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僕にとっての個人的なスタンダード

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 いまから百年前、おそらくまだ青年の名残をとどめていた年齢の頃、僕の祖父はハワイへ渡った。僕の父親はハワイで生まれてそこで育ち、カリフォルニアその他で成長の仕上げをした。ハワイとアメリカの日系人社会が、幼い頃から僕の身辺のすぐ近くに、いつもあった。手ざわりや感触、あるいは雰囲気だけではなく、英語という言葉による認識の問題として、ハワイとアメリカの日系社会は、育っていく僕に大きな影響をあたえた。

 いまでもハワイへいくと、僕は少なくとも自分だけの頭のなかでは、自分を日系社会のなかに置き、そこからハワイを見る。単にアメリカでもなければ単に南太平洋の島でもない、日系社会のハワイが、僕にとってのハワイだ。日系社会というものもいまでは目につきやすいかたちでは存在していないとも言えるが、これからも僕にとってのハワイは、父親と祖父とを軸とするハワイであり続けるだろう。

 ハワイにいるときにふと頭に浮かぶ歌ないしは曲は、なんと言っても『アロハ・オエ』だ。そしてそこから、白人たちが一種のポピュラー・ソングとして作ったいわゆるハワイ音楽の往年の傑作群と、南太平洋の血を引くハワイの人たちによる、ハワイという場所とそこでの生活感情に密着した歌や曲の名作の数々が、僕の頭のなかではふたつの豊かな水脈としていつも流れている。

 僕の視点や立場は日系社会のなかだから、ハワイのそのような音楽にも、日系社会に強いシンパシーを持つ人として、僕は接していく。では日系社会のなかにはどんな音楽があるかというと、僕にとっての個人的なスタンダードは、『ここに幸あり』と『別れの磯千鳥』というふたつの歌だ。子供の頃からこのふたつの歌をいつも聞いていた記憶のある僕は、どちらもハワイの歌だと思っていた。

 そうではなく、『ここに幸あり』は日本のヒット歌謡曲であり、『別れの磯千鳥』はハワイ出身の日系音楽家、フランシス座波の作曲した歌だ。ハワイにいると、このふたつの歌を、僕は何度も自分自身のなかに聞く。若い人たちは知らないかもしれないが、文脈によってはこの二曲はいまも永遠のスタンダードだ。フランシス座波に敬意を表して、僕はモイリリにある彼の墓にお参りしたことがある。

 この二曲が一夜のうちに何度もジュークボックスでかかっていた、一九五〇年代の終わり近くの、たとえばホノルルの日系人町の食堂が、僕にとってのハワイの出発点だ。ハワイにいると何度もこの歌が頭のなかに聞こえてくるということは、僕にとってのその出発点である、いまは幻となって久しい日系食堂を、心のなかで自分は捜し続けているということなのだと、僕は理解している。僕の全体ではなく、ある一部分にとって、このふたつの歌は、その核心にせまるテーマ・ソングだと言っていい。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年

今週の一冊|『アロハ・オエ』

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処女作「白い波の荒野へ」を起点として連作のようにして書き継がれたうちの一篇。もう、消えてどこにもない波を、サーファーを、人々はスクリーンに見る。「アロハ・オエ」が聴こえてくる。

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1995年 『ここに幸あり』 『アロハ・オエ』 『別れの磯千鳥』 エッセイ・コレクション ハワイ 歌謡曲 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』 祖父
2017年1月9日 05:30
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