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祖父のポケット・ナイフ

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 いまぼくはこのみじかい文章を、お気に入りの原稿用紙に鉛筆で書いている。鉛筆は、いつものステドラーの5Bだ。原稿用紙のすぐわきには、ポケット・ナイフがひとつ、置いてある。このポケット・ナイフについて、ぼくは書こうと思う。

 とても懐かしいポケット・ナイフだ。ぼくがまだ少年時代のはじまりのあたりにいた頃、ぼくのおじいさんがぼくにくれたのだ。いまのぼくはときどき二十代に見まちがえられたりするけれど、少年時代なんてほんとにとっくの昔に、どこかに消えてしまった。おじいさんも、ずっと以前に、この世の人ではなくなっている。

 手にとってしみじみと眺めていると、これは典型的なポケット・ナイフだということがよくわかる。刃を折りたたんだときの全長は七十五ミリ。いまのぼくの手のなかには、すこし頼りない感じだが、ぴたりとおさまる。刃は、二枚ついている。五十五ミリある長いほうの刃と、二十五ミリのみじかいほうの刃だ。

 ぼくがおじいさんからこのポケット・ナイフをもらってからすでに充分に長い時間がたっているが、おじいさんがこれを最初に手に入れてからだと、もっと長い時間が経過している。その昔、おじいさんは、ハワイでこのポケット・ナイフを買ったという。おじいさんは、ハワイのマウイ島の西側にあるラハイナというところで、農業技術者をやっていた。砂糖キビ畑に供給する大量の水の、貯水池の管理の仕事だ。

 このラハイナの、あるいは東側のワイルクやカフルイ、そしてひょっとしたら、久しぶりに遊びに出たホノルルのダイム・ストアで、おじいさんはこのポケット・ナイフを買ったのだろうか。長いほうの刃を開くと、刃の根もとに、メイド・イン・USAの刻印がいまでも読める。けっして高価なものではない。せいぜい一ドルかそれ以下だったのではないだろうか。ぜんたいがかすかにS字のかたちに湾曲しているところが昔のアメリカらしく、柄には大きな貝の内側の光った部分が使ってある。しっかりした造りだが、刃のとりつけ部分には、がたつきが出ている。

 おじいさんがハワイで、そして日本で、いつもオーバーオールのポケットに入れていたこのポケット・ナイフを、ぼくがもらった。少年の頃の宝物だった。いろんなことに使った。いろんなものを切り、削った。いまはもう忘れてしまっているが、自分の指だって何度も傷つけたことだろう。手にとると、さまざまな記憶がよみがえってくる。このポケット・ナイフのなかに、ぼくのおじいさんが、そして少年の頃のぼくがいる。

 この文章を書き出すとき、新しい鉛筆をこのナイフでぼくは削った。もうひとつ別な原稿を書くために、これを書きおえたらもう一度、鉛筆を削ろう。

(『町からはじめて、旅へ』1981角川文庫版所収 「おじいさんのポケットナイフ」改題)


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2015年10月21日 05:30
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