「片岡義男のぼくのお気に入り道具たち」よりエッセイ4作品を公開
雑誌『BE-PAL』(小学館)に1983年から1985年にかけて連載された「片岡義男のぼくのお気に入り道具たち」からの4作品を本日公開いたしました。雑誌での連載終了後、1988年に刊行された『彼らと愉快に過ごす』の元となった連載ですが、書籍化の際には大幅に改稿されています。
子供のころ、いちばんはじめに体験したナイフは、父親が持っていたポケット・ナイフだった。実用的でありながら、男のアクセサリーとして充分に装飾的でありうる、美しい造りのナイフだった。そのポケット・ナイフは、男の子供のぼくにとって、大いなるあこがれの的だった。見せてくれ、と言えばいつでも見せてくれたが、使わせてもらえたことは、すくなくともぼくの記憶のなかにはない。あらゆることに関して気前のいい父親なのだが、そのポケット・ナイフをぼくにくれるということもなかった。父親は、そのナイフを、きっと大切にしていたのだ。
少年時代の体験がそのまま尾をひいているせいだろう、ぼくにとってのナイフとは、あくまでも実用品なのだ。芸術的に美しすぎるナイフは、いかに実用品としてしっかりしていようとも、なぜか好きになれない。
(『BE-PAL』1983年1月号掲載)
ぼくが最初に着たウールのシャツは、20歳の誕生日に、アメリカの伯父がプレゼントしてくれたペンドゥルトンのシャツだった。1月に伯父から手紙が来て、今度の誕生日にプレゼントとして何が欲しいか知らせてくれと、言ってきた。欲しいものが頭にうかばないまま、たまたまデスクの上にあったアメリカの雑誌を手にとり、見るともなくページをくっていたら見開きの広告に目がとまった。そして半ばきまぐれ、なかば本気で、その広告にあったペンドゥルトン製のウールのシャツを伯父に依頼した。広告では、ペンドゥルトンのウールのシャツがいかに素晴らしいかに関して、調子よくうたいあげていたが、現物を手にとってみて、その広告が本当のことを伝えていたのだと、ぼくは知った。着心地、品質、スタイル、色、そして着ている時の満足感など、すべてが最高だった。しかし、ぼくが二十歳のころの日本では、この素晴らしいシャツは、赤くて派手なシャツ、という扱いしか受けなかった。
(『BE-PAL』1983年3月号掲載)
2月の終り近く、彼女のクーペでぼくたちは海沿いの国道を走っていた。彼女が運転し、ぼくは助手席にいた。ぼくは、コーヒーが飲みたくなった。私もコーヒーが飲みたいと思っていたところだ、と彼女は応えた。そして、コーヒーは私がいれる、とつけ加えた。しばらく走って、彼女はクーペをとめた。トランクからショルダー・バッグをとり出し、その中からまず、エスビットのポケット・クッカーを取り出した。携帯用のごく単純なつくりの、小型のコンロだ。箱から出してそのコンロを開き、水筒の水をシェラ・カップに注ぎ、固形燃料をひとつ指さきに持ちオイル・ライターで火をつけた。熱湯になると、アルミ・カップ、フィルター・ペーパー、コーヒー粉の入った容器、そして、フィルター・ペーパーを支えるための金属製の簡単な道具を出して、大変に確かな手つきで、アルミ・カップのなかに一杯の熱いコーヒーをつくった。
(『BE-PAL』1983年4月号掲載)
秋が深まり始めた頃から冬の半ばにかけての、山裾歩きはたいへんに楽しい。水筒とシェラ・カップ、それに小型のポケット・コンロを持ち、気に入った場所でコーヒーや紅茶をいれて飲みながら、心ゆくまで山裾を楽しむのだ。固型燃料に火をつける道具として、ウインド・プルーフのマッチあるいはジッポのオイル・ライター以外になにか素敵なオイル・ライターはないだろうかとふと思い、ライターの専門店へ行って見つけたのが、イムコのオイル・ライターだった。もう十年近く前のことだ。小型で軽量、手の中への収まり具合いがとてもよく、造型的にも機能的にもたいへんにすぐれている。大変に気に入ったぼくは、いつもこのオイル・ライターを持ち歩いていた。ぼくは煙草を喫わないから町の中ではライターはまったく必要ない。必要なくても、たいへんに気に入ったから、ポケット・ナイフと同じような感じで、持ち歩いていた。
(『BE-PAL』1983年5月号掲載)
2024年10月4日 00:00 | 電子化計画