特集 「波乗りとは 最終的には 心の状態だ」 片岡義男のサーフィン・エッセイ
2024年7月12日(金)より、映画『エンドレス・サマー』のデジタルリマスター版が全国で上映されます。「サーフムービーの原点にして最高傑作」とも言われるドキュメンタリー映画で、アメリカでは1966年5月に公開。世界中で上映され数々の興行記録を塗り替えた、史上最も有名なサーフィン映画といってもよいでしょう。片岡義男はこの映画を西海岸のハンティントン・ビーチのサーフ映画専門の映画館で観ています。サーフィンについては「面白そうな水上スポーツがあるな」程度の認識しか持っていなかった片岡は「世の中にはこういう世界があったのだ」とサーフィンへの認識を新たにし、その後ハワイや東京でこの映画を何度も観たといいます。
『白い波の荒野へ』(1974)など、日本のサーフィン小説の草分け的存在のひとりとも言われる片岡義男ですが、映画『エンドレス・サマー』やその監督であるブルース・ブラウン、サーフィンの歴史から波についての科学まで、サーフィンに関する様々なエッセイも書いています。その多くは作家活動初期の1970年代に書かれていますが、これらの作品に影響を受けてサーフィンを始めた若者は日本には多数いるとも言われています。
この特集では、片岡義男のサーフィンに関するエッセイを『エンドレス・サマー』関連の作品を中心にいくつかご紹介します。
1)「波が君を変える! あるいはサーファーになるということ」
雑誌『宝島』1975年9月号に掲載された、片岡義男が映画『エンドレス・サマー』について書いたエッセイです。彼がサーフィンについて書いた中ではおそらく最初期のものですが、片岡義男にとってこの映画の感動は、幼い頃に「瀬戸内の明るい海と砂浜」で過ごした原体験に直接繋がっているといいます。その後ハワイや東京でもこの映画を観て、ハワイだけでなくサモア、フィージー、ニュージーランドなどの海を実際に見て回ったことも書かれており、それが後年小説『白い波の荒野へ』の執筆へと結実したことが窺えます。
(初出『宝島』1975年9月号/『町からはじめて、旅へ』晶文社 2015年改版[1976年初版]所収)
2)「サーフ・バムは樹の上で寝た」
『エンドレス・サマー』の監督であるブルース・ブラウンが、いかにしてこの映画を撮ったのか、その足跡をたどったエッセイです。ブルースは海軍除隊後、ハワイでサーフィンを8ミリフィルムで撮る研究を積み重ねていました。両親によってアメリカ本土に呼び戻され通った大学も第1学期目にドロップ・アウト。やがて友人のサーファーたちと旅をしながら波を追い、16ミリフィルムで撮影を重ね、やがて1時間半の作品『エンドレス・サマー』を完成させます。
(初出『宝島』1976年9月号/『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
3)「サンタモニカの黄金の日々」
『エンドレス・サマー』が商業映画として通用することを証明するため、ブルース・ブラウンたちは冬の最中に海のないカンザス州の映画館を借り切って公開。その結果、思いがけない収益をもたらしますが、プロには偶然だと冷たくあしらわれたため、ニューヨークでの公開を計画、それが全世界での公開へと繋がっていきます。一方、それ以前の1950年代、サーフィンの第1期黄金時代にサーファーたちを撮った、サーフィン映画の元祖ともいうべき監督にバッド・ブラウンがいました。
(初出『宝島』1976年10月号/『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収
片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年所収)
4)「濡れてます、足元にご注意を」
『スリパリー・ホエン・ウェット』(濡れてます、足元にご注意を)は、ブルース・ブラウンによる最初の波乗り映画です。1959年に制作されたこの映画の音楽には、バド・シャンク率いる4人編成の楽団によるジャズが使われており、当時の映画音楽の常識からいえば、非常識に思えるものでした。しかも壁に映し出される映像を見ながらの即興演奏……。しかしこの組み合わせは、当時最先端ともいえる新しい発想であり、今もその輝きを失っていません。このジャズ音楽の効果とは?
(『音楽を聴く2──映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』
「第一部 ミシシッピー河の鉄橋を列車が渡っていく」東京書籍 2001年所収)
5)「裸足の状態から始めるヴェンチャー」
ブルース・ブラウンの波乗り映画第3作目『裸足の冒険』(1960年)も音楽はバド・シャンク率いるグループが演奏しています。きちんと組み上げられたストーリーはなく、当時のサーフィンとサーファー、あるいは波を次々とスケッチした映像は、ジャズに合うのかもしれません。この映画ではブルースも含め、当時のサーファーたちが自分の一番好きなこと、つまり波乗りに自分たちの時間を存分に使い、工夫をこらし試行錯誤を行いながら新たな地平を開いていったことがわかります。それはまさに、ヴェンチャーそのものなのです。
(『音楽を聴く2──映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』
「第一部 ミシシッピー河の鉄橋を列車が渡っていく」東京書籍 2001年所収)
6)「波乗りとは、最終的には、心の状態だ」
サーフィンについての名言としてつとに有名なこの言葉、このエッセイで使われたのが最初かどうかは不明ですが、サーフィンが単なるスポーツではないことを示す端的な表現として今も多くのサーファーの心に生きています。このエッセイでは、ハワイに大昔から伝わるロ承の中に残るサーフィンに関する言葉をイントロダクションとして、男女差別や格差、制度といったものが何も通用しなかった古代のサーフ・ライフについて語ります。
(片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年所収)
7)「限りなき夏の始まり、一九七〇年代の東京」
片岡義男が『エンドレス・サマー』を東京で見た頃は、まだサーフィンがそれほど普及しておらず、上映は1週間で終わったようです。監督のブルース・ブラウンはのちに『栄光のライダー』(1971)というドキュメンタリー映画を撮りますが、この映画には「感覚がすこしも躍動しなかった」とも。これらの映画を撮った、ブルース・ブラウンとはいかなる人物だったのでしょうか。その生い立ちと、彼のサーフィン感覚がどこから培われたのかを探ります。
(初出『宝島』1976年8月号/『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
8)「サーフは、水分子の回転運動です」
風がまったく吹かなければ、海面は鏡のように平らで波は起こりません。海の波とは一体なにものなのか、なぜ岸に近づくと砕けるのか。砕ける時、波が持っていたエネルギーはどうなるのか……。波が発生するメカニズムやそのスピードやうねりの正体などを、水分子の運動から海底の地形まで含めて科学的に解説した一編です。サーフィンというスポーツが、単なる波乗りではなく、こうした科学的な原理の上に成り立っていることがよくわかります。
(初出『宝島』1976年5月号/『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収)
9)「誰がいちばん初めに波に乗ったのか」
サーフィン自体の起源は実ははっきりとはしておらず、ハワイを含むポリネシア全域で古代から広く普及していたようです。ただ、ハワイではサーフィンは単なる遊びやスポーツではなく生活の一部でもあり、身分や性別に関係なく等しく万人のものであったと言われています。そんなハワイとサーフィンの古(いにしえ)からの関係を、南太平洋の島々にやってきたヨーロッパ人の記録や史実に加え、想像の羽根を広げて綴ったエッセイです。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
10)「遠い昔の日に」
エッセイ『誰がいちばん初めに波に乗ったのか』の中に「ハワイでは、サーフィンは、ほんとうに全員のものだった」とありますが、それでもやはり「アリイ」と呼ばれる酋長階級の方が、時間的にも場所的にも平民よりも有利だったようです。酋長たちにとってはサーフィンの技術はもちろん、乗りこなしの優雅さ、大波に立ち向かう勇気などを平民や他の酋長に見せることは、自身の地位を保つためにも重要なことだったようです。そして、サーフボード。現在のように十分な工具がなかったころは、1本の樹を削りサーフボードを作ることが大変な仕事であったであろうことは容易に想像がつきますが、樹の切り倒し時や完成後の祈祷など宗教的な儀式とも結びついていたようです。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
11)「昔のハワイという時空間への小さな入口」
このエッセイで取り上げられているデューク・カハナモク(デューク・パオア・カヒヌ・モコエ・フリコホラ・カハナモク、1890〜1968)はハワイ・オアフ島生まれのサーファー、水泳選手であり映画俳優。サーフィンというスポーツをアメリカのみならず世界中に普及させた「近代サーフィンの父」でもあり、ハワイの海洋文化を世界に知らしめた人物としても知られています。ワイキキのクヒオ・ビーチには彼の銅像があり、彼の誕生を記念した「デュークス・オーシャン・フェスト」が毎年8月に開催されています。「銅像は見たことがあるけれど、どんな人か知らない」という方もぜひ読んでみてください。
(初出『デューク・カハナモク——幻の世界記録を泳いだ男』(東理夫著 1993年刊)
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
12)「海岸の古びた一軒家で、ソリッドな食事をし煙草を吸わない」
片岡義男本人が小説デビュー作としている『白い波の荒野へ』では、サーフィンの映画を撮る若者たちが登場します。人は何かに魅せられると、そのライフスタイル自体が大きく変わってしまうことがしばしばあります。サーフィンの世界もその例に漏れませんが、そのありようは他者からはまるで禅の修行僧のように見えるかもしれません。そしてまたサーフィン・フィルム(サーフィン映画)も、そのような生活の中から必然的に生まれたもののようです。
(『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年
「片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』」太田出版 1995年所収)
13)「サーフボードのシェーピング」
サーフショプに並ぶ多種多様なボード。でも自分が乗りたい波が決まっていないのに選ぶというのはナンセンスです。また、実際にボードの長さやシェーピングの微妙な変化を、現実のウェーブ・ライディングでの実感として明確に感じわけられるようになるまでには、ものすごい量の体験の蓄積と、その体験を体系の的にひとつの明晰な論理へと結晶させていく努力が必要です。それだけサーフィンは高度に個人的な世界であり、サーフボードも同じように個人的なものなのです。だから本来ならサーファー自身がシェーパーであるのが自然な姿なのかもしれません。
(初出『宝島』1977年9月号/『サーフシティ・ロマンス』晶文社 1978年所収)
14)「ロングボードの宇宙」
ロングボードにまたがって、沖に出て波を待つ。青い空は底なしの宇宙空間。その宇宙空間との接点に、ロングボードにまたがった自分がいる。小さな波をやり過ごすと、それに続いてもっと大きな波がやってくる。次の波を捕まえるため、波のエネルギーという生き物の到着を待ちかまえる……。ロングボードによるサーフィンで、大波の上に立つまでを、片岡義男らしいハードボイルドな文体でダイナミックに、そして緻密に描写したエッセイです。
(『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年所収)
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