映画評論『彼女が演じた役——原節子の戦後主演作を見て考える』を公開
映画評論『彼女が演じた役——原節子の戦後主演作を見て考える』(早川書房/1994年、底本は中公文庫/2011年)を本日公開いたしました。女優・原節子(1920〜2015)の主演した戦後の映画作品から11本を鑑賞し、原節子という女優の持つ才能と演技、そして「紀子三部作(『晩春』『麦秋』『東京物語』)」を中心に、小津安二郎監督の演出についても検証していきます。
子供の頃から現在に至るまで、僕は日本映画をほとんど見ていない。見なかった理由はこれと言って何もない。青年期には日本映画はさらに遠く、大人になってからはもっと遠のいた。だから『東京物語』は、自分の意志や必要で最初から最後まできちんと見た、僕にとって初めての日本映画だと言ってもいい。相当に不思議な映画を見た、というのがそのときに僕が持った最初の感想だ。この映画は喜劇だ、と言いきることは無理なく出来るけれど、そう言いきっておしまいにしてしまうことには、確実にためらいが残る。不思議な映画だ、という感想はそこから出て来る。そしてこの作品を含め「紀子三部作」とも言われる『晩春』と『麦秋』を見たが、不思議さは三部作全体に広がった。だから僕は、さっそく、その三部作についての、論評会話小説とも言うべき小説を書いて楽しんだ。そして小津安二郎という映画監督と、原節子という女優のことが気になることとして残った。原節子の他の主演作を見たい、と僕は思った。そして僕は、可能な限りそれらを見た。そのことの延長として、いまここにあるこの本を、僕は書くことになった。
『麗人』(1946)では原節子が演じる圭子は、全篇をとおして四つの相に分けることが出来る。そしてその四つの相は、そのまま大衆娯楽小説的な物語の起承転結となっている。原節子にとって演技力を発揮する範囲は、この四つの圭子の演じ分けにつきる。心あるいは体の内部に存在する、ある種の深さや重さの表現に関して、原節子はたいへんにクリエイティヴな力を持っている。
『わが青春に悔なし』(1946)の舞台は戦前だ。原節子の主演作を11本だけ見ることの出来た僕にいまはっきり言えるのは、少なくともその中では、この『わが青春に悔なし』が、原節子の顔を撮ることに関して、もっとも無頓着であるということだ。それは演出力の不在と言ってもいいほどの弱さから生まれた、当然の結果であるのかもしれない。しかし僕の場合は、原節子という女優の顔の不思議さについて考えるきっかけとなってくれたから、それはそれでたいへん良いことだったのだが。
『安城家の舞踏会』(1947)では、お屋敷のなかに舞台を限定して、舞踏会の夜から次の日の朝までという時間の中で物語が展開していく。この作品の中で、原節子は人との的確な距離の取りかたを、ほんのちょっとしたこと、例えば何げなく顔を少しだけ伏せたり、ちょっとした表情、特に視線のわずかな動きで見せてくれる。さらに彼女の声はきわめて良質の明るさや軽さと同時に、次元の高い重さや深さを持っている声だ。そしてその声による台詞には、おおむね良い意味で、ほんの少しだけ不自然さがともなう。映画自体はよく出来てはいるが、全体としては他愛ない、と僕は判断する。
『お嬢さん乾杯』(1949)まで、原節子が令嬢、しかも没落名家の令嬢を演じた映画が三本続いた。なぜ、原節子は、令嬢なのか。当時の日本女性としては珍しい気質を、原節子は観客に感じさせた。簡単に言うなら、自立した美しい女性、という形を持った強い自我だった。銀幕の上の自分に大衆が託する夢を、女優としての原節子は演じなくてはいけなかった。当時としてはかなり珍しかったはずの、しかし映画の中ではあくまでも輝かしいものとしての、自立した美しい女性という形を持った自我にふさわしい役のひとつが、令嬢というフィクションだった。原節子という主演女優が演じる役柄に、若い頃には令嬢が多かったという事実は、日本映画は女を描くことが出来ないということの前兆ではなかったか、とも僕は思う。
『青い山脈』(1949)は決してシリアスな映画ではない。当時もいまも、ごく軽いコメディという評価がもっとも正当だろう。あらゆる要素が他愛なくてこそ、一篇の娯楽映画として成立し得たのだと言っていい。僕の興味は、原節子という女優はこの映画に主演して楽しかっただろうか、やりがいはあったのだろうか、という点だ。彼女の大きくて深いクリエイティヴな欲求は、島崎先生という役を演じることによって、充分に満足させられたのだろうか。いや、この役は原節子でなくともいい。しかし、原が演じた。なぜだったのか。外見から受ける印象から、もっとも安易な方向に向けて推測される内面、というものが原節子の上に早くも固定されていて、その推測された内面を、固定観念的に一定の役にあてはめていく作業の結果として、島崎先生の役が原に回って来た、あるいは、彼女のために用意された、と僕は考える。ここまでの4本の映画作品は、どれもみなはっきりと他愛ない。いい俳優がたくさん出演し、それぞれにプロの仕事をしているのだが、出来上がった作品の全体は、他愛ない、というひと言で表現出来てしまう。
『白雪先生と子供たち』(1950)で、原節子が演じる雨宮加代子という先生(白雪先生)は、六年生のクラスをひとつ、受け持っている。学校を出て4年め、先生ぶりがさまになり始めていると言っていい頃だ。この先生は、あらゆる細部にいたるまで、すでに完璧と言っていいほどにルーティーン化されている集団管理の基礎が、教室の中で秩序正しく進んでいくことを見守り、請け負っている人だ。彼女のクラスが映画のなかで体験するドラマは、クラスのまとまりを乱す要素として登場する。専門職でありつつ、本当に重要な判断に関してはひどくアマチュアでもあるという、不思議なありかたの雨宮先生にも扱うことが出来、生徒たち全員が参加することも可能な出来事として、ドラマは起こって来る。『青い山脈』を他愛ないと僕は書いたが、『白雪先生と子供たち』の他愛なさは、それをはるかに越えている。
原節子がクリエイティヴな力を深く豊かに持った女優であることは、『安城家の舞踏会』を見るだけで、充分にわかる。同時に、彼女がタイプ・キャストされやすい女優であったこともまた、明らかだ。敗戦から日本映画の斜陽に至るまでの期間に活躍した主演女優のなかで、役柄がもっとも強く固定されていたのは、原節子ではないだろうか。しかし小津安二郎監督による紀子三部作への出演は、原節子という女優にとって、最初にして最大の、そして最後でもある、映画的な幸福だった。彼女はその能力を、この3作の中では全開にして発揮することが出来た。
『晩春』(1949)の物語を2度、3度と見てはっきりわかるのは、ストーリーの展開は相当にせっかちないしは強引であり、あっと言う間に突き進んでいくという事実だ。しかしものの見事に映画だ。そしてそれは、きわめて映画らしい映画だ。僕がこれまでに検討して来た原節子の主演映画を監督したどの監督よりも、小津安二郎は映画をわかっている。人だけではなく構図も、小津の映画のなかでは、しきりと対置する。構図とは、人がそこにいることの証明、ないしは、人がそこにいたことの痕跡だと解釈するなら、構図は人そのものであり、これが何度もいろんなところで対置されるのは、ごく当然のことだろう。
『麦秋』(1951)は『晩春』に関する反省にもとづき、『晩春』との対置という微妙に入り組んだ関係の上に存在している。『晩春』で監督がもっとも反省したのは、紀子の実体のなさだ。『麦秋』で原節子が演じる紀子には、実体が充分に詰めてある。しかしその紀子の物語は実にあっけない。そのため、ひとりの若い独身女性としての実体を紀子の中に作った監督は、彼女が自分の意志で結婚相手をきめるまでの物語を丁寧に作っている。そして原節子は、監督の望んだすべてのことに、きわめてさりげなく、しかし完璧に応えている。
『晩春』と『麦秋』の反省の上に立って、小津安二郎は『東京物語』(1953)を作った。これは完璧に近く洗練された傑作だ。小津映画の中の原節子は生き生きとしている。本当に楽しそうだ。クリエイティヴな能力を無限に持っている原節子という女優は、小津のような監督によって自分の能力が引き出されていくことに、耐えがたいほどの快感を覚えたのではないか。そして原節子の口調は、どんな台詞でも、ものすごく巧みに、なんの無理もなしに言えてしまう口調だ。微妙なニュアンスを、微妙さのまま正確に言い分けることに関して、彼女の口調は生まれつき大きく恵まれているのだ、と僕は思う。その的確な自在さは、原節子の性的な魅力を、彼女の声に託して、観客の体内に届けることにほかならない。
『東京暮色』(1957)で原節子が演じる長女の孝子は、『晩春』の紀子が見合い結婚してから4、5年後、という雰囲気だ。彼女は夫とうまくいかず、実家へ子供を連れて戻ってきている。原節子を使うにあたって、監督の小津安二郎は、このような役を考え出した。30歳になったかならないかの若さで、早くもくすんだ所帯やつれの浮かび始めた人妻としての長女を、原節子はどんなことでも出来る女優として、巧みに演じている。原節子が孝子のような役を演じると、必然の結果としてそこには重みが生まれる。しかし、せっかく生まれたその重みは、結局はなんにもならない。また、『晩春』のときから少しずつ出ていた死というものが、『東京暮色』では欠かすことの出来ない要素となって、あらわだ。
『秋日和』(1960)は、誰がどう見ても喜劇だ。さほど無理することなく喜劇を作ることが出来るのは、小津安二郎監督にとって、もっとも大事な資質かもしれない、と僕は思う。原節子は夫を亡くし、娘のアヤ子と二人で暮らしている三輪秋子を演じている。『秋日和』の11年前、1949年に公開された『晩春』の、ひとり娘の結婚に至るいきさつの基本が、『秋日和』でも物語の基本となっている。両者はまったく同一のものだと言っていい。この2篇の映画を見比べて僕が思うのは、『晩春』はじつは抽象劇であり、それにくらべると『秋日和』はどこまでも具体的なドラマなのだ、ということだ。『晩春』は抽象にほぼ徹したから、コメディにはならなかった。どこまでも具体的に作ろうとした『秋日和』のなかで、もっとも抽象的なのは原節子が演じる秋子ではないか、とも僕は思う。ある程度の具体性は彼女にもあたえてあるが、未亡人であるというだけで、一定以上の抽象性を彼女は持っている。しかしその抽象性は徹底していない。その必要がないからだ。なぜなら『秋日和』は秋子の物語ではない。秋子はストーリーの進展をただ受けとめるだけの存在であり、しかもひと段階ずつの進行を、すでに進行のなされたあとの、要所を微妙にはずれたところで受けとめている。
2023年11月10日 00:00 | 電子化計画
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