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エッセイ「アーバン・カウボーイとすれ違った男」から10作品を公開

エッセイ「アーバン・カウボーイとすれ違った男」(小学館『GORO』/1981年2月〜1982年5月連載)からの10作品を本日公開いたしました。

ある日の昼さがり、ぼくの親友のひとりが、東京・神保町のコーヒー・ショップで、知人と話をしていた。その親友は、しばらく前から、ごく軽症の居心地の悪さのようなものを感じていた。すこし離れた席に、ひと目で大学生とわかる青年たち数人だかが座っており、しきりに親友のほうに視線をむけていたからだ。やがてそのグループの1人が親友のもとに歩み寄り「カタオカ・ヨシオさんでしょう、サインして頂けますか」と買ってきたばかりの単行本を差し出した。親友は「ぼくはカタオカ・ヨシオではない」と言って断るのだが……。

(『GORO』 1981年2月12日号掲載

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たった今、ぼくは上天重というものを食べてきた。ぼくのとなりの席で、初老のご夫婦がさしむかいで食事をしていた。さしみの盛り合わせの皿をまんなかにおき、それを共同でつつきながら、ふたりともおなじ定食を食べていた。この面白いご夫婦を見ていて、天丼が大好きだったアメリカ人の友人を思い出した。彼は天丼を頼んだが、その天丼のエビに尻尾から食らいついた。ぼくの観察し得た範囲では、天丼のエビを尻尾から食べた人は皆無だ。そこには、経験の浅さや不器用さではなく、ものの考え方からくるぎこちなさがあった。

(『GORO』 1981年2月26日号掲載

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時間の経過とともに、ぼくたちはいろんなことを忘れていく。一時触れあってはいても、あるときを境にして接触のチャンスがなくなったりしたものは、いつのまにかたいてい忘れてしまっている。というよりも、記憶という深い海の底のほうに、深海潜航艇のように沈んだままじっとしている、と言ったほうがいいだろうか。コーヒーショップでの知人の一言から突然蘇ったのは、冷えた味噌汁だった。冷えたミソ汁の、このうまさは、ただ単に味覚上の出来事ではない。味覚上の出来事をはるかに超えた、非常に素晴らしい何ごとかである。

(『GORO』 1981年3月12日号掲載

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はじめてカレーライスを食べたのは、小学1年か2年の頃だった。当時はライスカレーと呼んでいた。印象は、どちらかと言えばうまいものであった。自宅以外のところでカレーライスを食べるとき、注文したものが運ばれてくるのを待ちながら、この最初のライスカレーのことをふと思い出すことが、ごくたまに、ある。ぼくにとってのカレーライスの原点なのだろうか。きっとそうにちがいない。その色は真っ黄色だったが、濃い茶色に変わっていった頃から、呼び名もカレーライスに変わったのではないだろうか。

(『GORO』 1981年3月26日号掲載

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FM番組のDJが8年目に入った頃、雑誌編集者にDJのことについて聞かれた。「八年やってて、なにか発見はありましたか」「ずっと以前からあいまいにわかってはいたのですが、ぼくは人を笑わせるのが好きだということが確認できました」
とりとめのない話が続くのにさすがに気の毒になったぼくは、自分のDJぶりについての最高に傑作な話をいくつかした。それを聞いた編集者の反応は……。

(『GORO』 1981年4月9日号掲載

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高校生の頃、ぼくは、ソフトボールをよくやった。かなり変ったやり方だと思うが、春から夏休みのまえまで、そして夏休みが終ってすこしたった頃から学園祭のはじまるまでくらいが、ソフトボールのシーズンだった。朝、オートバイで学校へ行き、始業のチャイムとともに学校を出て、風まかせにどこかで出かける。東京・世田谷で自宅から高校までオートバイで走って、対向車と1台もすれ違わないことがしばしばあったという時代だ。午後、学校へ戻ると、アトム・パンツを履きソフトボールをこれからやろうという女の子たちの2チームが集まっている。その両方のチームに請われてピッチャーをするのだ。

(『GORO』 1981年4月23日号掲載

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自分の好きな歌とはじめて触れ合ったときの状況を、いろんな歌に即して思い出し、考えていくと、かなり面白い。好きな歌との巡り合いは、不思議な要素をたくさんはらんでいる。思い出の歌、というテーマで文章を考えていて、『天使の誘惑』という歌を、ふと思い出した。歌っていたのは、当時流行したミニ・スカートのよく似合った、黛ジュンという歌手だった。この歌をぼくが知ることになったきっかけは、詳しく書けば書くほど、メロドラマだ。そのはじまりは、夜中にかかってきた友人からの電話だった……。

(『GORO』 1981年5月14日号掲載

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どさっとひとかかえの郵便物が手もとに届くと、ぼくはなぜだか外国からのものを先に手にとり、開封していることに気づく。外国からの郵便物をみんな見てから、すこし間をおいて、国内便にとりかかる。なぜ外国からの手紙や郵便物を先に開封するのか、その理由はとても単純だ。国内便よりも海外からの郵便物の方が封筒も切手もはるかに美しいからだ。『ワンダーランド』という雑誌を作っていた頃、植草甚一さんに「日本の切手はどうしてあんなにきたないんでしょうか」と聞いたことがある。その答を、植草さんらしい言葉のひとつとして、ぼくは今でも鮮明に覚えている。

(『GORO』 1981年5月28日号掲載

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小学校へ入学した日は、寒くて風が強い日だった。はじめて小学校へいこうとしているぼくに、母親がついてくるという。これに、ぼくは、ひどく腹を立てた。こなくていい、くるな、とぼくは言った。しかし、母親は、ついていくという。子供心にも正装とうつる和服を着こんだ母親には、なにかいそいそとしたような、妙な雰囲気があった。なぜこんなに腹を立てたのかは、いまだによくわからない。冷たい風に吹かれつつ1人で道を歩いてきたぼくの目に、校庭のむこうにいちだんと高く重厚に建っている校舎が見えてきた。ぼくは、反射的に、NO!(ノー)と思った。

(『GORO』 1981年6月11日号掲載

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個人的な記憶のなかに、「まるで昨日のようにはっきり思い出すこと」があるかどうか、探してみた。十数年前の四月一日、ぼくは、新入社員として会社に出社すべく、朝の七時ごろ、自宅を出た。6時間ぐっすり寝たはずなのに、想像を絶して非常に眠かった。なぜあんなに眠かったのだろう。今、ぼくがどこかの会社に就職できたとして、初めてその会社に出社するとしたら、その日の朝も同じように眠いだろうか。やってみなければわからないが、ほぼおなじような眠さを体験できそうな気がする。

(『GORO』 1981年6月25日号掲載

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2023年4月11日 00:00 | 電子化計画

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