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二百字詰め原稿用紙八百枚

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 原稿用紙に万年筆で原稿を手書きしていた期間が二十年以上ある。市販の原稿用紙、あるいは出版社が提供してくれるその社のものを使っていた期間は、ごく短い。大量の原稿を書くようになると、万年筆による手書きという肉体作業を、可能なかぎりストレスの少ない、安定したものにする必要を強く感じた。だから僕は自分で紙を選び、自分の字を計測して枡目の大きさをきめ、二百字詰めの原稿用紙を自分でデザインし、印刷会社に作ってもらった。二十数年前のことだ。総計で一万枚が五百枚ずつ二十個に包んであった。これを使いきるのは大変だと思ったが、意外に早くなくなった。おなじ紙でおなじデザインのものを、さらに一万枚作った。これもほぼ使いきり、五百枚包みが二個だけ、いまも収納庫の棚にある。ひと包みは五百枚そのまま、そしてもうひとつは二百枚ほど使ってあるから残りは三百枚前後で、合計は八百枚だ。

 原稿用紙に万年筆で自分の文章を手書きしていく作業は、個人性のきわめて高い行為であり、うまくいけば精神的にも肉体的にも、充実した内容をともなう。僕の場合、うまくいったかどうかいちいち確認している余裕はなかった。自分の手指で持っている万年筆のなかのインクが、自分の頭のなかで作った文章として、原稿用紙という紙の上にひと文字ずつ固定されていくときの、充実感のようなものは堪能した。

「よくそんなにたくさん書けますねえ」と、驚く人がたまにいる。「私なんか手紙一本、書類一枚でも、四苦八苦ですよ」と、そのような人たちは言う。書くためのトレーニングを一度も自分に課したことがないから、手紙や書類にも苦労する。ただそれだけのことだ。職業としての書き手のように、いろんな内容の文章を次々に書いていく作業への適不適は、その人の体が持っている性格や能力のありかたで、ほぼきまってくると僕は思う。

 文章は頭のなかで作るとは言っても、その頭は体と密接につながってひとつなのだから、デスクに向かって椅子にすわり、脈絡と展開のきちんとあるときには感動すらともなう文章を、万年筆で原稿用紙に次々に書いていく作業は、体ぜんたいを酷使に近い状態で使う行為だ。体のどこにも支障をきたすことなく、そして体ぜんたいにとっては、ほとんどなんの苦痛もなしにこの行為を引き受け続けることが出来る性格、そして能力の体でないと、原稿用紙に文章を書くことは出来ない。ただし、コンピューターのキーボード操作で書く場合には、この法則はあてはまらない。

 万年筆は万年筆だけが問題なのではなく、僕という人の体、そして原稿用紙との相性の良さが、もっとも重要な問題となる。僕の腕や手、そして指の出来ぐあい、指で持ったときの万年筆ぜんたいのバランス、ペン先の感触、そこからのインクの流量、そしてそれと紙との親和性の高さといった、いくつもの要素が好ましいありかたでひとつにまとまらないと、どうにもならない。

 字の書きかたも十年たつと違ってくる。体ぜんたいの徴妙な変化とともに、その体によって書かれる字も変化していく。このような変化をも、万年筆と原稿用紙は、抵抗なしに許容し取り込んでくれないといけない。二百字詰め原稿用紙八百枚だと、小説ならほどよい一冊となる。原稿用紙を使いきることを兼ねて、万年筆で小説を一冊、手書きしようか。書き上げてなお原稿用紙が残るとしても、それは二、三十枚にとどめるというようなことも、書き手である僕の体の能力如何によっている。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

11月11日刊行! 『万年筆インク紙』

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自分の思考が文字となって紙の上に形をなす。
頭の中にうかんだ小説のアイディアをメモするための万年筆、
自分の思考をもっとも良く引き出してくれるインクの色、
そして相性のいいノートブックとは──。

作家・片岡義男が道具から「書く」という仕事の根幹について考えた
刺激的な書き下ろしエッセイ。


晶文社|ISBN:978-4-7949-6939-2 C0095|定価:本体1800円+税|四六判変型|288頁

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2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 万年筆 創作 原稿用紙 文房具 書く
2016年11月7日 06:00
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