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エッセイ『移民の子の旅』5作品(第2回〜6回)を公開。

『ミステリマガジン』(早川書房)に1975〜76年にわたって連載された『移民の子の旅』から5作品を本日公開しました。なお、『移民の子の旅』の連載第1回、『移民の子の旅 ホノルル、一八六八年』は「エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」にも収められています。

 1840年代、オホーツク、ベーリング両海域では捕鯨が盛んに行われていた。北アメリカ西海岸から鯨をとりに海へ出ていく捕鯨船の、太平洋での唯一の基地になったのがハワイ諸島だった。年間平均400隻の捕鯨船が来航し、港はたいへんな賑わいだった。しかし1859年、アメリカで石油が発見されると、鯨の油は旧時代の遺物となり捕鯨船も来なくなり、当時のハワイ王国の経済は行き詰まってしまった。この状況を打開すべく模索の末残ったのが砂糖キビの栽培だったが、製糖業の発展と共に労働量が不足してきた。そこで目をつけたのが中国人、そして日本人だった。その頃明治維新を迎えたばかりの日本は政府の方針が定まらず、渡航許可が下りなかった。そのため、1868年5月16日、密出国の形で153名を乗せて船は出発。1ヶ月かけてホノルル港に入港した。

(『ミステリマガジン』1975年9月号掲載)

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 1868年、砂糖キビ畑で働くべく最初にハワイへ渡った153名の日本人は、必ずしも農業経験者だけではなかった。彼らはオアフ島やマウイ島など各地のプランテーションに配置されたが、それらを経営するのは白人たちであり、その下で現地のハワイアンたちが実質的に日本から来た労働者を管理した。厳しい労働に「契約とまるでちがう」という声が日本人たちのあいだからすぐに上がり、管理者を相手に絶えず小さないざこざが起こり、暑さと失望とで自殺するものまで出た。移民たちのリーダーであった牧野富三郎は、日本政府に自分たちの現状を訴える手紙を送り、救出の嘆願書も何度も書いている。日本政府は公使として上野敬介を送り込み、交渉に当たらせた。その結果、ハワイ政府とのあいだに、日本人労働者の労働条件の改正に関する細かく具体的な取り決めに調印ができ、日本人労働者たちは日本政府によって公認されたハワイ初の移民としての立場を手に入れた。

(『ミステリマガジン』1975年10月号掲載)

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 ハワイ諸島には紀元1000年頃にはかなり多くの人が住み着いていたという。彼らはどこから来たのか……。元を辿れば今でいう「東南アジア」の人たちだ、というのが定説になっている。最近の考古学的な発見によると、ハワイにまずはじめにやってきたポリネシアンは、マルケサス諸島からの人々だったという。このあと、タヒチから人々がハワイにむかっているのだ。
 ハワイの島々にできあがっていった社会は、厳格なカースト制度にもとづく、奇妙にタブー(現地語ではカプー。「掟」の意)の多い社会だった。人々は、「モイ」「アリイ」「カフナ」「マカアイナナ」「カウア」という五つの階層に分かれており、厳密な区分が永久にあった。そして王や酋長たち、そして神々に対して、平民たちは深い義務感を感じていた。しかし1877年、キャプテン・クックによってこのハワイの島々が発見されることによって、神々へのタブーがひとつずつなくなっていくという新たな歴史がはじまることになったのだ。

(『ミステリマガジン』1975年11月号掲載)

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 ジェームズ・クックが、ハワイの島々を見つけたのは、ヨーロッパにとっての太平洋探険時代の終り近くだった。少なくとも当時のヨーロッパ人たちにとっては、太平洋を探険するということは、実に大変なことだったのだ。
クックが最初にハワイ諸島を見つけた1778年1月も、2度目にマウイ島の沖にあらわれた翌年の11月も、島では、マカヒキというお祭りのシーズンの最中だった。マカヒキの季節は、租税が徴収される季節でもあった。収穫のあと、人々は体を休め、大地が食糧その他を産み出してくれたことを祝い、運動競技やお祭りで過ごす季節なのだ。このマカヒキの季節をつかさどる神は「ロノ」と呼ばれていた。酋長たちが租税を生産物で取り立て、平民がお祭りを楽しんでいる間はずっと、ロノの神を象徴するのぼりのようなものが、村々を担がれて回っていく。こののぼりが、クックの乗ってきた艦の帆を正面から見たときとよく似ていた。1778年の1月にクックたちがあらわれ、11月にまた姿を見せるまでの間に、ハワイの人たちは、あの二隻の船に乗った人たちはロノにちがいない、という結論を出していたのではないのか。

(『ミステリマガジン』1975年12月号掲載)

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 ハワイ島の強力なアリイだったカラニオプウが1782年に没し、当時すでに三十歳くらいだった甥のカメハメハがその後を継いだ。ハワイ島には、カメハメハも含め強力なアリイが四名残り、勢力争いを続けた。この頃、ハワイ諸島は船どうしが落ちあったり食糧や水を補給したりするところになったが、アリイたちは自身の勢力をのばすため、港の使用許可や食料などの補充と引き換えに欧米からの船を自身の戦力として使おうとした。
 ハワイ諸島を統一した島々を治め、平時の政治・経済のシステムを作り出した。19世紀になると技術を持ったお抱えの外国人だけでなく、ハワイに住み着く外国人も増え、ハワイ固有のものと、アメリカやヨーロッパからのまったく異質なものとが、ホノルルで不思議にまじりあいはじめた。同時に外国の文明にすこしずつ影響されつつ、自分たちの文明を照応させながら、ハワイの人たちは自らがカプー(掟)を小さなかたちで犯しつづけていたのではないだろうか。1819年にはカプーの制度は廃止された。

(『ミステリマガジン』1976年1月号掲載)

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2023年6月20日 00:00 | 電子化計画

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