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映画評論『一九六〇年、青年と拳銃』より5作品を公開

映画評論『一九六〇年、青年と拳銃』(毎日新聞出版/2008年)を本日公開いたしました。俳優・赤木圭一郎(1939〜1961)主演の『拳銃無頼帖』シリーズ全4作(1960年)について、詳細に考察したものです。

 赤木圭一郎を初めて観たのは、吉永小百合の日活でのデビュー作として観た『拳銃無頼帖』シリーズの第二作『電光石火の男』だった。第三作の『不敵に笑う男』にも吉永小百合は出演していたから、続いて僕はそれも観た。そしてそのことは、僕にとっては、日活アクションと呼ばれている作品の一端に、初めて接する体験でもあった。日本の映画を観ると僕は不思議な気持ちになる。日活アクションも僕にとっては、映画によって初めて体験したほどのと言っていい、実に不思議きわまりない奇妙な世界だった。『拳銃無頼帖』シリーズが持つ、にわかにはどうこう言うことの出来そうにない魅力に、赤木圭一郎の俳優としての素晴らしさとともに、僕は充分にからめ取られた。

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 赤木圭一郎が主人公の「抜き射ちの竜」こと剣崎竜二を演じ、彼とまっとうな対決を望んでいる殺し屋「コルトの銀」を、宍戸錠が演じるシリーズの1作目だ。日本では到底あり得ない、国籍不明で荒唐無稽なストーリーの映画、という評価がかつては一定の強さで存在したが、少なくとも『拳銃無頼帖』に関しては、僕はそのような評価にいっさい組しない。ストーリーは設定の副産物だ。設定とはつまり主人公のあり方だ。主人公・剣崎竜二のあり方は、孤独の一語につきる。この映画を支えるすべての設定が、竜二のいる世界の狭い閉鎖性とその中での彼の孤独を、何重にも重なり合う入れ子状態で提示しており、その孤独こそが彼である、という設定の上にこの映画の物語は成立している。そしてこの映画は劇中の竜二の言動が社会的な広がりのニュアンスを持ったメッセージになることを、可能なかぎり排している。それだけでなく、作品全体を支えるべきリアリズムも、大きく回避されたと僕は考える。
▶︎『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』予告編

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『電光石火の男』という映画は、具体的な事物や出来事をどうこうする、という性質の映画ではない。一人の青年にとって、自分をどうすればいいのかという、これ以上ないほどに切実な問題を、ある一つの視点から描いた観念劇とも言うべき映画なのだ、という発見をいま僕は楽しんでいる。自分から逃げてはいけない。自分から逃げないための第一歩として、圭子という他者から逃げてはいけない。主人公の丈二が思い続けている圭子は、彼にとっては俺が惚れた女であり、その自分は、この女に惚れた俺なのだ。圭子から丈二を見るなら、丈二という一人の青年は、私が愛したあなた、という存在だ。そしてその私は、あなたを愛したこの私、となる。視線の互換性とは、自分以外の人の視線の存在を知ること、つまり他者の存在を受けとめ、その他者と正面から向き合うことに他ならない。
▶︎『拳銃無頼帖 電光石火の男』映画紹介ページ

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 青年の物語にとって大切なのは彼の精神性の奥行きだ。『拳銃無頼帖』のような映画における主人公の奥行きとは、基本的に常にある不安と孤独、立場や居所のない寂しさ、将来という前方に向けての当てのなさなど全体を不定型にくるむ、魅力的な暗さのようなものだ。『抜き射ちの竜』にはこれがあったし、『電光石火の男』にも、やや薄められてはいたが、同じものがあった。しかもこの二作では主人公の竜二や丈二ひとりにそれがあるのではなく、浅丘ルリ子演じるみどり、そして圭子との、共振の関係の中にそれは存在していた。この二作の物語が終わる時、主人公は刑期を覚悟しなくてはいけないという状況が、前方に待ち受ける穴のように存在していた。現実の刑期ではなく象徴としての刑期で、抽象概念に近い。観念と言ってもいい。今だけでなく前方に何もないことが生む、虚ろさという不安。しかし『不敵に笑う男』では、竜二は出来事の全体から切り離され、無罪と言うよりも無関係な人となる。
▶︎『拳銃無頼帖 不敵に笑う男』紹介ページ

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『拳銃無頼帖シリーズ』第1作から第4作まで、物語の基本的な構造は、二人あるいは二つが、対立したり並べられたりする、二項対立や二項並列という、フォーミュラによって支えられている。この第4作での主人公の竜とライバルのジョーの関係は対立と並列が組み合わせられたものだ。対立とはジョーが切望してやまない一対一のピストル勝負であり、竜は馬鹿げたこととしてまともには取り合わない。ふたりが本気で一対一の勝負をピストルでおこなえば、どちらかが、あるいは両方が、重傷を負うか命を落とすかという事態になる。そうなるとふたりの物語はそこで終わり、それ以後の作品は作れなくなる。したがって宿敵どうしという対立の側面は使いきることをせずに残しつつ、相棒どうしとしての並列の側面を、物語の要所ごとに組み込んでは使っていくことになる。
▶︎『拳銃無頼帖四 明日なき男』紹介ページ

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2023年11月3日 00:00 | 電子化計画

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