『酒林』随筆特集よりエッセイ4作品を公開(3)
香川県琴平町の酒造会社・西野金陵(にしのきんりょう)株式会社が、昭和30年から発行している雑誌『酒林』の「随筆特集」で掲載されたエッセイ4作品を本日公開いたしました。いずれも書籍化されていない作品です。
1時間から3時間ほど、西へと向かう新幹線のなかで過ごす。今回はここにしよう、と決めたところまでいき、そこで新幹線あるいは乗り継いだ電車を降りる。さあ、そこからどうするか。どうにも出来ない、と言うよりも、何もすることはない。僕でしかない僕、という状態の自分になることを、無理はしないままに、可能な限り極めればそれでいい。初めて来たまったく知らない町を、目的もないままに歩いていると、少しずつ自分がそんな自分になっていくのを、感じることが出来る。自分以外のすべてが緊密に親密にひとつにつながって一体となっているのに、自分だけはそこから切り離されて、ただの僕でしかない自分になっているのを感じるときの、寂しいような楽しいような、妙な感触こそ、その僕にとっての目的なのだ。
(『酒林』随筆特集 西野金陵株式会社/第69号[2005年4月発行]掲載)
デスクから手の届くところに、国語辞典が2冊ある。どちらも辞典の業界では小型版と呼ばれている、手に取りやすいサイズだ。買ってから30年になるのがもうじきだと思ったら、新しいのを買いたくなり、『新明解国語辞典』小型版の第6版をまず手に入れた。この小型版に革装があればいいのに、と思って探してみたら、革装という版が見つかり、雰囲気が気に入ったのでそれも買うことにした。長い間使ってきた国語辞典は、物体としてなかなかいいものだ。新品の国語辞典は新品としての魅力を放って、僕の手に取られるのを待っている。だから僕は革装と赤いヴィニール装の2冊を、ふとしたひととき、交互に手に取っては、無作為にページを開き、目にとまる言葉とその説明を読んでは楽しんでいる。知らなかった言葉に数多く遭遇する。知らなかった言葉とその意味の発見。これは楽しい。
(『酒林』随筆特集 西野金陵株式会社/第79号[2010年1月発行]掲載)
午前中最後の電話は彼女からだった。
「会いましょうよ。久しぶりに」と、彼女は言った。
ごく気楽に、ただ会うのだ。イラストレーターである彼女と、作家である僕との間には、仕事の話がひとつだけ存在していた。僕の文章に彼女のイラストレーションで、何か1冊本を作りましょう、という話だ。彼女は僕のちょうど半分くらいの年齢ではないか。
彼女が住んでいる場所の近くの公園でその日の午後、おそらく最も暑い時間が待ち合わせの時間となった。公園に入るとすぐに、向こうの木陰になったベンチに彼女がひとりでいるのを、僕の視線は捉えた。彼女は両手に何か小さな物を持っていた。近づくとそれはピストルのかたちをしたプラスティック製の水鉄砲だとわかった。ショート・パンツとその美しい脚も凛々しく歩いて来る彼女から10メートルほどのところで、僕は立ちどまった。そして左手を斜め外に向けて頭の高さまで差し出し、
「射っていいよ」と、彼女に言った。
(『酒林』随筆特集 西野金陵株式会社/第80号[2010年11月発行]掲載)
35歳の夏の午後、僕は下北沢の南口商店街のちょうどまんなかあたりの雑居ビルディングの2階に、小さな看板の屋号にカット・ハウスという言葉を添えた、床屋とも美容院ともつかない店を見つけた。男性の頭髪を客の希望に可能な限り沿って整える、という方針の店だった。その店に入った僕は、髪全体をまんべんなく5センチほどの長さに切ってもらった。そしてこのとき以来、僕は床屋にも美容院にもいっていない。
高校生の頃には自分で髪を切っていた。それが面白かったからだ。自宅の3軒隣が美容院で、そこで働いている女性と近くの蕎麦屋で偶然一緒になったとき、
「ヨシオちゃん、そのリーゼントの髪を自分で切ってるでしょう。じょきん、と切れてるわよ。揃えるだけでもやってあげるから店へ来てよ」
と、言った。僕は彼女と渋谷でデートはしたけれど、彼女が働く美容院で髪を切り揃えてもらうことは、しないままだった。
(『酒林』随筆特集 西野金陵株式会社/第84号[2012年11月発行]掲載)
2024年9月13日 00:00 | 電子化計画