アイキャッチ画像

爆弾の穴について思う

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 畑にできていた爆弾の穴について、いま僕は思っている。日本が太平洋戦争に大敗北する前年の春先から、昭和二十二年の夏の終わりまで、五歳から八歳までの四年間、僕は山口県岩国市の瀬戸内に面した町で過ごした。米軍による爆撃が激しさを増す東京を逃れて、祖父と親族が住む場所へと疎開したのだ。

 その祖父あるいは親族の誰かの所有になる畑が、あちこちにあった。祖父とともに住んだ家から歩いて五分ほどのところの畑がもっとも近く、そこからさらに十五分も歩くと、山陽本線・岩国駅の南側、駅からすぐ近くにも畑があった。僕がはっきり記憶しているのはこの二か所だ。どちらもかなりの面積だった、という印象がいまもある。農作業を営んでいる親族を、幼い僕はよく手伝った。おかげで水田の作業以外なら、たいていのことは体験している。

 爆弾の穴があったのは、駅に近いこの畑だった。自分のとこだけで五つか六つあった。隣接するよその畑に入ると、さらにいくつもあった。初めてその畑へいき、爆弾の穴を見たのは、昭和二十一年の秋ではなかったか。そのときすでに、どの穴も水をいっぱいにたたえ、水草その他の生態系の完備した、しかしどれもみな妙に丸い、いっぱしの池だった。めだかがいた。もっと大きな魚を見た記憶もある。どの穴もみな、爆撃に飛来したアメリカの爆撃機から投下された爆弾によるものだ。駅と線路を狙って大量に投下された爆弾のうち、かなりの数が目標をはずれて畑に落下し、そこで爆発して穴を作った。

 畑へいくと僕はかならずこの穴を見てまわった。爆弾の穴だと大人に説明され、いかにして出来たかをただちに理解した記憶がある。池に入るな、という注意も受けた。注意されなくても、直感の育っている子供なら、入らなかったはずだ。池としてはなんの不足もなく出来上がっていて、その様子を観察するのは楽しいのだが、どれもみな不自然に丸く、しかもまんなかのいちばん深いところに向けて、縁からのスロープが均一でしかも急なすり鉢になっていて、どことも言いがたく不吉な、したがって静粛にすぎる雰囲気が、否定しがたく漂っていた。

 池としての生態系がもっとも整い、サイズもいちばん大きかったのは、自分のとこの畑にある穴だった。直径は十メートルには足らなかっただろう。冷たく澄んだ水が常に豊富にあり、水草がほどよく茂り、その水草の陰にはいつ見てもめだかがじっとしていた。水面のすぐ下に浮かんで静止しているめだかの観察に飽きると、穴の隣に立つ柿の木に登ったり降りたりを、何度となく繰り返したものだ。

 岩国のあと広島県の呉市に五年ほど住んだ。合わせて十年足らずの瀬戸内体験は、僕にとってこの上なく貴重なものであり、忘れがたいことはたくさんある。そのうちのひとつが、いまこうして書いている爆弾の穴だ。周囲の畑の光景やその匂い、自宅からそこへいくまでの道、蒸気機関車に牽引されて東へ向かう長い貨物列車など、さまざまなものといっしょになって、爆弾の穴はいまも僕の記憶のなかに鮮明にある。現実にはどうなのか、とふと思う。いまでもあの穴はあそこにあるだろうか。わざわざ埋め戻すこともないという理由で、ひとつくらいいまでも残っているような気もするのだが。

 昭和二十五、六年に米軍によって撮影された航空写真を見ると、岩国駅を中心にした畑のなかに、黒い爆弾の穴はまだいくつも残っている。畑が畑のままなら、爆弾の穴はひとつふたつ残っている可能性がある。しかし畑は市街地の一部へと変わり、パチンコ店やスーパーあるいはその駐車場などになったなら、畑はもちろん爆弾の穴などひとたまりもなく整地され、コンクリートに覆われたことだろう。確認してみようか、という思いがなくもない。静かな池となっていた爆弾の穴の縁にふたたび立てるとは思っていないが、確かこのあたりと見当をつけた位置のスーパーの駐車場の片隅に、ひととき呆然と立ちつくすのも、僕にとっては充分に意味のあることだ。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 アメリカ 子供 少年時代 岩国 戦争 戦後 瀬戸内
2015年11月19日 05:30
サポータ募集中