三十五歳の夏の午後、僕は世田谷の下北沢という場所の南口商店街を、駅に向けて歩いていた。駅に向かうときには、この商店街の道はゆるやかな登り坂となる。この坂のちょうどまんなかあたり、駅に向かって左側、確か道に沿った小ぶりな雑居ビルディングの二階に、小さな看板の屋号にカット・ハウスという言葉を添えた、床屋とも美容院ともつかない店があった。客は男性を想定していることが、その看板を見れば誰の目にも明らかだったが、それがなにだったかは、忘れてしまって思い出せない。ハンサムな男性の横顔でも描いてあったか。
その看板を目にとめた僕は、…
『酒林』第八十四号 二〇一二年十一月