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六〇年代

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 一九六〇年代はじめのぼくの身辺には、アメリカ人の友人たちがいつも何人もいた。主としてジャーナリストの男性や女性が、入れかわりたちかわり次々にアメリカから日本に来ては、仕事をしていた。彼らがロこみでぼくのことをおたがいに伝えあうので、ぼくが当時ひとりで住んでいた家は彼らにとっての無料の宿泊所のようになってしまっていた時期もあった。日本へは初めて来る、という人たちが多く、日本へのイニシェーションにぼくがいつも加担していた。

 一九六〇年の十一月の大統領選挙でケネディがニクソンを僅差で破って当選したあたりから、ぼくの一九六〇年代、特にアメリカとのかかわりが常にいっぽうにあった生活のなかでの六〇年代は、はじまっているような気がする。身のまわりにいた友人たち全員がケネディを熱心に支持していたし、ぼくにとってもケネディとニクソンでは比較にならなかったから、ケネディが大統領になったことはうれしかった。アメリカの大統領としてのケネディには興味があったから、たとえば大統領選前のニクソンとのテレビの討論は、音声だけのテープを友人にかりて聴いたりしていた。

 そのケネディが一九六三年の十一月には早くも暗殺されてしまった。アメリカ人のジャーナリストの友人たちはたいへんに悲しみ、怒っていたが、ニクソンがかならず大統領になってアメリカはさらにいろんなまちがいをおかすだろう、と冷静にそして正確に、予測してもいた。ケネディが暗殺された明くる日に、ぼくはアメリカ人の友人たちといっしょに仕事で箱根へいった。気持の晴れない、曇った日だったような気がする。一時的にアメリカへ帰った友人からあずかっていた一九六二年のフォード・カントリー・セダンというステーション・ワゴンに全員で乗っていった。FENをかけっぱなしにしてケネディの暗殺にかかわるいろいろな番組を聴きながら箱根にむけて走ったときの車内の様子が、ぼくの一九六〇年代として、思い出すといつも大きくのしかかってくる。

 一九六二年のキューバ危機のときには、まだ大学生だったぼくは、第三次世界大戦がはじまるかもしれないと思うほどに緊張したし、六四年のトンキン湾事件とそれにつづく米空軍による北ヴェトチナム基地爆撃あたりから、どうやって収拾をつけるつもりなのか見当もつかないたいへんな事態のなかにアメリカが入っていくのを実感した。六五年には北爆が開始された。一九六〇年代の後半は、まちがった方向へ決定的に大きく入りこんでしまった結果としてのさまざまなあつれきの積みかさねで終ってしまったような気がする。一九六九年にはシカゴの反戦デモ、そしてワシントンでのヴェトナム反戦大集会、一九七〇年にはカンボディアへの侵略、そしてケント大学で州兵が大学生を射殺したことに対する抗議の反戦大集会があった。ヴェトナムにおけるアメリカの軍事行動の合法性を問うかたちでマサチューセッツ州が訴訟をおこしたが、最高裁が却下した。これは一九六〇年代をしめくくる大きな事件だったし、この事件にからんで友人がひとり、アメリカで自殺した。一九六〇年代はじめにふくらんだ夢は、かたっばしから破り去られるというかたちで、実現した。

(『すでに遥か彼方』1980年所収)

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1960年代 1980年 『すでに遥か彼方』 アメリカ ジョン・F・ケネディ ベトナム戦争 リチャード・ニクソン
2016年5月22日 05:30
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