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広島の真珠

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 半年だけと期間を区切って、日本のTV各局のニュース番組を録画で可能なかぎり見た、という体験を僕は持っている。TVを見ない僕にとっては、体験と呼ぶにふさわしい出来事だった。TVという経路ごしに、視聴者という不特定多数に向けて、ニュースがどのように語られているかを知るためだ。

 日本のTVのニュース番組には、ふたとおりが存在していることを僕は知った。紋切り型という類型と、内輪の話という類型の、ふたとおりだ。用意された原稿をカメラに向かってひとりで読むだけの場合でも、すべては紋切り型で処理される。紋切り型の言葉が連なった結果、お知らせくらいにはなるかもしれないが、それ以上の内容はなにもない。

 内輪の話という類型の場合には、主役のようなアンカーがセットのまんなかにいる。局のアナウンサーつまりただの会社員だったり単なる司会者のような人だったりする。彼がまんなかにいて進行をとりしきり、その両脇には、若い女性や男性、そしてゲストのコメンテイターなどが、常に何人か配置されている。

 主役が当たり障りなくすべてをとりしきり、とびきりつまらない感想や意見を、脇にいる人たちが述べる。すべての話題は彼らのあいだで交わされる内輪の話として進行していき、視聴者は彼らの話に疑似的に参加する。そのなかの誰かがひとりでニュースを読むときには、その人はふと内輪の話を離れて、見事なまでの紋切り型となる。原稿を読みあげる、という紋切り型だ。

 不特定多数に対して、なにごとかを喋り言葉で語るときのスタイルというものは、日本語の世界では確立されていない。紋切り型というスタイルがあるだけで、それ以外のスタイルはない。内輪の話という類型は、紋切り型を娯楽番組として提示するにあたっての、ヴァリエーションのひとつだ。

 半年で以上のようなことがよくわかった。あらかじめ知っていることを、TVという現状のなかに確認しただけだから、なにがわかっても別にどうということはない。しかし、驚かされたことが、なくはない。一般論として知ってはいても、現状のなかの具体的な出来事のひとつひとつは、僕の想像をはるかに越えているからだ。

 たとえば、耐えがたく寂しく、耐えがたくつらい状況のなかにあり、これでは死んだほうがはるかにましなのではないかといつも思っている人に対して、「寂しくないですか」と、日本のTV記者は平気で質問する。平気を越えて、これは彼らお得意の言葉づかいだ。どんな答えを期待しているのだろうか。はいそうです、寂しいです、つらいですと、もう一度、言わせたいのだろうか。

 ものの言いかたを知らないとか、口のききかたがなってないというような、言語活動がなんの訓練も受けていず、したがって洗練もいっさいされていないから、というような次元を大きく越えて、根はもっと深いところにある。

 TVだけに限らないが、自分たちの仕事の材料として弱者を扱うとき、その弱者が持っている小さな世界へ入り込み、その人だけを、そしてその人の世界だけを、材料として扱う。日本ではごく普通におこなわれることであり、これに対して誰もなんとも思わない。

 このような扱いかたの当然の結果として、取材すればするほど、出口がどこにもなくなり、閉塞感が強まっていく。やりきれない感情が、その番組を見る人のなかに高まる。そしてその感情の高まりきったときが、その番組の終わるときだ。

 こういう問題をアメリカの場合と比較すると、あるひとりの弱者が社会システムという遠近法を離れて、その人ひとりとして取材の対象になるときは、ヒューマン・インタレストという暇ネタに限られる。そして弱者はけっして暇ネタではない。

 いろんな人がいるから、インタレストの多様さにはこと欠かない。どの人もエピソードとして成立する。だからネタにはなるが、社会システムとは切り離され、個々にばらばらになったところで、個々のエピソードとしてのみ成立する。どんな素晴らしいエピソードがあっても、それは暇ネタなのだ。

 社会システムを抜きにして弱者は語れないから、弱者の話題は単なるヒューマン・インタレストにはならない。社会システムという大きな遠近法のなかにきちんと位置づけ、弱者のままに扱う。この弱者にどれだけの不利があるのか。それを可能なかぎり解消するには、どうすればいいのか。解消案はさまざまな具体策として、社会システムのなかでかたちを持ち、機能していく。社会システムという遠近法とは、こういうことだ。

 社会システムとはぜんたいのことだ。そして日本人にとってぜんたいとは、いつだってありありと思い描くことの出来る、そしてまざまざと実感することの可能な世界ではない。説明されればなんとなくわかるようなわからないような、いつまでもぼんやりとしたままの、いっこうに切実でもなんでもない、どこか遠いところだ。

 自分がいつもその身を置いている、ごく狭いけれども具体性に富んだ場の、常に目の前にあるあれやこれやという小さい部分を撫でまわすことによって、自分の気持ちは充足し満足もするという安住地のなかでは、自分と他者とをつなぐネットワークである社会システムなど、まず見えることはない。だからそれは、いつまでたっても、切実なものにはなっていかない。

 自分とはなになのか、はっきりしないままでいっこうに平気な人たちだから、その自分たちの側から社会システムが作られていくということは、まずあり得ない。自分とは、他の人たちとは違う、何者かだ。しかし、自分とは他の人たちとは違う何者かだ、などと呪文のように唱えているだけでは、埒はあかない。

 他の人たちとは違うとは、自分には自分の個性がある、ということだ。その個性が、存分に鍛えられて社会性を獲得すると、社会システムのなかで一定の役割を果たすことが出来るようになる。役割を果たすとは、社会システムのなかに参加することにほかならない。参加するとは、社会システムという公共の価値を、可能なかぎり多くの人たちと分かち合っていこうという態度であり、その態度の維持こそが、公共性という価値を少しずつ作り出す。

 TVの番組のために社会的な弱者が取材されて材料となるとき、アメリカではその弱者の問題はただちに社会システムの問題となる。社会システム抜きで、弱者ひとりが孤立無援で、番組の材料になることはあり得ない。いかなる弱者といえども、社会システムの網の目にひっかかって支えられている、という救済のされかたを持っている。

 しかし日本では、そのような社会システムなどについては、思いはいっさいおよばない地点から、弱者個人のプライベートで小さな内側が、撫でまわされ、つつかれ、覗き込まれる。そこはもともと小さな世界だから、材料はたちまちつきる。つきたときが番組の終わるときであり、気の毒な人という一幕物はそこで完結する。あとに残るのは、どうにも救いがたい種類の、いきどまり感だけだ。

 日本では弱者は完璧に孤立している。社会システムとしてそうなっているのだから、お気の毒、かわいそうなどと言いつつ、弱者についての番組をTVで見る人たちも、おなじように孤立している。あまりにも孤立しているから、出来ることといえばせいぜいが、お気の毒、かわいそうと言いながら、さらにTVを見ることだけだ。

 孤立した自分をかろうじて支えてくれるのは、もっと見たいという欲求と、それに応えてくれる日本のTVだ。かわいそう、お気の毒という決まり文句は、見ることしか出来ない孤立した人たちの、もっと見ずにはいられないからもっと見せろという欲求の、正当化だ。

 社会システムによって支えられることのない日本の弱者は、個人的な不運や不幸として孤立するほかなく、その孤立の様子をTVで見る人たちもまた孤立しているから、不幸や不運は弱者当人とそれを見る人たちのあいだを循環するだけで、そこからの出口はどこにもない。見る人にとって弱者の境遇は、のちほど人と語り合うときの話の種であり、そのような話はたいていの場合、笑いで終わる。

 日本のTVのニュース番組を埋める紋切り型の言葉は、常にたくさんある。であるからには、紋切り型は紋切り型として、なんらかの機能をしているはずだ、と僕は考える。それは日本を如実に映している。単なる姿かたちだけではなく、その本質を。

 たとえば外国の取材現場にいる記者に対して、東京のスタジオのアンカーは、陳腐な概論や浅い総論的なことを、まずひとりで長く喋る。いったいなにを言いたいのかと思っていると、最後にひと言、「どう思いますか」と、漠然と質問する。

 こういう紋切り型は、いったいなになのか。僕は不思議な気持ちになり、やがて不安な気持ちになる。僕の内部で、どこかでなにかが、決定的に不安だ。陳腐な認識や浅い理解という紋切り型を自分が提示し、相手がそのなかに入ってくれることを期待し、うまく入ってくれたなら、ともに紋切り型のなかに埋没することが出来る。埋没して、どうするのか。

 TVのニュース番組で原稿を読むだけにせよ、それは人前に出ることだ。多数の人を目の前にすることだ。そのときの自分が発する言葉のありかたが、見事なまでの紋切り型である状態は、確固たる個人として自分の意見を明快に述べる、というような言葉のありかたのちょうど反対側だ。

 人は確立された個であってはいけないと社会システムが厳しく要求するから、個を埋没させるために紋切り型を採用する。言葉だけではなく、ポーズや表情、喋りかたなど、すべてが紋切り型だ。そしてそのように使われる言葉は、最高に機能したとして、どこにも中心点を持たない単なるお知らせでしかない。

 これはいったい、なになのか。少なくともそれは民主主義ではない、という言いかたをしてみよう。もう何年も前の十二月初旬、アメリカで見たTV番組のことを僕は思い出す。その頃のパブリックTVには、『マクニール・レーラー・ニューズ・アワー』という番組があった。ロビン・マクニールとジム・レーラーというふたりのジャーナリストがアンカーを務め、時局や国際問題を報道し解説し、ゲストたちと討論するという番組だった。

『エッセイ』と題した短い時間が、その番組のなかにときどきあった。僕が見たそのときには、『ライフ』のロジャー・ローゼンブラットが、広島の原爆資料館について、ひとりで語っていた。次の週には真珠湾攻撃の記念日がめぐってくるから、彼は太平洋戦争、原爆、広島の原爆資料館などについて、エッセイとして語った。

 彼が語った主題は、どんな事態にせよそれを引き起こした原因つまりコーズと、引き起こされた結果であるエフェクトとが、常に一対になっているというものだった。社会や世界のなかで起こるすべての出来事の基本は、コーズとエフェクトとの連鎖である、と彼は語った。

 戦争もそうだ、と彼は語った。たとえば太平洋戦争では、さかのぼってつきつめるとじつに小さなコーズが、連鎖に次ぐ連鎖という増幅過程をたどり、ついには広島と長崎に投下された原爆という巨大なエフェクトになった、と彼は言った。

 広島の原爆資料館を見た感想を、ひとりのジャーナリストとして、彼は明快に語った。「ここにはコーズがなにひとつない。あるのはエフェクトの影だけだ。これはじつに奇妙だ。ディスターヴィングだ」と、彼は述べた。ディスターヴィングとは、不安な気持ちに駆り立てられるような、というほどの意味だ。

「コーズがなにひとつなく、エフェクトの影だけがある」ことが、ひとりのアメリカ人ジャーナリストを、不安な気持ちへと駆り立てた。「エフェクトの影」とは、広島に原爆が投下された日の朝、若い女性が勤務先の職場へ持っていった弁当の、焼け焦げた弁当箱とか、建物の正面の石段にたまたま腰をおろしていた人の、原爆の閃光によって石に焼きつけられた影などのことだ。

 なにがきっかけとなってなにがどう連鎖して戦争となり、連鎖の増幅の重なりのなかでいかにして原爆という結果になったのか、事実をすべて明快に人々に見せるのが健全な社会システムだとすると、「結果の影だけ」が提示されている状態は、アメリカのジャーナリストを確かに不安な気持ちにさせただろう。

 日本という国では戦争までもが、個人的な不運や不幸に閉じ込められ、社会化されないことを、ロジャー・ローゼンブラットは知らなかった、と僕は思う。しかし、ここは民主主義の場ではないのだ、民主主義とはまるで違うなにかの場なのだ、という直感はあったはずであり、だからこそ彼は、不安な気持ちへと駆り立てられた。彼が語ったエッセイの結びのひと言は「ノット・ア・シングル・パール・イン・ヒロシマ(広島に真珠はひと粒もなかった)」というセンテンスだった。真珠とは真珠湾、つまり、彼の言うコーズのことだ。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2016年5月27日 05:30
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