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「真珠湾 この日を忘れない」

81年前の1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイ・真珠湾を奇襲、太平洋戦争の火蓋が切られました。
1939年生まれの片岡義男は3歳の時に、東京から祖父の住む山口県岩国市に家族で疎開をしています。その祖父は明治30年代に日本からハワイへ渡った日系1世、父親はハワイ生まれの日系2世であり、片岡自身この戦争ともハワイとも無縁ではありません。ここでは片岡義男ドットコムで公開中のエッセイと評論の中から、真珠湾攻撃と太平洋戦争について書かれた7作品をご紹介します。

1)「チャタヌーガ・チューチュー」

日本軍によるハワイ・オアフ島の真珠湾攻撃は、日本時間の1941年12月8日午前3時19分に実行されました。現地時間では午前7時49分。いつもと変わらぬ朝のひとときを過ごしていた市民の中に、「戦争」という現実が入ってきた瞬間を描きます。

『アップル・サイダーと彼女』より

2)『ハワイ・マレー沖海戦』一九四二年(昭和十七年)

1941年12月8日、真珠湾攻撃と時を同じくして行われた「マレー作戦」。『ハワイ・マレー沖海戦』はこの2つの作戦を描いた映画で、当時大ヒットしました。観客のなかにあったのは、肝を据えておのれを無として体ごとぶつかれば、ほら、勝ってるじゃないか、という主観だけだったと片岡義男は書きます。

『映画を書く──日本映画の原風景』より

3)「大変なときに生まれたね」

1975年夏、片岡義男はFM番組のインタビューで作家の横溝正史さんの別荘を訪れます。「大変なときに生まれたね」はその際に横溝さんから発せられた言葉です。当時の食料事情を時系列で辿りながら、いかに「大変」な時代であったかを追体験していきます。

『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』より

4)「あのときの日本といまのこの日本」

アメリカという国の持つ特質のひとつは「『観念』を『現実』へと転換し、目標達成のため前進する」こと。日米戦争での日本本土への空襲、原爆投下もその産物でした。このエッセイでは戦後の日本の民主化改革から湾岸戦争までの期間における、アメリカの「観念を現実に転換する」という特質について考察します。

『自分と自分以外──戦後60年と今』より

5)真珠湾をバックに『トラ・トラ・トラ』を観た夜

ハワイの真珠湾攻撃を描いた1970年のアメリカ映画『トラ・トラ・トラ!』。公開当時、片岡義男はこの映画を真珠湾を望むホノルルのドライブイン・シアターで観ていました。その時の体験記です。

『町からはじめて、旅へ』より

6)「広島の真珠」

広島に原子爆弾が投下されたのは真珠湾攻撃の4年後でした。真珠湾と広島、この2つの爆撃について取り上げたアメリカのTVニュース番組を題材に、日本のTVニュースとも比較しながら民主主義について考察します。

『坊やはこうして作家になる』より

7)「真珠湾」よりも大切なこと

真珠湾は現在もある事実をはっきりと教えています。それは、さまざまな利害が複雑に絡みあう国際関係の中で、どの国も自国の利益を最優先させるためには、いかに冷酷非情な手段であっても当然のことのように採択する、という事実です。そんな環境の中で日本に真に必要なものとは……。真珠湾攻撃から50年目に書かれたエッセイです。

『Bart』(特集「日米開戦から50年 僕たちのパールハーバー」)より

2022年12月2日 17:01 | 片岡ニュース