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僕の父親はDadだった

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 自分のことをDadと呼べ、と父親がはっきりと僕に言ったときのことを、遠い思い出ではあるけれど、いまでも僕は覚えている。戦後すぐのことだった。当時の僕は五歳ないしは六歳で、ちょうど物心がついた年齢だった。

 自分の父親はきわめてすんなりと、Dadになった。しかし、これからは自分のことをDadと呼べ、とわざわざ言ったからには、それまでの幼い僕は、父親のことをDadとは呼んでいなかったのだろう、という推測が成立する。母親は夫のことを、かたわらにいつもいる幼子の僕をも自分に含めて、お父さん、と呼んでいた記憶がある。だから、日本語のお父さんではなく、明らかにアメリカ英語であるDadを、僕からの呼びかけの呼称として使え、と言ったのだ。それは命令だった、と言っておこう。

 父親との会話は最初からすべて英語だった。母親は何種類かの関西弁を多彩に操ったけれど、その才能は英語にまではおよんでいなかった。父親はマウイ島の生まれで、日系の人たちのあいだで育ったから、日本語は聞けば半分くらいはわかったようだが、喋るのは億劫で、日本語を読むことと書くことは、出来なかった、と息子の僕が断言する。

 幼い僕は成長していった。英語の世界は広がっていった。おそらくそのことに比例したのだろう、父親はますますDadとなった。父親と話をするためには、まずとにかく、Dadと呼びかけないことには、なにごともスタートしなかった。

 Dadとは、単なる呼称ではない。DadにはそのDad、つまり祖父がいて、その祖父にはさらにDadがいるという、Dadの連鎖のなかの、いちばん手前のDadが僕のDadだった。Dadのつながりとは、次の世代に伝えるべき大事なことの継承だ。ごく簡単に言うと、そのような意味でDadはDadであり、同時に、単なる呼称を越えた、幼い息子にとっては絶対と言っていい、確かな存在だった。伝えるべき大事なものを体現している人、という存在であり、伝えるべき直接の相手は、自分のことをDadと呼ぶ、まだ少年とも言えない年齢の、ひとりの幼い息子だった。

 そのDadから見た僕は、ヨシーオだった。義男ではなかった。ヨシオという音を父親はなぜか好み、男の子供が生まれたならその名前はヨシオにしよう、ときめていた。その願いに応えて、義男という文字をみつくろったのは母親だった。君に忠、親に孝、という時代がかつてあり忠と孝のちょうどまんなかあたりに位置していたのが義だった、と僕は冗談に言っている。けっして外れてはいない。

 そのヨシーオは、父親にDadと呼びかけるそのたびに、なにごとかを継承していたはずだ。伝えるべき大事なものを父親は僕に伝えたはずだから、それはきっと大事なものだったに違いない、といまの僕は思う。Dadが伝えようとした大事なものは、僕にとっても大事なものであったはずだ。

 英語の新聞を四方から折りたたみ、僕に読ませたい部分を見やすくした上で、「きみにこれがわかるかい」とDadが差し出すという状況は、多忙なDadが自宅にいるときには、ほとんど常に、しかも一日に何度も、あることだった。僕としてはそれを受け取り、読んでみるほかなかった。だから差し出されるたびにそれを受け取っては、僕は読んだ。アメリカの雑誌の場合もあったが、多くの場合、それは新聞だった。

 囲みのユーモア記事、あるいは連載されているジョークの文章など、一読して「わはは」と英語の人なら誰でも笑うような、おかしい文章であり、まずたいていの場合、僕は笑うことが出来た。つまりそのジョークなりユーモアなりがきちんと理解出来たということだから、いま思い返すと、そこが不思議だ。十歳にもならない子供が、新聞に掲載されている英語のジョークに、なぜ即座に笑うことが出来たのか。

 この不思議さと同時に、僕がいつも思うのは、新聞を四方から折りたたみ、僕に読ませたい記事をまんなかにして、Dadは僕に手渡していた、という事実だ。折りたたまれた英語の新聞、という小さな光景は、忘れがたいものだ。新聞なら新聞を、広げたまま持って来て、ここだよ、この記事だよ、わかるかい、と指先で示す、ということがなかった。常に、彼の差し出す新聞は、折りたたまれていた。そのようなやりかたを、Dadは自分のものにしていた、としか言いようがない。単なる個人的な癖や好みではなく、いま少し広がりないしは普遍性が、そのように折りたたまれた新聞にはあった、といまでも僕は思っている。

 夢中で遊んでいる子供の僕のかたわらに、あるときいきなりあらわれたDadが、「きみにこれがわかるかい」と英語で言い、折りたたんだ英語の新聞を差し出すのは、子供が突然に大人から口頭試問をうけるような趣があり、楽しいものだった。一読した僕から笑いが出るなら、僕はその口頭試問に合格なのだ。幼い僕が笑えば、Dadはそれで充分に満足し、自分の場所へと戻っていった。

 僕が読んで笑ったジョークや冗談の文章は、いったいなにだったのか、といまだに思う。思いはいろんな方向へとめぐっていくが、せっかくの機会だからごく簡単にひと言だけ書いておくなら、このようにして喚起される笑いは、現実というものの丸ごとの肯定という基本方針を、人々の気持ちのなかに徹底させていたのではなかったか、と僕は書く。

 笑いで緊張を抜く、という言いかたが、しばしばなされる。その言いかたを多くの人たちが受けとめてもいる。緊張とは、なにか。そして、それを抜くとは、どういうことか。肯定すべきものを現実のなかから取捨選択する行為は、緊張なのではないか。なし崩しで流されていく過程で、強力に排除されているものがあることを当然のこととして受けとめていると、現実を丸ごと肯定する方針とは、基本的に相容れなくなるのではないか。

 Dad、と三文字を自分の手で書いて、その文字を見ながら反射的に思い起こすいくつかのことのなかに、タイプライターというものがいまだにある。Dadはタイプライターなのだ。自宅にいて自分のデスクに向かって椅子にすわっているとき、Dadはじつにしばしば、タイプライターのキーを打っていた。Dadはタイプライターを打つことに関しては、相当なところまで習熟した人だった。十本の指の力のきれいに均一に揃ったブラインド・タッチで、いつもなにごとかを、彼はタイプライターで高速に綴っていた。

 その様子をすぐそばで見ていることもときにはあったが、ほとんどの場合、僕は彼の打つタイプライターの音を受けとめていた。その音は、完璧に英語の音だった。ひとつひとつどの言葉も、aを例外にして、ふたつ以上の文字によって構成されている。そのような言葉が正しい文法のルールにしたがってならべられていくと、そこにはいくつものセンテンスがかたち作られていく。手書きするとそれは手書きされた文章であり、声に出すなら、それはまぎれもなく英語の音声になる。タイプライターのキーを打って英語の文章を綴るなら、タイプライターというアナログ機械が許す限度いっぱいの速度で連打されるキーの活字が紙の上でインク・リボンを叩く音は、どうごまかすことも出来ない、つまりあからさまな、英語の音になる。Dadのタイプライターの音は、英語の音だった。

 Dadは英語だった。頭のなかがすべて英語だから、思考する経路もなにも英語であり、その結果として彼の外に出て来る文章は、手書きであれタイプライターであれ、それは英語だった。そしてその英語は、一例として、タイプライターの音なのだという事実を、僕は子供の頃、叩き込まれるようにして知った。

 あれほどまでにいつも、いったいなにを、Dadはタイプライターで、紙の上に綴っていたのか。詩や小説ではなかったことは確かだ。スミス・コロナの、持ち運びの出来るケースに入った、おそらくもっともかさばらない、ポータブルのタイプライターだった。ポータブルのタイプライターで、公式な、正式な書類を作ることは、まず出来ない。補助的な書類しか作れない。ただしごく私的な手紙なら、ボータブルのタイプライターで充分だ。アメリカやハワイの友人や知人に宛てて、Dadはいつも手紙を書いていたのだ、と僕は思うことにしている。一通に何枚ものレター・ペーパーの入った、何通もの封筒を束ねて持っていたDadが、友人たちへの手紙だよ、と言って見せてくれた記憶がかすかにある。Dadは手紙の人だった。束ねた輪ゴムの幅が広かった。

 ということは、手紙をほぼ定期的に書き送る相手を、たくさん持っていた人だった、ということになる。どのような人たちに宛てて、Dadは、何を書き送ったのだったか。彼が打つタイプライターの音は、僕の記憶のなかに証拠物件のようにいまもある。送るばかりとなった何通もの封書も見た。しかし、それらの手紙に彼がなにを書いたのかは、謎のままだ。Dadは謎だ。

 パーカーの万年筆が、ある日突然、Dadの指先にあった。万年筆、というものはすでに知っていたと思う。しかし、それが具体的にどのようなかたちをした、どんな機能のものであるのかまでは、正確には知らなかったはずだ。もし知っていたなら、Dadの指先のパーカー万年筆に、あそこまで驚いたりはしなかったはずだ。

 字を紙に書くための、筆記具、という呼び名の道具だ。というようなことを、基礎知識としてDadは説明してくれたように思う。筆記具は、彼の英語では、ライティング・インストルメンツだった。ライティング・インストルメンツのひとつ、それがこのファウンテン・ペンだよ、とDadは言った。

 ファウンテン・ペン、という言葉にも不思議な構造をかいま見た。直訳すると泉筆だ。泉とは、ペンの軸のなかにインクが入っていて、インクの容器を別に持つ必要がなく、しかも書きたいときにはいつでもすぐに書けるペン、という意味すべてを期待でくるんで、ファウンテン・ペンと呼んだのではなかったか。Dadが持っていたパーカーの万年筆は、驚嘆するほどの書きやすさだった。インクはブルー・ブラックという名称の色だった。書いた当初は明らかにブルー系統のやや濃い色だが、空気中の酸素と触れて酸化していくことによって、黒に近い色へと変化していくから、ブルー・ブラックなのだと教えられた僕は、魔法のかけかたの手ほどきを受けているような気持ちになった。

 明らかにロケットを意識したそのかたちも、子供の心を強く惹きつける力を持っていた。こんなかたちのものを、Dadはじつになにげなく、ジャケットの内ポケットに入れているのだった。ジャケットとは、なにか。内ポケットとは、いったいどんな世界なのか。ただの子供にはうかがい知ることの出来ない、大人の男の世界の象徴のひとつが、あるときふとその大人の指先に出て来る、パーカーの万年筆だった。

『ライフ』のような雑誌の余白に、Dadはいたずら書きをさせてくれた。なんという書きやすさか、と僕は心の底から驚いた。インクを満たすシステムをDadは説明してくれた。説明された構造の原理はすぐに理解した。じつは簡単なことだったからだ。インクの瓶も見せてくれた。すべてが、とうてい自分の世界ではない、と子供に思わせるに充分な、謎に満ちていた。

 万年筆は、Dadが言ったとおり、紙に文字を書くための、誰もが持ち歩くことの出来る、簡便な道具だった。ここまでは子供にもよくわかったが、ここから先、つまりDadはこの万年筆でいったいなにを書くのか、という謎に、子供の手は届かなかった。

 パーカーの万年筆と対をなしていたのは、Dadが常に持ち歩いていた、バインダー式の手帳だった。黒い表紙を開くと金属のバインダーがかなりいかめしく存在し、そのバインダーがリフィルの紙を保持していて、その紙のおよそ半分ほどが、Dadの手書きによる癖のない筆記体で埋まっていた。なにが書きとめてあったのかは、謎のままだ。

 Dadにはパイプで煙草を喫っていた時期があった。このパイプも謎だった。刻んだ煙草の葉をボウルに詰めてマッチで火をつけ、細くなった吸い口から煙を吸い込んでは吐き出すのだということは、Dadがパイプを楽しんでいる様子を見ればすぐに理解することが出来た。

 しかし、煙草とはなにか、という謎は子供には解明が不可能だった。吐き出される煙の香りは、けっして悪いものではなかった。母親は嫌がっていたが、僕は好きな香りだった。いつもDadが喫っていたのは、ボンド・ストリートというきわめてポピュラーな銘柄の、ブリキの平たい缶に入ったものだった。この缶は、なかの刻んだ煙草の葉や、Dadが吐き出す煙よりもはるかに、Dadだった。僕はこのブリキの缶を好いていたのだが、空き缶をもらった記憶が一度もない。かなり頻繁に空き缶が出来ていたはずだが、どうしていたのだろう。冬の季節のDadの衣服には、このパイプ煙草の香りが深く染み込んでいた。冬のオーヴァーコートは、パイプ煙草の香りゆえに、Dadそのものだったと言ってもいい。そしてあるとき、Dadはパイプから紙巻きに換えた。

 この紙巻き煙草も謎だったが、パイプ煙草と紙巻き煙草の両方で僕がもっとも影響を受けたのは、マッチの火のつけかただった。ある冬の日の午後、何本ものマッチを無駄にしながら、Dadはマッチの火のつけかたを、僕に教えてくれた。どこでこすっても火のつくマッチを、Dadはことのほか巧みに操って火をつけていた。その様子は、ごく小さなものではあるけれど、目の前で実演される魔法のようだった。

 Dadはコーヒーの人でもあった。彼が自宅にいるとき、パーコレーターでコーヒーを淹れるのが、僕の役目だった。パーコレーターは母親にとっては、「面倒くそうて、かなわんわあ」というものでしかなかったが、僕はパーコレーターを好いていた。二十代の頃にカリフォルニアで買い求め、いまでもこうして使っている、とDadは言っていた。

 パーコレーターでコーヒーを淹れると、コーヒーの香りが家じゅうに広がった。この香りも僕は好いていた。使うコーヒーは、米軍基地の売店でまるでただのような値段で買って来る、これまたじつにポピュラーなブランドの、ヒルズ・ブラザーズの缶入りだった。粉に挽いてあるコーヒーだ。この空き缶は家のなかにいつもたくさんあった。缶に印刷してある絵を、何度眺めたか知れない。その絵に添えてあった、Good to the last drop.という文言をいまでも覚えている。ヒルズ・ブラザーズのコーヒーは現在でも健在だが、かつては多くの人に知られていたこの文言が、いまでは見られない。

 Dadがさまざまな物を介して子供の僕に教えてくれたのは、物事のやりかた、というものだったと、いまつくづく思う。物事のやりかたとは、解決すべき物事をどのように考えるかであり、考えとその実行が最短の直線でつながった、その意味では昔からある、合理の哲学だった。

『Free&Easy』2016年2月号


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2020年4月16日 07:00
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