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素敵な女性作家たち(1)

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■このジャンルの本ならいつでも読みたい、というような領域はありますか。お勧め、というか、この領域のなかならいつ読んでも面白い、というような。*

 手近なところでとっさに思いつくのは、いまのアメリカの、女性の作家たちによる小説あるいはノン・フィクションです。男性作家よりも女性の作家たちのほうが、ほんとうは昔からずっと面白かったのではないかと思うのですけれど、いまの女性の作家たちは、たいへんにいいです。

■いま彼女たちは、どんなことを書いているのですか。

 ひと言で言うなら、関係のありかたですね。家族関係とか、夫婦の関係とか、あるいは、夫婦とその子供の関係とか。夫婦および家族の関係の小説、と言っていいと思います。彼女たちの作品を読んでいくと、男性作家たちの描く世界とは明らかに異なった世界を、彼女たちが持っていることに気づくのです。作者の名前をしらず読んでいき、男性作家の手になるものか、あるいは女性作家のものか、利き酒のように当てることが出来ます。しかも、利き酒よりはるかに正確に。

 男性の作家たちは、頭で考えてでっちあげる、という傾向を持つとすると、女性の作家たちは、それぞれの存在の内部に、小説の材料くらいいくらでも持っている、という感じです。ひとりひとりの裾野の広がりが、男性よりもずっと広くて深い、という感触があります。現実に対して正面から応対しつつ、その時間のなかで同時に、より良い関係を理想の追求のように模索していくエネルギーが、彼女たちの小説を面白くさせるのでしょう。

■最近のもののなかで、これは、というものはなにでしょうか。

 ぼくはぼくが読んだ範囲内でしか語ることが出来ませんけれど、たとえばロブ・フォーマン・デューという作家の『彼女が人生の時』という一九八四年の小説は、面白いものでした。

■その面白さの説明は、可能ですか。

 難しいかもしれないですね。小説のぜんたいが面白いのですから。一語、一語、そしてそのつらなりのぜんたいが、面白いのですから。この部分がこう面白い、というような言いかたは、なかなか出来ないのです。その小説のぜんたいが、最終的にはどうにも動かしがたくぜんたいそのものを構成していて、そのぜんたいを判断するよりほかなく、そのぜんたい的な判断のためには、一語、一語が問題となり、その一語、一語もまた、動かしがたくそこにあり、おたがいに微妙に、そしてしっかりとつながりあっている、という書きかたです。じつに鋭い、織細な、ニュアンスに富んだ、しかし強い力のある、どこかへむけて確実に動いていくような、まさに小説のためにあるような文体を、作者は滑らかに自由に、駆使していました。

 登場人物の配置は、きわめて単純です。ミズーリ州のランズデイルという町の、高級住宅地みたいなところに一軒の家を持っている夫婦がいて、その夫婦に娘がひとりいて、もっとも重要なのはその三人だけです。その家は、夫が中心になり妻の興味を巻きこみつつ入念に設計した家で、夫にとっては自慢の建物なのです。しかし、妻にとっては、すこしではあるけれど確実に違和感のある家だったりします。彼女としては、いつも一時の仮住まいのような、個性のない出来あいの家に次々と住んでいくほうが、現実感があったりするのです。こういった細かい部分の面白さに満ちていて、ことさらに面白さを狙って書いたのではなく、書いていくなかでの、ごく小さいことではあるけれども必然として動かしがたい印象のディテールが、ぜんたいをとおして山のようにあります。

 夫は昨夜の酒でまだ寝ていて、妻が娘とふたりで朝食を準備して食べる場面が最初に出てきますが、とにかく秀逸です。妻はいつも家にいて、これといって気持ちを集中させる対象はなにもなく、その朝食の場面でも、よく見れば相当に魅力的な女性として日常の行動をこなしてはいるけれど、気持ちがどこにも集中せず、その集中しない気持ちのままに日々のなかを動いていくから、たとえば娘にとっては、たいへんに自分中心的な、すこしも頼りにならない母親であったりするのです。

 夫は、その町の大学で教えていて、かたわら本を書いているのです。すでに何冊か自著があり、評判はよく、歴史と自然科学とを重ねあわせたような文明批判のような本をいまは書こうとしています。外見はたいへんに魅力的で、悪い男性ではないのですが、彼は感情の世界においてまだ子供なのです。感情が成熟してないのですね。妻も、そうなのです。

 このような男女がたまたま夫婦になったりするのは、それはそれでいっこうにかまわないのですが、結婚して子供を作るとなると、問題が出てきます。その問題の大きなひとつが、この小説のテーマです。

 十一歳のひとり娘はジェーンというのですが、同年齢の子供たちに比べると、明らかに年上に見える、すっきりとシックな、賢そうな、落ち着いた、ストイックに安定した印象のある、いい娘なのです。十一歳ですから、家庭のなかは安定していて欲しいし、その安定のなかで父と母との両方に自分の愛をむけていくことをとおして成長していきたいと願っているのです。

 しかし、母も父も、感情の世界ではまだ大人ではなく、混沌とした状態のなかにいるのですから、賢い娘としては日々のぜんたいのなかに不吉な予感を感じないわけにはいかない、というような毎日を送っています。

 やがて夫が別居します。確実に家を出ていく覚悟のような別居であり、その夫には愛人がいることがわかり、外見的にはよくあるうんざりするような別居、そして離婚、という図式なのですが、その図式のなかに巻きこまれた娘は、十一歳のある時期、おかげですさまじい体験をさせられることになります。悲惨な事件が起こるとか、そういうことではなしに、娘の深い内面での、すさまじい出来事なのです。両親が感情の世界で子供のままであることから起こってくる、自分へのとんでもないとばっちりを乗り越えるためには、娘としては、感情の世界でいっきょに大変な老成を達成しなくてはいけないのです。子供らしいまま幸せな子供の日々を送る、ということがまず不可能な状況ですから、学業のよく出来る子供が学年を飛びこして進学するように、娘はいっきょに感情の世界で老成するほかないのです。そういう小説です。

 タイトルとなっている文句の、『彼女が人生の時』のなかの「彼女」は、このひとり娘を指しているとぼくは思うのですが、そうだとするとこのタイトルは反語ですね。

 作者の感受性はものすごいし、その感受性を小説という形にしていくにあたっての、微妙なものをその微妙なままに書きわけていく技量とか腕力とかも、ものすごい人ですね。鋭いウイットはきちんとあるし、もちろんこれがなければ小説を書くことなど止めたほうがいいですけれど、細かに端整なディテールが光り輝いているような文章とか、とにかくたいへんなものです。

 母親も父親も感情の世界でまだ大人になっていないとは、つまり、ふたりとも自己正当化の権化である、ということです。あらゆる生活領域にわたって、彼らはひっきりなしに自己正当化をおこなっていて、そのことには露ほども気づくことなく、その自己正当化にもとづく、かくありたい、かくあるべし、というような考えを、なんの脈絡もなしに、彼らは娘に押しつけていきます。受けとめるだけの年齢である娘は、これではたまったものではないのです。賢い娘としては、こういった馬鹿な両親をはるか後方へいっそく飛びに置き去りにするほか、生存の道はないでしょう。

 感謝祭とクリスマスとが、大人たちにとっては、一年にわたる自己正当化の頂点をきわめる、一種の祭典なのです。クリスマスをどう祝うか、なにを誰にプレゼントするか、というようなことが自己正当化のお祭りとなり得る、ということを知るだけでも、この小説は読む価値があります。自己正当化の祭典は、うまくいくわけがないですから、いろんな問題が起こってそれがごちゃごちゃにからみ合い、そのほとんどすべてをひとりの娘がひっかぶるのです。大変ですよ。

■日本語への翻訳は、可能でしょうか。

 翻訳する、ということそのものが、この小説の場合はよくないことだと、いまのぼくは思います。ぜひとも読みたい人は、英語のまま読めばいいのです。英語のまま読むべきだと、ぼくは思います。

 不必要な重さのようなものがどこにもない様子を知るだけでも、英語のまま読むべきです。ぼくもかつてたくさん翻訳をしましたけれど、翻訳してもかまわないものと、翻訳すべきではないものと、二種類あるように思います。

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The Time of Her Life,Dew,Robb Forman
1984[amazon日本|英語|used book]

■幸せな子供の日々、というようなものは、もはやアメリカにはないのだ、という話を聞いたことがありますが。

 小説的に考えるなら、そんなふうに考えたほうが面白いでしょうね。ロブ・フォーマン・デューのこの小説を読んで、ぼくは、パトリシア・ディゼンゾという女性作家の『アメリカン・ガール』(邦訳は角川文庫)という作品を思い出しました。一九七一年の作品で、小説のなかの時代は一九五〇年代でした。いわゆる中流の生活をしている家庭の、アルコール中毒みたいな母親とその娘の物語で、娘の一人称で書いてあるのです。たいへんにいい小説であり、ぼくは深い感銘を受けたので、読んだペーパーバックをいまでも持っています。こんな母親を持ったら大変だろうなあ、と思うのですが、娘はそのような母でも、相手として対等にきちんと認めていて、不必要に重くならないのはそのせいでしょうし、前にむけて進んでいくエネルギーの大きさは、そのまま、読んだあとの感銘の大きさにつながるのです。中流の生活のなかで、なにかと不備な両親たちの問題に巻きこまれ、ひどいめに遭う子供たちの小説、というジャンルがひとつ成立していますね。

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An American girl,Patricia Dizenzo
1972[思春期、パトリシア・ディゼンゾ|角川文庫|1980]

■深刻とは言えないような問題を描く女性作家、という存在は目につきますか。

 なにしろいろんなタイプの作家がいて、それぞれが豊かな個性のなかで書きたいことを書きたいように書いていますから、ヴァラエティは豊富です。

 ローリー・コルウィンは、いまおっしゃったような作家のひとりでしょうね。『ハッピー・オール・ザ・タイム』という一九七一年の作品を読んだのですが、マンハッタンを舞台にしたパストラールとして、たいへんに楽しめました。おたがいに親友どうしであるふたりの男性が、それぞれに女性をみつけ、恋をし、結婚にいたるという物語なのですが、こういう小説のなかでは、シャープな機知に富んだ、優雅で知的でウイットのきいた、要するに本当のセンスというものを楽しむことが出来ます。女性が魅力的に描かれているのが、なんともうれしいのです。ありきたりの魅力的な女性ではなく、きわめて個性豊かであることの結果としての魅力ですから、読んでいて飽きることがないですね。次の状況に彼女はどう対応するのか、さらにその次では、というふうに期待が高まりつつ持続していきますから。こういう小説も、英語のまま読まないと、なにを読んだのかわからなくなってしまうと、ぼくは思います。

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Happy All the Time ,Laurie Colwin
1978[amazon日本|洋書|HarpPeren; Reissue,2000)]

■いまのアメリカの女性作家、と片岡さんは言いましたが、いまとはどのくらいの期間を指すのですか。

 一九五〇年代くらいまでなら、大丈夫でしょう。違和感なしに楽しめるはずです。ただし、一九五〇年代だと、たとえば家庭における父親と母親との立場とか関係とか、役割の分担とか、感情の表現のしかたとか、いまとは随分ちがいますから、とまどう部分があるかもしれません。

■意識的にすこし以前の作品を読んでみる、ということはあるのですか。

 ときどき、あります。たとえば一九六〇年代なかばのものを読んでみよう、と思って捜してくるとか。最近、それを試みてみたのです。一九六五年の作品で、アリスン・ルーリーという女性作家の『ザ・ノーホエア・シティ』を読んでみました。二十年まえのものですけれど、まだ充分にいけます。大いに楽しめました。

■『ザ・ノーホエア・シティ』つまり、どこでもない町、という意味ですね。魅力的なタイトルです。どんな内容なのですか。

 ノーホエアなんとか、というタイトルは、ときどきあります。『ノーホエア・マン』という小説を、ずっと以前に読んだ記憶があります。

 どこでもない町、というのはLAのことなのです。そのLAに、ひと組の若い夫婦が、東部から移ってきます。夫は、大学で歴史を教える先生ですが、軍事に密接に関係した研究開発会社にとりあえず一年の契約で、社史を本として一冊、書く仕事を請け負い、その仕事のために妻をともなってLAに来るのです。彼は、ちょっと軽めの、いい加減なところのある人で、LAにすぐになじみ、いきつけの食堂のウエイトレスをたちまち恋人にしてしまったりします。その恋人はビートニクで、ヴェニスの汚いアパートメントの部屋に、いかにもビートニクらしく住んでいたりします。一九六五年のLAですからね。ビートニクの時代へ戻ることが出来るのです。余計なことかもしれませんが、この時代を背景にした小説でも、まだ現在のたとえば東京よりずっと面白い、という気がします。

■その夫婦にとって、LAがそれぞれ独特な作用をするのですか。

 そのとおりです。夫のほうは、簡単にLAになじんでしまい、そのことによって東部ではとうてい体験出来ないようなことを体験していくのですが、彼の本質はすこしも変化しないのです。仕事は完了しないのですけれど、契約の期間が終わって、彼は再び東部へ戻り、大学のアカデミックな世界に強い郷愁を感じつつ、そのなかへ帰っていこうとします。

 ところが、妻のほうは、はじめのうちはLAが嫌で嫌でたまらず、いつも頭痛がしていて、完全に半病人のような状態でいたのですが、次第に基本的な性質が変化していくのです。夫以外の男性の体験とか、いろいろあるのですが、とにかく最後には、彼女はかつての東部女性ではなく、完全にLAの女性になっています。そして、夫といっしょに東部へ帰ることを拒否します。LAという場所が、男性のほうを変えることは出来なかったけれど、女性のほうは変えることが出来て、かつての東部女性とは別に、もうひとり、ノーホエア・シティ女性とも言うべき存在があらたに生まれてきているのですね。そういう小説でした。

 LAという場所や、そこでのさまざまな体験に、彼はたやすくなじんだけれども、その作用力を内部に深く吸収して、そのことによってもうひとりの自分を自分のなかに作り出していく、というようなこととは無縁であったのです。しかし、彼女のほうは、LAの作用を深く吸収し、それまでの自分とは別の、あらたなもうひとりの自分を自分の内部で生産したのです。女性の勝ち、と言ってもいいでしょう。こういうテーマが面白く書いてある小説でした。

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The Nowhere City,Alison Lurie
1966[amazon日本|英語|kindle(Open Road Media,2012)]

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(『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』1987年、エッセイ・コレクション『本を読む人』1995年所収)

*以下の”質問”は、編集者からの事前の「中心的な質問」を「受け取ったのち、自分で自分に質問し、自分でそれに答えるというスタイルで、自分の読書について書いた」(あとがき)もの。

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1987年 1995年 『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』 アメリカ エッセイ・コレクション 作家 女性 小説 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2017年1月23日 05:30
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