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トリス・バー。バヤリース・オレンジ。バッテンボー

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 バッテンボー、という言葉は死語だろうか。老いも若きも、日本じゅうどこへいっても、誰もがこの言葉を口にしていたあの頃、というものがかつて存在した。あの頃がいつ頃だったか、昭和の何年あたりだったのか、資料がないと僕には正確なことはわからない。僕はその頃はすでに確かにいたけれど、単なる子供だったから、年号の記憶などありっこない。ゆうに半世紀は昔のことだ、とあてずっぽうを書くけれど、はずれてはいないと思う。

 単なる子供として体験し、きわめて深く認識したあの頃というものを、いまの僕から引き出すことは可能だろうか。いまも忘れていないなにかひとつの体験を記憶のなかに探り当て、それがバッテンボーの時代と重なるかどうか、試みてみるほかない。

 東京を五歳で離れた僕が岩国に次いで広島県の呉にいた頃、ある平日の午後、街で友だちと遊んでいてなんとなく退屈しながら、映画館の前をとおりかかった。『西部の王者』という西部劇が上映されていた。西部劇なら観てもいいか、と子供たちの意見は一致し、僕たちはその映画館に入った。ロビーから暗い館内への大きなドアを開いて、僕たちはびっくりした。平日の午後なのに、なかは大人たちで超満員だったからだ。

 大人の観客がぎっしりと詰まって、文字どおり立錐の余地もなかった。背のびをしたり飛び跳ねたりすると、そのたびに、スクリーンのいちばん上のあたりを、部分的に見ることが出来た。スクリーンには青い空が映し出されていた。西部の青空だ。銃撃戦の音が館内に満ちていた。銃声、疾走する馬のひづめの音、なにかが倒れたり衝突したりする音、当時の言葉でインディアンと言っていた、北アメリカ先住民戦士たちの雄叫び、悲鳴などを、満員の大人たちのうしろの暗闇で、僕たちは音だけで受けとめた。

 やがてあきらめて僕たちは外へ出た。そして他の遊びを見つけた、と思う。『西部の王者』はそれっきりだ。いまにいたるも僕はこの映画を観ていない。王者とはバッファロー・ビルのことだ。ジョエル・マクリーにモーリン・オハラ、そしてアンソニー・クエイルやリンダ・ダーネル、トーマス・ミッチェルといった配役は、気合の入った西部劇だったことを思わせる。この『西部の王者』が日本で公開されたのは一九五一年のことだった。日本全国でバッテンボーが流行語になったのは、この頃ではなかったか。

 バッテンボーという言葉も、じつは西部劇のものだ。『ペイルフェイス』という一九四八年の喜劇西部劇に、ボブ・ホープとジェーン・ラッセルが主演し、ラッセルはカラミティ・ジェーンの役を演じた。この西部劇の主題歌は『ボタンとリボン』といい、劇中でボブ・ホープが歌ったという。アカデミーの主題歌賞を獲得した。

『ボタンとリボン』という言いかたは片仮名翻訳であり、英語のままだとバトンズ・アンド・ボウズとなる。このバトンズ・アンド・ボウズという言葉が、歌詞のなかに合いの手のように、何度もあらわれる。池真理子の歌でレコードになった日本版は、歌詞は日本語に翻訳されていたが、バトンズ・アンド・ボウズの部分はそのままであり、この歌が収録してある池真理子のCDで歌詞カードを見ると、バッヅァンボウーズと表記されている。歌われている言葉として受けとめると、当時の日本の人たちには、これがバッテンボーと聞こえたようだ。そう聞こえたと同時に、自分でも言いやすい音として、バッテンボーに落ち着いたのだろう。そしてこの西部劇は、日本では一九五〇年に公開された。『西部の王者』とは一年のずれがあっただけだ、ということをいま僕は確認する。

『ボタンとリボン』は池真理子による日本語の歌として、当時の日本で大流行し、津々浦々までいきわたった。バッテンボーという言葉を、大人から子供まで誰もが、合いの手や掛け声のように、なにかと言えばしきりに口にした。日本語の歌詞はたいへんに面白い。原典に忠実であるがゆえに面白さに欠ける、という事態を巧みに回避しつつ、飛躍しすぎて意訳を越えた創作になってしまうことをも、おなじく巧みに避けた日本語歌詞には、原典が言っていることを日本語に置き換えて妙の部分が、いくつもある。こうした工夫のある歌詞が陽気なメロディに乗っている様子は、当時の人々にとってはたいへんに新鮮だったのだ、と僕は思う。

 この歌の歌詞の翻訳で発揮された当時の日本人の国語力は、この映画の題名の邦訳においても充分に発揮された。原題の『ペイルフェイス』は、見てのとおり、青白い顔、という意味だ。うらなり、ひょうろく玉、といった面白い日本語とほぼ対応している。先住民から見た白人たちの蔑称でもあった。このペイルフェイスに、わかりやすさにおいては普遍に達していると言っていい、腰抜け、という言葉を見つくろい、この腰抜けのあとに、二丁拳銃、という言葉をあてがった国語力は、これだけの日本語センスが人々のあいだにまだ健在だった時代のものだ、と僕は本気で書く。『ペイルフェイス』の邦題は、『腰抜け二丁拳銃』という素晴らしいものだった。二丁拳銃は造語だろう。大小の刀を腰に差すことを、二本差し、と言ったりする。このような言葉からの、連想にもとづいた造語だ。

 一九五〇年は朝鮮戦争の始まった年で、日本はまだ占領下にあった。自衛隊の前身である警察予備隊が、GHQの指令によって創設された。敗戦から五年たっている。敗戦直後の混乱や欠乏から、日本社会は明らかに抜け出しつつあり、次の時代へと向かっていた。平日の午後に街の映画館が大人で満員の時代だった。大衆の娯楽として映画が王座にあった時代だ、と言ってもいい。西部劇の時代でもあった。

 千円札が発行されたのはこの年だ。トリスという国産ウイスキーが発売され、トリス・バーが全国いたるところに開店した。米はまだ統制されていたが、パン、味噌、醬油、アミノ酸などは自由販売となった。アミノ酸とは要するに「味の素」という商品であり、これ以後の日本の人たちの味覚形成に、多大すぎるほどの影響をおよぼした。

 札幌では「味の三平」という店が味噌ラーメンを開発した。ヤクルトやポテトチップスが発売されたのもこの年のことだ。コーヒーの輸入が再開された。街の喫茶店で飲むコーヒーは、一杯が二十円だった。一九五一年には、食糧配給公団が廃止された。民営の米屋が復活した。朝日のビール、そしてバヤリース・オレンジが発売された。バヤリース・オレンジは街のいたるところで見かけたが、なぜだか僕は一度も飲んだことがない。不二家のミルキーが発売され、養老乃瀧がこの年に創業した。

 バッテンボーとは、要するに新しい流行り物のひとつだった。流行り物の時代が日本ではすでに始まっていたのだ。流行り物とは、どこともわからない前方に向けて、時代を推し進める力であり、大衆をからめ取り引きずっていく力でもあった。次から次へと登場する流行り物の上に乗って、けつまろびつ、人々は半世紀を越えてここまで来た。

 戦後日本にとっての一里塚のような『バッテンボー』つまり『バトンズ・アンド・ボウズ』は、LPやCDのなかに探すと思いのほか少ない。僕のところにあるLPからすぐに見つけ出すことが出来たのは、ザ・ディニング・シスターズの歌と、指揮者がアーサー・フィードラーだった頃の、ボストン・ポップスの演奏の、ふたとおりだけだった。もっと丹念に探せば、あとひとつやふたつはあるだろうか。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


1950年 1951年 2005年 NHK出版 『白いプラスティックのフォーク』 アカデミー アメリカ アンソニー・クエイル アーサー・フィードラー ウイスキー カラミティ・ジェーン コーヒー ザ・ディニング・シスターズ ジェーン・ラッセル ジョエル・マクリー トリス トリス・バー トーマス・ミッチェル バッヅァンボウーズ バッテンボー バッファロー・ビル バトンズ・アンド・ボウズ バヤリース・オレンジ ペイルフェイス ボストン・ポップス ボタンとリボン ボブ・ホープ ポテトチップス ミルキー モーリン・オハラ ヤクルト リンダ・ダーネル レコード 不二家 主題歌賞 千円札 味の三平 味の素 味噌ラーメン 岩国 広島県 拳銃 映画 映画館 朝日のビール 朝鮮戦争 札幌 池真理子 白いプラスティックのフォーク 腰抜け二丁拳銃 西部の王者 西部劇 食糧配給公団 養老乃瀧 CD LP
2020年5月14日 07:00
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