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雨が、ぼくにオードリー・フラックの画集を開かせた

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 窓の外にいま午後がある。その午後は、いっぱいに雨を持っている。梅雨の雨だ。今年は、長くて冷たい梅雨だという。なるほど、いまはたしかに肌寒い。

 雨を見ながら、ふと考えた。雨は不思議だ。

 もしいま雨が降っていなかったなら、窓の外に見える午後の景色は、丘やら森やら小さな民家やら電柱やらが、おたがいにばらばらにただ存在しているだけのきわめて不統一な景色であるはずなのだが、雨が降っているおかげで、本来ならばらばらであるはずの景色が、ひとつのトータリティを獲得している。

 雨がリアリティをひとつに統合し、まとめあげ、窓の外に見える午後の景色というリアリティを、もうひとつむこう側へこえたリアリティに仕立てなおしている。スーパーリアルになっている。こういうことをやってしまう雨というものは、ひょっとして芸術ではないだろうか。

 と、ここまで書いてきて、いま自分がこれから読むべき本のテーマが、ひらめいた。テーマは、芸術にするべきだ。そうしよう。それをおいてほかにない。

 すこしだけ肌寒い感じの雨の午後にぴったりの素材はないかと、買ったままほうってある何冊もの本を見ていたら、オードリー・フラックの本があった。『オードリー・フラック 絵画について語る』という、十四ドル九十五セントの本だ。

 これがいい、これにしよう。オードリーの有名な絵である『マリリン』の一部分をバックにして、オードリー自身の上半身が表紙に登場している。なかなかの雰囲気を持った女性だ。目や鼻や頬がとてもいい、なんともいえない深みのある顔だ。実際よりも美人に撮れているにちがいない。ちょっと宗教的な感じのする人だ。

 オードリー・フラックという女性画家について、よく知っている人はたくさんいるだろう。しかし知らない人はなにも知らないだろう。抽象へ傾いた表現派のような絵からはじまって、現在はスーパー・リアリズムと呼んでさしつかえないような一連のすぐれた作品を発表している人だ。『オードリー・フラック 絵画について語る』という本のなかに、彼女の絵の、よくできたリプロダクションが何点ものっている。このリプロダクションを見れば、どういう絵を描く人なのか、たちどころにわかる。

 この本は、オードリーの画集であり、オードリー論であり、さらに、オードリー自身が自分の作品について語った本でもある。雨の午後の、芸術のお勉強には、ほんとうにぴったりだ。

《芸術と人生に関する覚書き》とタイトルをつけた、オードリー自身によるみじかい章がある。さっそく読んでみた。面白い。非常にすぐれている。「芸術は死に対するプロテストである」というような、劇的な文句が、さりげなく生きている。

 自分は、呼び名をつけるならやはりスーパー・リアリストだと、オードリー自身が言っている。リアルをこえたリアルをめざしているから、ただ単なるリアルなどではすこしもなく、リアルのさらにむこうにあるリアル、すなわちスーパー・リアルなのだ。

 スーパー・リアルとはどういうことかというと、彼女の場合、いまこうして人間が生きていることの総体を視覚的に提示しなおすための、芸術上の手段だ。身のまわりにたくさん複雑に存在するリアリティを、スーパーリアリズムという芸術的な手段をとおすことにより、より美しく、より理解しやすく、よりうけとめやすくするのだ。生きてある時間が誰にとってもあまりにもみじかい、という事実を、より承服しやすくしていくのだ。芸術は死に対するプロテストである、というオードリーの言葉は、ここにつながってくる。人の平均寿命が二百年くらいになったら芸術のあり方はずいぶんちがってくるだろう、と彼女は言っている。彼女の考え方は正しい。

 このような視点によって自らを支えつつ、技法はスーパー・リアリズムなのだから、カンヴァスに描き出される世界は、当然のことながら、アブストラクトな世界になってくる。現実の品物や人物がスーパー・リアリズムの一見ギトギトふうのタッチで描いてあるのだが、なにを描いても最終的にそれはシンボリックなものとして描き出される。カンヴァスのあらゆる部分にシンボリズムが満ちることになる。

 たとえば赤いリンゴを彼女がカンヴァスのなかに描くとすると、そのリンゴは、単なるリンゴというリアリティをこえて、色であり形であり、重さであり密度であり円型であり、置いてあるものでありつつ宙に浮いているものであり、というぐあいに、ようするにつまらない言葉で言うと、わかりやすいリンゴではなく「わかりにくい」リンゴとなり、見た目にドーンと重い、ということになっていく。

 スーパー・リアリズムを自認する画家は、アメリカにはじつにたくさんいる。たとえば絵葉書やグリーティング・カードでよく見かけるスーパー・リアリズム・アーティストたちの絵は、技法がスーパー・リアリズムなのであり、それ以外はべつになにがどうということもないのだから、タッチ自体、そして見た目にも、非常に軽い。そして、かなり多くの人たちに、表面的にパッと好かれる。しかし、ただそれだけのことだ。

 オードリー・フラックの絵に、『ロイアル・フラッシュ』という有名な作品がある。『オードリー・フラック 絵画について語る』の本のなかにも再現してあるが、もしこの絵を単なるスーパー・リアリズム画家が描いたなら、ギャンブルにつながったものがテーブルのうえに散らばっている情景をスーパー・リアルに描いただけになって、それはそれで視覚的にある程度の快感をもたらすだろうけれど、オードリー・フラックが描くと、人生と永遠との葛藤という、重くシンボリックなものにと、仕上がっていく。

 リチャード・エステスの場合は、見なれたアメリカの都会の風景のなかにアブストラクトで芸術的な価値のあるものをみつけだし、それにしたがって現実をほんとの現実とはべつなものにつくりかえ、スーパー・リアリズムの技法によって、写真をこえて写真的な軽いタッチで描き出していく。現実を写実的に描きつつじつはアブストラクトであるという点ではオードリー・フラックと似ているが、彼女のような重いシンボリズムは持っていないと言っていい。

『オードリー・フラック 絵画について語る』のなかで、オードリーは、『マリリン』『ロイアル・フラッシュ』『タイム・トゥ・セイヴ』など、自分の有名な作品のいくつかに関して、絵ときのようなみじかい解説を、自分で書いている。どれもみな、面白い。『ロイアル・フラッシュ』など、感激的だ。おさない頃、身内の人たちがよくポーカーをやっていたという記憶を土台に、ポーカーというギャンブリングを人生と永遠との対決のようなシンボリック劇へと彼女は仕立てなおしていく。描写されているいろんな小物すべてがそれぞれシンボルになっていて、芸術的に興味深い。

 オードリー・フラックは、スライドを大きなカンヴァスに映写し、それをなぞって自分の絵の土台をつくる。もとになるスライドを撮るときにいつも協力している女性カメラマンの書いた章も、面白さに満ちている。シンボルとして使えそうな小物(プロップという)をフリー・マーケットやリフト・ショップであさり歩く話などは、まさに芸術家の日常だ。

『ブックストアで待ちあわせ』新潮社 1983年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

Audrey Flack on Painting

Audrey Flack on Painting
Audrey Flack
Harry N Abrams
1986年

今日のリンク:オードリー・フラック公式サイトより『マリリン(ヴァニタス)』(1977)


1983年 1995年 『なぜ写真集が好きか』 『オードリー・フラック 絵画について語る』 『ブックストアで待ちあわせ』 アメリカ エッセイ・コレクション オードリー・フラック 午後 片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』
2016年6月6日 05:30
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