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エッセイ『坊やはこうして作家になる』より9作品を公開

エッセイ『坊やはこうして作家になる』(水魚書房/2000年)からの9作品を本日公開しました。

僕がまだ子供だった頃、たとえば七歳から十歳、あるいはせいぜい十二歳くらいまでの期間のなかから、僕が記憶している範囲内で架空の人と現実の人をひとり、選び出してみると面白いのではないか、とふと思った。そのふたりの人を通して、何かが見えるのではないか、というようなことだ。怪人二十面相、明智小五郎、小林少年、多羅尾伴内など、名前を知識として知っている人はいる。読みたいと思わなかったから、読んでいない。ただし、ひとりだけ例外がいる。江戸川乱歩が『少年クラブ』という雑誌に連載した青銅の魔人という、架空の人だ。現実の人のほうは、小学校の先生だ。当時はまだ戦後の混乱期で、小学校では先生たちの異動が激しく、彼がなにの先生だったのかも僕は知らない。初夏のある日から秋の日まで、彼は僕にとっては号令をかける先生だった。

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僕が大学の四年生だった頃、夏休みまでに卒業後の就職先が決定するか、あるいは内定を取りつける学生が、たくさんいた。それまではいつも遊んでいた連中が、ある日を境にして、就職に対して大変な熱意と執着とを見せるようになった。大学を卒業するのが仮に三月三十一日だとすると、次の日の四月一日からは、どこかの社員として会社へ通勤するという日程が、彼ら同級生たちの頭のなかで完全に凝固し確定していることに、ほどなく僕は気づいた。大学のあと会社に入ることを、かくも疑いなくしかも固く決定している彼らは、いったいなにを考えているのか、僕にはよくわからなかった。いまでも、わかりきれていないところがある。あるときふと、同級生の一人が「ところで、お前はどうした?」と訊いた。僕が就職活動を一切何もしていないことを知った彼は、ひとしきり驚いた。驚きはやがて怒りへと変化し、「そんなことでどうするつもりだ」と、彼は僕を叱った。

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平成十年の年末、ある新聞の見出しのひとつは、「新卒者に春遠く」と言っていた。まだ就職先がきまっていない大学生が十三万人もいると、その記事は伝えていた。年末になっても内定のまだ取れていない大学生たちがたくさんいる現実の背景には、「大卒の若者の就職すら難しい不況の実態」があるのだそうだ。平成十一年一月なかば、別の新聞記事では、「厳寒就職 大卒内定八十パーセント 女子大五十パーセント 高卒も低迷」と、見出しが言っていた。厳寒、つまり厳しい寒さだ。日本の新聞記事、特にその見出しのなかでは、ごくわかりやすい花鳥風月の世界が、いまも生きている。社会は俳諧の世界だ。歳時記だ。春遠しとか、いまだ厳寒なり、という言いかたが真に成立するのは、今年の新卒者十人のうち、昨年じゅうに就職先の確定している人がようやく三人、というような数字である場合ではないか。十人のうち八人までが内定していながら、春いまだ遠い厳寒とは、いったいどのくらい暖かなら気がすむのか。

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「彼は俺と同期なのよ。どんな話をしても話はぱっと通じて、盛り上がってさあ。……こないだなんか、俺の左右に座ったのがふたりとも俺より五つ下で、正面に座ったのも五つ下だったから、これには参った。話がまったく通じない。嚙み合わなくて。……」平成十一年、春先のある日、夜の電車の中でふと聞こえた、四十代前半の絵に描いたような日本の男性サラリーマンの台詞だ。同期どうしの話が楽に通じるときの土台は、同じ時期に同じように体験した、あれも知ってるこれも知ってると、つき合わせて確認ごっこを楽しむ過去の断片だ。その上に、世代を越えて自己を語りつつ人の話も正しく聞くというような能力を求めても、それは無理や無駄というものだ。そのような能力こそを、日本の戦後の教育は、初等から高等まで全域にわたって、徹底的に排除し無視してきた。

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日本がアメリカと戦争をしていた頃。敗退した日本軍の遺品や遺留品が戦場に残り、その中に日本兵たちの日記が大量にあった。アメリカ人の専任担当者が何冊もの日記を読み進むうちに、これら日記に共通する大きな特徴があることに気づく。そのひとつは、戦場へ来るまでの日本兵たちが戦争の大義名分を日記に書いていることだ。もうひとつの特徴は、日本兵たちが毎日の天気を日記の中に記載していることだ。天気は彼ら日本兵たちにとっては、何か極めて大事なものであるらしいと、そのアメリカ人は興味深く思う。……以上のような話を、かつて僕はどこかで読んだ。兵士たちの日記や手紙は一旦敵に渡ったならば、作戦や兵力の質と量、作戦の展開などに関する貴重な情報源となり得るため、アメリカでは厳重に禁止されていた。だが日本兵たちは日記をつけた。日記をつけることは、軍隊内で正式に奨励されていたようだ。心情を日記のなかに吐露するとともに、彼らは天気に執着し、そのことについても日記の中に書き残した。

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ロシアがまだソ連だった頃、当時の首相ミハイル・ゴルバチョフが日本を訪問した。アメリカのCBSの『イーヴニング・ニュース』という番組では、ゴルバチョフの訪日をテーマにして短いレポートを放映した。そのひとつに、ゴルバチョフは日本へお金をもらいに来た、というテーマがあった。日本の大企業の要職にあるとおぼしきひとりの日本人中年男性が記者のインタヴューを受けた。その質問の中で、自分が思っていることを相手が言ってくれた、と受け止めた日本人男性は得意の頂点に達した。そしてその頂点で、「ノー」とひとこと言った。このような場合、日本人英語の人なら「イエス」となるのが普通だが、彼は反射的に正しく「ノー」と言った。その限りではたいへんにめでたい。しかしインタヴューした記者は、このひと言を引き出すために、最初から計算していたのだろう。「ノー」のひと言だけという表現は、最終的で決定的な態度の表明だ。どんな表現にも、ともなうべき文脈というものがある。「ノー」と言いきるからには、それを支えるだけの膨大な論理が必要だ。

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筆舌につくしがたい、という言いかたがある。筆とは書き言葉、そして舌は喋り言葉だ。たとえば苦難を受けたとして、それがどちらの言葉によってもとうてい言い表すことが出来ないほどに大きいことを、ごく簡単に言っておくための紋切り型だ。言葉では言い表せないほどのものが、人間の世界にあるだろうか。言葉にならないのは、言葉で言いあらわすトレーニングが自分には欠けているだけなのではないか。これはかなわないと見るや、とうてい言葉では言いあらわせないものとして、自分とは明らかに別世界のものとして、自分からほどよく離れた場所に、まるで預けるかのように、置いてしまうのではないか。「言葉でどう言いあらわせばいいのか、私は知らない」という紋切り型の言い方が、英語にもある。しかしこれらは、言葉で言い表すことを、早々と諦めて預けてしまった態度の表明とは、質が異なるのではないか。

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なにかひと言、と相手からひと言を引き出したがる人は多い。全体を正確に俯瞰した結果の、冷静で客観的な言葉ではなく、その場の閃きでぱっとひとつかみにして相手にあたえるごく短い言葉は、短くはあっても含みのある言葉でなくてはならない。受けとめた側が、自分の好きなように解釈することの可能な短い言葉なら、それは含みの深い言葉となり得る。こういったひと言のもっとも陳腐な具体例は、色紙に書く短い言葉だ。日本人の好きなひと言主義とは、主語も時間も面倒くさいから、指先でつまむことの出来る小さな粒にしてくれ、そしたらそれを受けとめてやる、というようなことなのだろうか。かつてたいへんに盛んで、今はすっかりどこかへ消えた広告コピーというものは、日本人の大好きなひと言主義に、この上なく対応したものだったと言っていい。

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ある雑誌に「漢字とかな どう使いわけるか?」という特集があり、僕もそのなかのひとりとして「ルールはたくさんあり、列挙していくとかなりの数になると思う」と書いている。これはそのとき書いている文章の質や目的に合わせて、いろんなふうにルールを使いわける、という意味だ。(印刷されたものに)漢字が多いか少ないかは、僕の場合はその文章の質や目的によって異なるから、一般論は成立しない。しかし基本的なルールは持っている。そのルールを作るためには、漢字というものの性質をよく知っているに越したことはない。漢字による言葉は、ある程度以上の教育や訓練を受けた人にとっては、ぱっと見たそのひと目で何のことだかわかる、という側面を非常に強く持っている。真の理解は実はほとんど行われていなくても、字を見て何のことだか一瞬で納得させてその先へと進めさせるという、絶大な機能を漢字言葉は持っている。漢字言葉のこのような機能と、日常的になんの苦労もなしにつきあえるまでにならないと、日本ではまず言葉で苦労することになる。

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(以上9作品『坊やはこうして作家になる』(水魚書房/2000年)より)

2023年7月11日 00:00 | 電子化計画

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