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七月一日、朝、快晴。円満退社

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 ぼくが大学を出て就職したころのことについて、すこし書いてみよう。記憶があいまいになっている部分があるかもしれないが、できるだけ正確に書くつもりだ。

 大学四年の五月、六月にかけて、つまり夏休みに入るずっと以前に、おなじ大学の友人たちの、おもだった連中は、すべて就職をきめていた。

 大学には就職課みたいなところがあり、そこにはいろんな企業に関する資料が集めてあり、大学卒業予定者に対する求人の状況なども、ここへ足しげくかよっていればかなり正確につかめるようになっていた。

 この就職課が大学のどこにあるのか、夏休みが終わっても、ぼくは知らなかった。友人たちのほぼ全員が、その頃になると、すでに就職さきを決定させていた。彼らは、内定した、という表現を使っていた。なんの疑いもなく喜々としてこの言葉を用いる彼らおよびこの言葉に、ぼくは、この言葉を得た以後、ひどい違和感を覚えたのをいまでも記憶している。この記憶のせいだろう、内定という言葉には、一生をとらわれの身ですごすというような、大きなマイナスのイメージをぼくは感じる。

 来年の三月になって大学を卒業してしまえば、自分もやはりどこかに就職しなくてはいけないにちがいない、とはぼくも思っていた。だが、就職さきを見つけたりきめたりすることに関して、ぼくは熱心になれなかった。

 なぜかというと、さきにも書いたように、まだ自分自身のことが、すこしもよくわかってはいなかったからだ。自分はなにをやりたいのか。自分はなにができるのか。自分はなにをやればほんとうに自分らしくなれるのか。ずっとながくやりつづけていくこととして、いったいなにを選びとれば、自分はほんとうによろこべるのか。こういったことに関して、自分の行動の足場になるような回答が、すくなくともぼくは、すこしも出せずにいた。

 だから、就職さきさがしどころではなかったのだ。自分がなにであるのかを模索するために、ぼくは大学に入ったのだった。自分を模索しよう、という意識が明確にあったわけではないけれど、たとえば高校を出て就職するようなことは、とても不安でできなかった。どんなに恵まれた職場を見つけても、その職場での仕事が、自分にとってやりがいのある仕事になるはずがないという、ネガティヴなかたちでの自信があった。したがって、模索のための時間かせぎとして、大学に入った。

 就職さきを見つける時期になっても、この自分自身の模索は、横ばいのまま、つづいていた。就職さきを決定させたり内定させたりしている友人たちに対してぼくが覚えた違和感は、表現をかえるなら、彼らはこんなにも早くに自分自身を見つけだすことができたのだろうかという、不思議な思いだった、と言うことができる。俺は証券、こいつは商社、そしてあいつはやっぱり銀行、というようなかたちで、よくもこんな早い時期に自分自身の方向を決定してしまえるものだ、とぼくは彼らになかばあきれていた。

 こんなわけだから、大学四年の五月だか六月だかに自分の就職さきを見つけて決定や内定をとりつけるそのプロセスというかやりかたというか、そういったことにぼくはいまでもうとい。会社訪問などと言うが、訪問して自信を持って売りこめるなにがあるというのだろう。

 九月の終りか十月のはじめに、ぼくは商社の就職試験をうけた。大学に対して正式に求人の来ていた会社だった。学校をとおして願書その他の書類の提出、あるいはしかるべき手続きなど、みんな友人がやってくれた。その友人はいくつもの会社への就職に失敗し、その商社の試験に望みをかけていた。ぼくがまだ就職できずにいることを知った彼は、我が身とかさねあわせて同情してくれたのだろう、親身になって世話をやいてくれたのだ。

 ぼくのいた大学だけで三百名をこえる応募者があり、まずはじめに面接試験が、大学の教室でおこなわれた。当時はまだ黒いつめえりの学生服で試験をうけることになっていて、ぼくは学生服は持っていなかったから、ぼくよりさきに面接をうけた男の服を借用してすませた。

 面接者は数名いた。ずっとあとで知ったのだが、社長、副社長以下、主として営業関係の部長たちだった。面接者として口をきいたのは社長で、第一問は「きみは頭はいいか」という質問だった。乱暴な質問だから、反射的にぼくは「いいです」とこたえた。みんな笑っていた。第二問は、「この会社でなにをやりたいんだ」という問いだった。商事会社という組織がどのような種類の仕事を持っているのかよく知らないので、人手の足らないところにはめてくれたらその仕事をやってみる、というようなこたえかたをぼくはした。これにはべつに誰も笑わなかった。面接は、以上だった。

 この面接に合格し、こんどはその会社の一室で、論文と英語の試験をうけることになった。論文は、その会社の社訓として箇条書になっているごく陳腐な根性論および人の和論とも言うべきものについての、貴君の感想をのべよ、というものだった。こんなつまらないものが社訓になることのむこうに、実社会の重みのようなものがさすがにかいま見える、といったことをぼくは書いた。英語の試験は、和文英訳だった。

 数日後に、採用内定通知、という一枚の紙きれが、その会社からぼくの自宅へ郵送されてきた。出社の日は四月一日、時刻は午前八時三十分、などと書いてあった。

 この通知をうけとっても、たいした感概はなかった。自分はなになのかという問いは依然としてあまりにも大きく、就職がきまったくらいでうれしがったりする気持には、とうてい、なれなかったからだ。

 卒業の年が来て、必要取得単位数のつじつまをなんとかあわせたぼくは、卒業した。卒業式に両親を連れてきている連中がいて、ぼくはそのことにすくなからずおどろいた。

 四月一日に、ぼくは出社した。この日の朝からぼくが「社会」で体験した面白いことはいっぱいあるのだが、あたえられたスペースがなくなってきたようだ。

 一日も休まずに七月一日までその会社で働き、その日、七月一日、ぼくは円満退社というやつをした。

 四月、五月、六月と、気候は次第に良くなっていく。七月一日の朝、地下鉄の駅を出たぼくは日本の中枢であるビジネス街を会社のビルにむかって歩きながら、朝の空を見た。

 まっ青に晴れていて、明るい陽がいっぱいにあった。ああ、もう駄目だ、とぼくは確信した。もう会社へいくわけにはいかない、いまの自分にとっていちばん大事なことをしようときめ、会社へ着いたらすぐに退社願いを書き、人事課に提出した。午後になって受理され、一週間かかって引きつぎをすませ、その年の夏と秋は、相模湾と房総半島ですごした。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年

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2016年7月1日 05:30
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