困ったという体験です」
「14歳のとき。同じ年齢の少女に、なぜだか僕はひどく好かれてしまった。……彼女は、なんでも知りたがり、僕のすべてを自分だけのものにしようとしていた。……それは思いがけないかたちで、解決に導いていくことが出来た」
「どんなふうに?」
「僕には妹がひとりいる。ひとつだけ年下なんだよ。僕が十四歳の頃には、妹は僕よりいくつか年上の、しっかり者の美少女のお姉さんに見えていたし、実質的にもそのとおりだった」
「妹さんがお姉さんをしてくれていたのだわ」
(『週刊宝石』1992年12月3日号掲載)
2024年3月1日 00:00 | 電子化計画